Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「幻世紀のインド」へ駆けた若き宰相 ラジブ・ガンジー首相

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  宿命とは何だろうか。
 使命とは何であろうか。
 インドの若き宰相ラジプ・ガンジー首相に、お会いしたとき、貴公子そのものの風貌の裏に、私は、「命をかけている人間」の巌のごとき強さを直感した。
 ラジブ氏には、はじめ政界入りの意志は、まったくなかった。
 祖父は独立インドの初代首相ネルー。母は、その娘インディラ・ガンジー第三代首相。古くて新しい「世界最大の民主主義国家」の命運を担ってきた一家であった。
 インディラ女史が四、五歳のころ、マハトマ・ガンジーの指導のもと、一家をあげて独立運動に突入していた。
 家には年中、警官が押し寄せた。父も祖父も、やがて母も逮捕された。
 孤独な少女は、庭で、こんな人形遊びをした。″父″役の人形が、おもちゃの家で″娘″の人形と遊んでいる。そこヘ″警官″がやってくる。
 「パパはまた牢屋ですよ。さあさあ、おしたくよ」
 ″父″の人形は″警官″に連行されて、おもちゃの刑務所へ。″娘″が面会に行く。釈放されて″父″が帰ってくると、まもなく″娘″が叫ぶ。「パパ、また警察ですよ!」
 インディラ女史自身も二十四歳で入獄した。結婚して半年の新妻だった。猛暑と不潔といじめの牢に十一カ月半。当局は、婦人にとくに厳しかった。抵抗運動が婦人層に広がることを恐れていたからである。
 出獄の翌年、長男ラジブが生まれた。獄中のネルーは喜び、名前を考えた。ラジブとは、ヒンドゥー語で「蓮華」の意味という。
 その名のごとく、肌清く、温厚で、高貴な心の少年となった。
 一九四八年月二十九日。三歳半のラジプを連れて、インディラ女史は、マハトマ・ガンジーを訪ねた。
 麦ワラ帽子のガンジーは陽気に歓迎してくれた。彼はいつも快活そのものだった。床に座ったマハトマの足もとで、幼いラジプは、彼のつま先に花をささげて遊んだ。
 その翌目だった。マハトマが暗殺されたのは。狂信的なヒンドゥ青年の銃弾が鳴ったのだ。
 マハトマは主張していた。国家が宗教に関与したり、宗教が他宗教を暴力で排撃するかぎり、この国には自由も統一もない。冷静になれ、対話せよ、民主インドを守れ。
 この信念が、心狭き人々の反発を抱いたのである。
 のちにインディラ女史は書いた。「想像もしませんでした。歯のない口を大きくあけて笑う彼の笑顔を、二度と見られなくなるとは。彼からの『保護の光』を二度と感じられなくなるとは」(ザリア・マサニ『伝説インディラ・ガンジー』ハミシュ・ハミルトン社。参照)
 そして、だれも想像すらしなかった。あの日、集まった「三人のガンジー」が、三人とも暗殺の暴力に倒れる運命だったとは。
 ラジプ氏は長じて、インド航空のパイロットになった。動物や小鳥を愛し、芸術を愛する青年は、いわゆる政治家向きではないと、自他ともに認めていたようである。
 イギリスのケンブリッジで知りあったイタリア人のソニア夫人と六八年に結婚。ソニアさんは慣れぬ異国で苦労はしても、機長の妻として平穏な生活ができるはずだった。
 運命が急転したのは八〇年、ラジブ氏の弟サンジャイ下院議員が航空事故で急死したときからである。インディラ首相の政治的後継者と期待されていた弟の死は、ラジプ氏に政界入りへの決断を迫った。
 ソニア夫人は結婚後、初めて夫に反対した。義母の首相の苦労も目の当たりにしていた。
 民族・宗教・カーストの違いから、対立が流血として噴き出す、七億の大国。
 人口が半分だったころ、ネルー首相は「インドにはいくつ問題があるか」と問われて答えた。「三億五千万の問題がある」と。
 力を尽くし、身を削る以外に方法はなかった。それでも、裏切り、妬み、悪意の曲解が、何重にもインディラ首相を包囲した。
 「嘘の噂を流すのは、もはや産業のひとつと言ってもいいくらいです」(ドロシー・ノーマン編『インディラ・ガンディーの手紙』朝長梨枝子訳、朝日新聞社)
 ソニア夫人は語っている。「義母はひどく誤解されています。政敵が言うような『独裁者』などでは決してありません。国家のために生きた勇気ある女性でした。神経が、とてもこまやかで、心優しい人でした」
 その母が、警護官のシーク教徒の凶弾に倒れたのだ。(八四年十月三十一日)
 遺書が見つかった。忍び寄る死を、インデイラ首相は察知していたのだった。
 その中に「どんな憎悪もわが国とわが国民へのわたしの愛を覆うほど大きな暗い影を投げかけることはないし、どんな力も、この国を前進させようとするわたしの意志と努力を捻じ曲げるほど強くない」(同前)と。
 かつて「父ネルーから受け継いだ最大のものは」と問われ、「インド国民への大いなる愛情です」と答えた女史であった。
 その愛を貫くためなら「横になって死ぬより、立ったままで死にたい」(同前)と語った母であった。
 ラジブ氏しか、首相の座を継げる人はなかった。それは、母を奪った暗殺の危険をも受け継ぐことを意味した。氏は四十歳。
 嘆くソニア夫人の手を取り、抱きしめて夫は言った。「選択の余地はないんだ」
 氏もまた遺書を書いた。何が起ころうと、最後は夫人とともに永眠したい。二人の灰は、ガンジスに流せ──。
 私が会ったのは、その一年後であった。(八五年十一月一干九日、東京)
 死をも決意した人間に恐れるものはない。
 若き宰相は、「二十一世紀へ向かって」をスローガンに、前進また前進した。経済を開放し、外国の資本とハイテクを導入し、経済成長率を上げた。長年の懸案であった中国、そしてパキスタンとの和解も成し遂げた。
 折しもソ連にはゴルバチョフ書記長が誕生し、新世代による「新世紀への実験」が世界を変えつつあった。
2  人類に必要なのは「釈尊の慈悲」
 迎賓館での会見は、首相が国会演説を終えられた直後だった。
 「釈尊の『慈悲』の精神こそ、人類生存の必要条件であります」
 「人類は心の壁を取りはずし、一つの家族として繁栄しなければなりません」
 私は仏法者として、演説での、この「インドからのメッセージ」に共感を語った。
 首相はつねに主張されていた。
 「インドの非暴力の精神とそ、平和を求める世界の財産です」と。
 温かみのある笑顔澄んだ、大きな眼。優雅で毅然とした物腰。天からつかわされたかのような不思議な魅力がある方であった。
 「青年こそ未来そのものです」と期待を語り、「女性」の地位向上への熱意を語られる首相に、私は二十一世紀の曙光を見た。
 大宰相へと、ぐんぐん伸びゆくであろう若木の巨大な可能性に打たれた。
 しかし──九一年五月、悲報が世界を駆けた。選挙の遊説中に、近づいた女性テロリストの自爆によってラジブ氏が爆死したのである。
 危険を承知で、「いや、私は民衆のなかに入るのだ」と突き進んだ結果であった。
 インド中が、時を止めた。新世紀が遠のいた。人類が半旗を掲げた。
 マハトマの直弟子パンディ博士は「悲しみを言葉にするすべがない」と嘆いた。
 「使命の完成のために、彼は命を投げ出した。彼に報いる道はただ、インドが調和と兄弟愛で国の団結を守ることだ‥‥」
 私も、友人である博士とまったく同じ気持ちであった。
 翌年、私は訪印して、首相の慰霊碑に花をささげた。
 そして、ソニア夫人をご自宅に訪ねた最愛の夫を亡くされて九ヵ月。悲しみは癒えようはずもない。私は夫人の目を見つめて、せめてもの励ましを送らずにおれなかった。
 「人生には暴風雨があり、暗い夜もあります。それを越えれば、苦しみの深かった分だけ、大きな幸福の朝が光るものです。一番、悲しかった人が、一番、晴れやかに輝く人です」
 「運命を価値に転換してください。宿命を使命に変えてください」
 「むずかしいでしょうが、振り向かず、前へ、前へ──それが貴国インドが生んだ釈尊の教えです」
 夫人は、にっこりと、うなずいてくださった。私はうれしかった。
 首相に贈った詩「獅子の国母の大地」(本全集第41巻収録)をご夫妻で喜んでくださり、身近な人とともに朗読されたとも、うかがった。
 私は思い出す。インディラ・ガンジー首相の暗殺直前の「最後のスピーチ」を。
 「私が生きるか死ぬかは問題ではありません。生ある限り、私は使命に進みます。そして私が死んだなら、私の血の一滴一滴は、『自由』にして『分断されない』わが祖国を養い強める糧となるでしょう!」
 ラジプ首相も同じ決意で立ち、生死を超えて、駆け抜いていかれた。
 これほどの決意で、民衆のために戦う指導者が今、日本にいるのか。不幸にして私は知らない。
 宿命といい、使命といっても、究極は自分自身が決めるものである。わが人生を何のためにささげるのか。その一念の強弱で、宿命に泣く敗北の人生ともなれば、使命を光らせる崇高な人生ともなろう。
 ラジプ首相の慰霊碑で、私はこう署名した。
  偉大なる大指導者は
  悲劇的に見える時もあるが
  それは永遠に民衆を覚醒するための
  偉大にして
  壮大な劇なのである
 ニューデリーの空を仰ぐと、首相の、あの寛やかな笑顔が見えた気がした。
 (一九九四年十月十六日 「聖教新聞」掲載)

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