Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ガンジーの直弟子 インドのパンディ博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  生死を超えてきた人は、一目でわかる。
 パンディ博士にお会いした瞬間、魂と魂が駆け寄った。そのとき、私は「人間」に出会った。
 博士は巌であった。信念が全身に凝結していた。
 博士は海であった。底しれぬ心の深さが、にじみ出ていた。
 その印象は、語るごとに、知るごとに、いよいよ鮮烈になっていった。
 この人を大切にせずして、だれを! この人を宣揚せずして、だれを!
 博士は故アタイデ博士(ブラジル文学アカデミー総裁)とともに、現代の″人権の丈夫″である。
2  「私の祖父は独立運動のため、絞首刑になりました‥‥」。高齢をおして来日した博士は、一家の歴史を語られた。それは、そのままインドの「自由への闘争史」であった。
 一八五七年、あまりにも残酷な抑圧に対して、インドの兵士が立ち上がった。博士の先祖もともに立った。「祖父は七人兄弟でした。五人が戦死。一人は行方不明。そして祖父は刑死しました。祖父の遺体が家に帰ってきた、その日、私の父が生まれたのです」
 財産も没収され、一族は故郷を追われた。大半が女性と子ども。昼は身を隠し、夜に歩いた。ある村に宿をとった日、悲劇は起こった。
 昼間だった。博士の父親は一歳。体を洗うため、祖母が小川に連れて行った。その間に、イギリスの遠征軍が村を襲った。家を、人々を焼き払った。一族三十五人が、ことごとく殺された。
 「こうして父と祖母だけが生き残り、命からがら逃げたのです」
 母子は生きた筆舌に尽くせぬ苦労で。この悲憤を、どうして忘れられょうか──父親も自由の闘士に育った。
 博士が生まれたその日(一九〇六年十二月二十三日)も、父は牢獄にいた。少年は父祖の怒りを体に刻んで成長した。
 博士は振り返って、言われた。もしも「二つの出会い」がなかったならば、憎しみのままに暴力革命に走り、祖父と同じように刑死していたにちがいありません、と。
 タゴールとの出会いが少年に人間愛を教え、世界を教え、ガンジーを教えた。ガンジーとの出会いが非暴力を教え、民衆を教え、人生を一変させた。
 タゴールは文化の園であり、ガンジーは民衆の大地であった。
 独立運動が高まっていた。一九一九年の新年(ヒンドゥ暦)、決定的な事件が起きた。パンジャブ地方の市民の集会に英軍が発砲したのだ。千五百人以上の死傷者が出た。もう忍耐の限界を超えた。
 民衆の命を虫ケラのごとく思っている政府を許せるものか!
 少年の血もたぎった。「ぼくもガンジーとともに戦いたい!」
 タゴールの紹介状を手にした十四歳の少年を、五十二戚のガンジーは、じっくり、頭のてっぺんからつま先まで見た。春、四月の午後だった。(一九二一年)
 「本当に、ここで生活したいのかい」「はい」「君はバラモン(カーストの最上位)だね」「そうです」
 ガンジーはアシュラム(研修道場)の所長に少年を託した。
 「立派に育て上げなさい。まず明日からトイレそうじをさせなさい」
 カースト制度の厳しいインドでは、ありえないことだった。
 「私は後年、しみじみと感謝しました。師は、バラモンに生まれ育った私から、民衆への優越感を取り除いてくれたのです。虐げられた人々と心を一つにすることを学ばせたのです」
 大衆から遊離するな。人々のなかへ行け。働け、尽くせ、奉仕せよ。大衆の友となれ、仲間となれ、一員となれ。繰り返し、師は教えた。身をもって教えた。
 しかし、その教えがいつも守られたわけではなかった。ガンジーは「国会に行くと、皆、大衆から遊離してしまう」と嘆いた。
 博士は違った。後にオリッサ州の知事になったときも(八三年~八八年)、「知事は、喜びも悲しみも、笑いも涙もわれわれと分けあってくれた」とたたえられた。
 私には、わかる。博士の喜びはただ「師匠の教えどおりに生きる」その誇りのなかにだけあることが数億の民に慕われたガンジーに「よくやった」と言われれば、それは数億の民にほめられたことになるのだ。それ以上の栄誉がどこにあろう。
 パンディ少年は走った。師との出会いの翌年には、十五歳で半年の牢獄生活。以来、投獄は八回、計十年近くにおよんだ。
 牢獄とタゴールの学園を往復しながら、少年は青年になった。
3  「心の大そうじをするのだ」
 奔走のなか、青年が目にしたのは、血が逆流するような、権力の傲りと残虐であった。そして「恐れを捨てた民衆」の崇高さであった。
 ペシャワルでは、無差別に四百人以上が虐殺された。しかし「背中に弾丸を受けている者」は一人もいなかった。だれもが前へ、前へと進んだのだ。
 ある州では、十人ほどの子どもが英軍のために木に逆さに吊るされていた。顔から血を出し、ほとんど意識がなかった。しかし近づくと、虫の息で声をふりしぼった。「‥‥革命万歳」
 三二年、ガンジーの逮捕に抗議してストライキが起こった。博士は町の人々とともに、騎兵隊の前に横たわった。警官が警棒で殴りつけた。騎馬が激しく踏みつけた。博士はひざを割られた。二度と、もとに戻らなかった。
 それでも博士たちは恐れなかった。
 ガンジーの力だった。一人の「大いなる魂マ ハ ト マ」の力が、人々を英雄に変えた。
 「心の大そうじをするのだ」。ガンジーが通ったあとには、人々の胸から、恐怖が消えていた。
 師弟のギアを合わせれば、どれほどの勇気が出るか、力が出るか、慈愛が出るか。それは、激動の民衆闘争を舞台にした壮大な実験であり、証明であった。
 四二年、博士は東ベンガルへ。千人のデモ行進の先頭には五人の少女がいた。「解散しなければ撃つ」。しかし少女たちは逃げなかった。旗を持った先頭の少女が撃たれた。三十秒間に二十八発の弾丸が小さな体を倒した。
 すぐに次の少女が旗を持った。また撃たれた。三人目、四人目、五人目。皆、胸に旗を握りしめていた。最後の少女が倒れたとき、旗はまだ立っていた──。
 博士は言われた。「独立が実現したときも手放しで喜ぶことはできませんでした。犠牲はあまりにも過酷でした」
 この涙を忘れまい。同じ二十世紀の市民として、今の私たちの自由も、この人々の闘争のおかげなのだ。
 ガンジーは教えた。「われわれは非暴力の兵士だ。魂の軍隊なのだ」「非暴力の実践のためには、いかなる苦労も惜しむな」
 師の死後も、博士は戦い続けた。「あらゆる人の目から涙をぬぐう」師の悲願は、まだ達成されていない。師が灯した光を消すわけにはいかない。
 博士は忘れなかった。あの「塩の行進」のとき、打たれでも打たれでも塩を握りしめて放さなかった婦人たちを。意識を失いながら病院で彼女たちは、まだ拳を固く握っていた。その手に握りしめていたのは、″侮辱された民衆が勝利する″その日への「希望」だったのだ。(一九三〇年、塩を専売にするイギリス政府に抵抗して、ガンジーは公然と塩税法に背き、海岸へ行進。海辺で塩をつくった。大衆がこれに続いた)

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