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日蓮大聖人・池田大作

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アジアの国際的知識人 王賡武(おうこうぶ) 香港大学学長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  つらくとも、忘れてはならないことがある。
 「史観が大事ですね」
 私は王賡武学長に言った。
 香港大学の学長公邸であった(一九九二年二月)。窓から見える緑に、南国の午後の日差しが優しかった。
 「そのとおりです。指導者が歴史を誤って理解していると、さまざまな決定に悪影響が出て、それが原因となって、さらに間違った方向へ社会が進むことになります」
 著名な歴史学者である学長の答えは明快である。
 話題の焦点は、戦争であった。
 香港に来るたびに、私は思わずにいられない。あの三年八ヵ月にわたる日本軍の占領時代を。
 「皇国史観──日本の軍国主義は、香港と中国を蹂躙しました‥‥」。私は、そう語りながら、指導者の「史観の狂い」の恐ろしさに、あらためて戦標した。
 四一年(昭和十六年)十二月八日、真珠湾攻撃と同時に、日本軍は香港の九龍半島に侵攻した。十四日には香港島への砲撃を開始。何の罪もない多くの民間人が死傷したことはいうまでもない。
 香港大学の学生たちも、イギリス軍とともに戦ったが、二十五日には無条件降伏した。日本陸海軍の入城──。
 それからの日本軍の野獣のごとき蛮行は、今も香港で語り継がれている。
 「まるで無法地帯でした」と証言する人もいる。
 このころ、約二百万人の方々が香港に住んでいた。日本軍の中国侵略の結果、多数の人々が大陸から逃れてきていたのである。
 香港を占領するや、日本軍は、住民用に備蓄されていた食料の倉庫を封鎖した。抗議した人間は断首された。
 食糧難が進むと、強制的に住民を放逐。その数は一説では数十万人にものぼった。追放のときも、残酷な暴力を振るい、船に乗せて海に投げこんだり、無人島に捨てたという。
 それでも食糧難は続いた。餓死した人が道ばたに転がっていることも珍しくなかった。飢えのため、売られる子どももいた。
 軍に没収されたのは食糧だけではなかった。財産も奪われた。抵抗のそぶりでも見せると簡単に殺された。子どもにまで拷問した。
 まるで全能者のごとく、いばり、傍若無人であった。
 民家を気ままに略奪し、女性を暴行し、人々は日夜、恐怖におののいて暮らした。
 追いかけられて、皆で草むらに隠れ、泣く幼児の口を押さえて殺してしまった母親もいる。皆を救うには他に方法がなかったのである。
 文字どおり、鬼畜であった。人々は「東洋鬼トンヨングワイ」「日本鬼ヤップングワイ」と憎んだ。その深い傷は今も消えていない。永遠に癒えることはないであろう。
 そのうえ香港の人々が許せないのは、半世紀後の今なお、日本の権力者が誠実な謝罪も対応もしていないことである。さらに、若き世代に、こうした歴史の事実を、きちんと伝えようとせず、むしろ隠そうとしているとしか思えないことである。
 今、日本から年間、百数十万人もの観光客が香港を訪れるという。そのうち、どれくらいの人が、こうした史実を知り、香港の方々の心を知っているだろうか。
 このままでは、香港の人々が、将来また、あの悪夢が再現されるのではと心配するのは当然であろう。
 私は学長に申し上げた。
 「政治家だけに将来をゆだねるのは、あまりにも危険です。民衆が賢明になり、力をもたねばなりません。
 民衆が世界の民衆と交流し、手を結び、平和への潮流をつくり出していくことです。一部の指導者に引きずられないだけの、力強い方向づけをしていくことです。そのために、私は仏法を基調にした平和・文化・教育の運動を続けているのです」
 香港大学、香港中文大学と創価大学との教育交流も、私はこの思いで道を開いた。
 もはや、国家と国家の争いに、民衆が巻き込まれではならない。
 そのためには、世界の人々の意識を、「自国」対「他国」という国家意識から、「各国の権力者」対「各国の民衆」という民衆連帯の意識へ変革しなければならない。
 国境を超えた民衆のネットワークをつくって、その力で、すべての国の権力を監視し、動かしていく以外にない。
 その彼方にこそ、世界連邦というべき地球民族の平和郷がつくられていくにちがいない。
 それが、国家主義の惨禍から学ぶべき歴史の教訓であろう。
2  指導者の「史眼」が未来を方向つける
 王学長も言われていた。
 「偉大な指導者とは、人々に『ビジョン(展望)』を示せる人です。そのためには『歴史』に目を向けなくてはなりません。(中略)だからこそ、本当の歴史学者は、偉大な指導者にも読んでもらえるような『正確な歴史』を書くよう努めているのです」(九二年十二月二十七日付「聖教新聞」)
 正確な歴史──この一言に含蓄があった。
 「史観」とは、結局は「人間観」である。そこに「社会観」「生命観」等も全部、ふくまれる。
 学長は若き日に、トインビー博士の『歴史の研究』に啓発を受けたという。
 「挑戦と応戦」の理論をはじめ、歴史の一部でなく、その全体を展望する英知に感銘したと言われていた。
 私とトインビー博士との対談の内容も、くわしく知っておられた。
 学長は、若き日から、″秀才中の秀才″である。
 マラヤ大学(後にシンガポール大学)で歴史・経済・英文学の学位を取得されたのは十九歳のとき。その後、ロンドン大学で哲学博士となり、母校で教鞭を執られた。
 三十三歳の若さで、マラヤ大学の文学部長に就任されている。その後、長くオーストラリア国立大学で極東史を教え、八六年、アジア最高の伝統校の一つ、香港大学の学長に就任された。文字どおり、アジアを代表する国際的知識人であられる。
 私は聞いてみた。
 「どうすれば学長のように頭が良くなるのでしょうか。何人かのお母さん方から、『頭脳革命』の秘訣を、ぜひ、うかがってほしいと『切実な依頼』があったのですが」
 「こんなむずかしい質問はありません」と学長は破顔されたが、「良き教師」について、こう語ってくださった。
 「教育者は、柔軟でなければなりません。人間は一人一人、千差万別だからです」
 「家庭教育は大切です。子どもを啓発し、つねに希望をあたえるような家庭が望まれます」
 「しかし、すべての家庭がそうでない以上、教師は、教育的に恵まれていない家庭の子どもをこそ大切にすべきです。その子が引け目を感じたり、ハンディ(不利な条件)に苦しまないようにするのが、教師の仕事です」
 温かい慈愛のお心であった。学長は、多くの公職で多忙ななかを、時間を見つけては学生とふれあっておられるという。
 お父さまも教育者であられた。
 「私が父から学んだ重要なこと──それは『教育とは、人間の心を開くものである』ということです。したがって、教育には国境はありません。どこまでもオープンです。教育は、人類のすべての人々に平等に貢献できるのであり、貢献すべきなのです」
 学長の言葉に熱がこもった。
 学長の磨き抜かれた「史眼」には、国境なき世界の「未来図」が、ありありと映っているようだった。
 そして、未来を見つめれば見つめるほど、「百年の計」として、人間教育に力を注がざるをえない。
 学長とは何度も、お会いしたが、中国革命の父・孫文のことも繰り返し話題にのぼった。孫文は、香港大学医学部の前身である香港西医書院の卒業生なのである。
 孫文の自伝によれば、すでに入学のとき、清朝を倒して民国を創建する決意を固めており、在学中も革命の同志を広げることに余念がなかったという。
 孫文もまた、「史眼」で「未来」を見つめていた。
 「世界の時流は、神権から君権へ、君権から民権へと流れて、こんにち、民権に流れつき、これにはどんな方法でもさからえない」(『三民主義』、伊地智善継・山口一郎監修『孫文選集』1所収、社会思想社)
 彼は、このビジョンに向かって突進した。そして「中華民国成立」で結ばれる自伝を、こう名づけることができた。
 『志有れば竟に成る』と。
 私は信ずる。世紀の潮流は「ヒューマニズム(人間主義)の拡大」へと進んでいることを。紆余曲折はあれ、その流れを、だれびとも止めることはできない。止めさせてもならない。
 ゆえに、「ヒューマニズム」を積極的に拡大する人こそ、必ずや、歴史の勝者となろう。
 一時の利害にとらわれて、その大いなる流れを押し戻そうとする人間は、歴史によって厳しく裁かれよう。
 香港──東洋と西洋が出あう町。世界市民の息吹あふれる都市。「人間」のエネルギーが渦巻く活気の都。
 偉大なる使命をもつ香港と香港大学が繁栄を続ける限り、歴史は決して、あと戻りしないにちがいない。
 (一九九四年十一月十三日 「聖教新聞」掲載)

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