Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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平和の闘士 アブエバ 国立フィリピン大学総長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  なぜ日本人はアジアを尊敬できないのだろうか。その傲慢さゆえに軽蔑されることが、なぜ、わからないのだろうか。
 五十年前、一人の少年が父母を捜して櫓を漕いでいた。少年は十六歳。
 父母は、フィリピンを占領した日本軍に捕らわれていた。
 父──テオドロ・アプエバ氏は、侵略者に協力することを拒否し、レジスタンス政府の委員となった。後のガルシア大統領とともに働いた。
 母──ネナ・ヴェロソ・アブエバ女史は、レジスタンスの州婦人部のリーダーであった。三人の娘と四人の息子がいた。ホセ・アプエバ少年は二男。
 日本軍は長い間、父母を追いかけていた。かわりに父の母ローラ・カディア女史が、つかまった。アブエバ少年も弟もつかまった。
 兵隊は祖母と弟を連行し、アプエバ少年に伝えた。──父親に言ってこい。母と息子を返してほしければ日本軍に降伏せよ、と。
 数日後、弟が、よろめきながら帰ってきた。ほとんど、だれだかわからなかった。顔がふくれあがり、前歯は欠け折れ、体は傷だらけだった。
 弟の姿は、父への日本軍のメッセージだった。「もし抵抗を続けるならば、お前の母親も拷問し、殺すぞ」──。
 しかし、弟は、祖母から父への、ひそかなメッセージも伝えた。「私の身に何が起ころうとも、降伏するな。私は年をとっている。お前には妻もあり、七人の子どももいる」
 ゲリラ戦士とともに山に入っていた父母と家族が、一年後、とうとう逮捕された。離れていたアプエバ少年と弟を除いて。
 日本軍は父母を引き離し、拷問した。苦しみ叫ぶ声が、子どもたちのところまで聞こえてきた。
 彼らは両親だけを、いずこかへ連れ去った。釈放された幼い子どもたちの面倒は弟が見て、アプエバ少年は、父母を捜しに、いとことともに帆船で出発した。
 悲しい旅だった。
 父母と家族が捕らわれていた島に上陸した。アメリカ軍のフィリピン奪還の情報が広まっていた。日本の兵士は、だれもいなかった。
 父母が生きている″奇跡″を祈りながら、手がかりを求めて歩いた。
 「たくさんの人たちが日本兵に殺されて、崖から投げ捨てられた場所がある。そこへ行ってみたら」
 行くと、何人かが近くの丘の中腹で殺されたという。丘を登った。空には雲一つない。太陽が照りつけてくる。空き地に入った。向こうに茂みが見えた。
 ふと、何かが鼻につんときた。周囲を見回した。汚れた白いシャツが目に入った。ブルーの縦縞──父のものだと、すぐにわかった。茶色のドレスの切れ端。母のものだった。
 見覚えのあるロザリオやベルトの一部もあった。それでも信じられなかった。人骨が散らばっていた。集めた。頭蓋骨が一つ。また一つ。歯の特徴から両親のものとわかった。
 戦慄の事実。しかし少年は泣かなかった。涙も出ないほど、うつろで、押しつぶされていた。
 目を上げると、光る海がミンダナオの方向に広がっていた。やっと心が動き始めた。
 父母は自由への愛のために戦い、拷問され、虐殺された。父母は殉教者だ、この丘は殉教の丘だ──。
 だれかが「遺体は一週間か、それ以上、そこに放置されていたようだ」と言った。風雨にさらされ、鳥や動物にねらわれて──。
 遺骨と遺品を集めて、少年はまた船を漕いだ。祖国の海岸は美しかった。不思議なくらいに。
 一九四四年秋。すでにマッカーサー将軍が、レイテ島に上陸していた。
 上陸は十月二十日。両親の虐殺は十月二十三日であった。ほんの一足、″解放″は遅かったのだ。
 ──これはフィリピン大学のアプエバ前総長が私に伝えてくださった回想の一部である。
 「この物語は、半世紀の昔ですが、私の心に彫り刻まれており、忘れることは不可能です」
 何という残虐であろうか。戦争の狂気。権力の魔性。人間の獣性。鬼畜の行進。
 しかし、アプエバ博士は創価大学で、日本の再軍事化を懸念されながらも、こう講演されたのである。(九〇年四月)
 「私の両親は日本兵に殺されました。しかし、私をふくめ七人の子どもは、皆、日本を恨んではおりません。私は日本人が好きです。そしてフィリピン人も日本人も、平和を愛する気持ちは同じだと信じます」
 何という深き心であろうか。崇高なる信念であろうか。罪なき義人を殺した人々と、人間として何と雲泥の差であろうか。
 人間として──この基準で見るとき、今、日本は何と貧しく、卑しき国になってしまったことか。
 アプエバ博士は書いておられる。
 「日本の指導者は、第二次世界大戦において侵攻した国々で、日本が犯した重大な過ちを、今なお認めようとせず、謝罪するのを拒んできました。日本の歴史の教科書は、意識的に真実を隠し、悪事を正当化してきました。アジアの同胞は、この日本人の無神経さと不正直に、ひどい侮辱を受けたのです。
 一体、日本人は、多くの人が目の当たりにし、耐え、心に刻み、覚えている忌まわしい事実を、どう言い抜けようとしているのでしょうか」
 過去だけではない。博士はさらに、日本人による「略奪」と「暴行」と「搾取」が、今も形を変えて、フィリピンの人々を踏みつけにしていることを告発されている。
 フィリピンには、毎日の食事さえ満足にとれない人々が、たくさんいる。その人々の低賃金の労働に支えられて、日本をはじめとする外国企業と、現地の一握りの層だけが潤っているのである。多額の「援助」も、多くは民衆に届かず、日本企業等に還流される仕組みになっているといわれる。
 民衆は、自分たちの土地の豊かな森林、豊かな資源を、先進国のために失いながら、「働いても、働いても、人間としての最低限の生活さえできない」状況に追いこまれている。
 虐げている人々に本質は見えにくい。虐げられている人々には、よく見える。
 日本の繁栄は、第三世界の人々の犠牲の上に成り立っているのである。しかも、その事実を巧妙に隠しながら。
 これで、どうしてアジアの人々に信頼されるだろうか。
 アジアから孤立し、欧米からも疎んじられ──それでは日本は人類社会のどこに友人を得るつもりだろうか。
 人を踏みつけにしてでも、ただ「より豊かな生活」を追求する。その「つけ」は、孤立化とともに、日本社会の非人間化となって返ってくるにちがいない。
 途上国に対しても、日本の弱者に対しても、「同じ人間」としての共感と痛みを失った「魂なき大人たち」。
 指導者と社会の根底が、弱者への「いじめ」の心根になっているのである。
 子どもたちは社会の鏡である。「いじめ」問題の病根も、大人たち自身の生き方にあるのではないだろうか。
2  「日本はアジアから尊敬されなければ平和国家ではない」
 孤児となったアブエバ兄弟は力を合わせて、皆、立派に成長された。
 アブエバ博士はフィリピン大学、米ミシガン大学で学ばれたあと、フィリピン大学の教授に。ネパール、タイ、マレーシア、ベイルートでも活躍された。
 いずこにおられでも、優しかった父母の思い出が見守ってくれた。
 何をしていても、あの丘が原点だった。「平和を、平和を、平和を!」──もう二度と、あんな悲劇は、と。
 「私の人生の大変な皮肉は、東京の国連大学本部で働くようになったことです」
 ″父母を殺した国″で約八年間(七七年から八四年まで)、ご一家は東京に住まわれた。
 海原のごとき寛き心で友好を広げられながら。
 そしてフィリピンの「ピープル・パワー(民衆の力)」が爆発した八六年の民主革命以後、アキノ大統領を支えられ、八七年、フィリピン大学の総長に選出された。
 初めてお会いしたとき、博士は、あふれる思いを、こう語ってくださった。(九〇年四月)
 「歴史上、″戦争のリーダー″は、たくさんいました。しかし、″平和のリーダー″は少ない。私はそういう人を育てたいのです」
 同大学の卒業生は、フィリピンのあらゆる分野のリーダーとなることが約束されている。
 博士は言われた。
 「日本でいえば東京大学に当たるでしょう」
 「しかし私は、卒業生がリーダーとして、社会に対する責任を、どこまで自覚しているのか、わが国の諸問題を解決へと導く意欲はどうか──大学は、何よりも学生の″リーダーとしての内実″を深めなければならないと銘記しています」
 博士ご自身が、愛情深き「平和の人」であられる。創価大学の留学生らも自宅にまで招いてくださり、慈愛を注いでくださった。私が博士のご自宅にうかがったときは、こうも言われた。(九三年五月)
 「総長になって、一番悲しかったのは、貧しい家の学生が、ほとんど入学できなくなっていたことです」
 博士は授業料システムを改善し、裕福な家の学生は高く、貧しい家の学生は払わなくてもすむようにされたという。
 総長としてとくに力を入れたのが、国際交流のための「平和の家」であった。それは、少年の日の誓いの結晶でもあったのかもしれない。
 国家と国家の関係よりも、民衆と民衆の関係を、より深く、より広く。青年同士の交流、文化と文化の交流によって、「平和」の大河をつくるのだ、断じてつくるのだ、と。
 博士は、「平和の家」の開館式に私を招いてくださった。そして光栄にも同館を「イケダ・ホール」と命名してくださったのである。「日本とフィリピンの友情」の象徴として──。
 あいさつで、私は語った。
 日本の軍国主義者と戦った恩師(戸田城聖第二代会長)の心は「アジアの民衆から心より信頼されたとき、はじめて日本は平和の国といえる」であったことを。
 そして、日本人の一人として、一生涯、徹底して、アジアの人々に尽くしていく決心を。
 心が心に通わずして、何ができよう。
 フィリピン独立の英雄ホセ・リサールは、独立の成功を見ずに処刑された。
  私は、わが故国の上に輝き出づる暁を見ずに、死ぬ。暁を見
  ることの出来る諸君よ、君たちはそれを歓び迎えよ。そして、
  夜の闇に斃れた人びとのことを、決して忘れるな!
 との思いのままに──。
 「平和の暁」を見ることなく、「夜」に死なれた総長のご両親。
 壇上から私は、総長に贈った詩を引き、呼びかけた。
  彼(リサール)の思いはまた 時移り
  あなたの父上 母上が
  あなたは託された
  命の叫びではなかったか
3  総長がメガネを取られるのが見えた。こらえ切れないように涙をぬぐわれるお姿に、私は半世紀のご一家の歴史を、かいま見た。
  父母を捜しに──あの旅を総長は今なお続けておられたのだ
  父母を捜しに──それは平和を捜す旅だったのだ。
  総長が立たれた。
 「貪欲による傷つけあいに、人類は終止符を打とうではありませんか。信条、階級、民族による殺しあいに終止符を打とうではありませんか。『貧しき者が弱い』ゆえの争いに、『強いものが不公正である』ゆえの争いに、終止符を打とうではありませんか!」
 「平和の家」に、博士の叫びが響きわたった。「あの丘」に届けとばかりに。
 (一九九四年十二月十八日 「聖教新聞」掲載)

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