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日蓮大聖人・池田大作

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スペイン内戦の嵐を越えて ブリカル バルセロナ大学総長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  短い一言に、無数のドラマが凝縮している場合がある。
 バルセロナ大学のプリカル総長(会見当時)の一言がそうであった。「自由は、すべてのものを光で貫く──これが私どもの大学の精神です」そこに万感の思いがあった。
 バルセロナは、スペインのカタロニア地方の中心都市。カタロニアは、地中海の風と太陽が育てた光の国である。ぶどう畑。オリーブの森。小鳥の楽園。小麦の金の波。白雪をいただく遠き山々。皆が手をつないで大輪の花をつくる「世界一美しい踊り」サルダーナ。
 しかし、豊かなるゆえにか、カタロニアの歴史は、侵略者への抵抗の歴史であった。人々は戦った。「われらの文化」「私たちの大地」を守るために。
 あるときはフランスと。あるときはスペインの他の地方と。
 バルセロナ大学は、一四五〇年の創立。カタロニア文化の砦であった。由緒あるとの大学が一七ー四年には閉鎖される。カタロニアの自治を認めないフランス系の中央政権に抵抗したからである。
 カタロニアを挙げての十四ヵ月の戦闘のあと、バルセロナは陥落。「反抗の核」とされたバルセロナ大学は、山間の小さな町に追放された。バルセロナに戻ったのは、何と百三十年後のことである。自由のありがたさは、失ったときに、初めてわかるのかもしれないし、それでは遅すぎる。
 ひどかったのは、スペイン内戦(一九三六年~三九年)と、その後である。希望に燃えて出発したスペインの共和制は、ブランコ将軍率いる反乱軍と、将軍を支援するヒトラー、ムッソリーニによってつぶされてしまった。
 この若き共和国が、どれほど崇高な文化の息吹にあふれでいたか──。
 バルセロナでは九二年、オリンピックが開かれたが、その半世紀前、この地に「幻のオオリンピック」があった。ナチス主導のベルリン・オリンピックに反発しての「人民オリンピック」である。
 「人間を、信条や宗教で差別するような国(ナチス・ドイツ)にスポーツ文化を利用させてはならない!」。賛同した人々による準備が進んだ。「私たちには、空気をもっと清浄にする権利がある。世界を蓄積で埋めつくす権利がある」と。
 開会式の前日(一九三六年七月十八日)であった。カタロニアが生んだ天才音楽家パブロ・カザルスが、ベートーヴェンの「第九」の最終リハーサルをしていた。そのとき、ブランコ軍の蜂起が伝えられた。「一刻も早く避難してください!」
 カザルスは、オーケストラの団員に告げた。
 「『皆さん、われわれはいつ再会できるか、わかりません。、お互いにお別れを言うためにフィナーレを演奏しようではないか』(中略)
 『やさしき翼の飛び交うところ
 すべての同胞はちぎりをむすんだ兄弟』
 私(=カザルス)は涙で楽譜が見えなかった。(中略)全員楽器を各人のケースにしまって会場から通りに出ると、市民がバリケードを築いていた」(アルパート・E・カーン編『パプロ・カザルス 喜びと悲しみ』吉田秀和・郷司敬吾訳、朝日選書)
 共和国は、文化の力を信じていた。その理想が今、軍靴に踏みにじられようとしている。何という悲劇だろうか。
 内戦で、はじめ軍を支持するという過ちを犯した大知識人ウナムーノも、やがてフアシズムの非人間性を知った。
 サラマンカ大学での式典で、軍の大佐が叫んだ。「知性をやっつけろ!」
 ウナムーノ総長は静かに演壇から反撃した。
 「ここは知性の殿堂である」と。「この聖域を冒潰するものはお前たちだ。諸君は、十分すぎる野蛮な暴力をもっており、したがって戦いに勝つであろう。しかし諸君は、人を納得させないであろう。人を納得させるためには、説得しなければならないからである。そして説得するためには、諸君に欠けているもの、闘争における理性と正義とが必要である」(ヒユー・トマス『スペイン市民戦争』都築忠七訳、みすず書房)
 彼は軍に幽閉されて死んだ。
 人を「納得」させること。そこに知性の栄光はある。力や権威による押しつけは野蛮の表れである。ゆえに、大学がわずかばかりでも「権威主義」の錆を許すとき、みずから「知性の殿堂」を冒潰することになろう。
 大学だけではない。すべての指導者が、民衆に、きちんと説明をし、納得をさせる責任をもっている。それを自覚しない指導者は、すでに時代に取り残されているのではないだろうか。
 全世界が、この「暴力と文化の戦い」に注目した。有名な作家たちがやってきた。私も対談したアンドレ・マルロー氏は、体験を小説『希望』に書いた。人間の希望を抑圧する一切のもの、なかんずく「政治指導者たちが精神まで支配しようとしていること」が許せなかった。
 シモーヌ・ヴェイユ女史は流血の悲惨さに人間の宿業を見つめ、作家ジョージ・オーウケルは政治家たちのインチキを暴きながらも、絶望を拒否する「水晶の精神」を語った。各国から無名の青年たちもやってきた。「進歩的な人類全体の大義」に心を揺さぶられて。彼ら国際義勇軍の戦いは、ホメロスの英雄叙事詩のようだと称賛された。
 しかし、日を追うどとに敗色は濃くなった。それでも共和国は未来に顔を向けていたサン=テグジュペリは、マドリード戦線で「小さな学校」を見つけた。塹壕から五〇〇メートル離れた小さな丘の上、小さな障壁の陰に。一人の伍長がケシの花を手にして、ひげをはやした兵隊たちに植物学を教えていた。
 「教育」によって人類の夜明けを開く希望は、戦闘のさなかでも赤々と燃えていたのである。
 へムングウェイは『誰がために鐘は鳴る』で書いた。
 「やつら(=ファシスト)を退治することはできない。だが、民衆を教育し、民衆にフアシズムは恐ろしいものだと自覚させて、やつらが出できたら、それを見わけ、それに対抗するようにさせることはできる」(大久保康雄訳、『ヘミングウェイ』6所収、三笠書房)
 バルセロナの陥落が迫ってきた。絶えまなく空襲が続いた。市からの撤退が始まっていた。そんな極限状況で、バルセロナ大学は何をしたか。大学は最高の文化と信ずるものに敬意を示そうと決めた。パブロ・カザルスに名誉博士号を贈ることにしたのである。
 教授たちは家族を避難させながらも、みずからは危険を冒して授与式に集まってきた。名誉博士号の証書は印刷する時間もなく、手書きであった。
 爆音のなかでの質素な儀式。それは、権力に屈しないバルセロナ大学の心意気を示した荘厳な歴史的式典であった。
 敗北──一九三九年一月から二月にかけて、バルセロナの人々は、フランスへと、雪と氷のピレネー山脈を越えた。その数、四十万とも五十万ともいわれる。それは「一つの死からもう一つの死へ」の行進だった。
 水も食糧もない難民キャンプで弱った人々は死んでいった。そのなかには、村を去るときに拾ってきた一握りの土を固く握りしめている節くれだった手もあった。
 「土」は、愛する故郷そのものであった。
 亡命者のなかに、カタロニア自治政府のコンパニース大統領もいた。フランスがナチスに占領されたあと、彼は祖国のファシストに身柄を引き渡されてしまった。拷問、処刑──銃殺隊の前に立って、彼は静かに靴をぬいだ。靴下もぬいだ。「両足を故郷の大地につけたまま死にたい」と。
 胸の白いハンカチが赤く染まったとき、彼は倒れた。最後の息は「カタロニアのために‥‥」だった。
 このとき、だれが人間としての勝者であったろうか。撃たせた独裁者か。撃たれた彼か。
2  教育とは点火、教師の胸に炎はあるか
 カタロニアの人々には命をかけて伝えるべき文化があった。文化を生んだ大地への熱愛があった。
 そのなかから創造の天才たち──ピカソが、ミロが、ダリが、ガウディが育った。狭いナショナリズムでなく、世界に開かれた人間性が開花した。
 「教育とは点火すること」である。教師に真理への燃え上がる炎があれば、学生の探究心にも火がつく。教師に文化と美への情熱があれば、学生の創造力も燃え上がる。
 教師の胸に、報酬も名誉も特権も、一切がなくとも、これだけは教えたいという何かがあるかどうかである。学生の胸に、どうしても、これを知りたい、学びたいという渇仰があるかどうかである。
 火花が散るような人間と人間のつながりのなかからこそ、時代を先どりする創造的人間は生まれる。断片的な知識を頭に詰めこむだけでは、人格なき機械のような専門人を生産するだけであろう。そうした魂なきエリート教育の恐ろしさは今、社会の混乱が雄弁に警告しているのではないだろうか。
 内戦後、カタロニアの人々は自分たちの言葉、カタロニア語さえ公的に使うことを禁じられた。「しゃべるな」ということは、「人間として認めない」ということである。
 長い長い冬であった。
 ピレネーの山越えから四十年後(七七年)。亡命政府の首長、七十八歳のホセ・タラデージヤス氏が帰ってきた。バルセロナの町は歓呼とカタロニアの旗であふれた。氏は承認されたカタロニア臨時政府の大統領に就任した。
 ブリカル総長は、総長職の前、同政府の事務局長であった。総長は自由の春をかみしめた。
 国際義勇軍に加わったイギリスの若き詩人ジョン・コーンフォードは内戦での死の前に書いた。
  おお、手遅れにならぬうちに分かってくれ、
  戦わずして自由が守られたことはないことを。
     (『武器を理解せよ 傷を理解せよ』小野協一訳、未来社)
 日本では、自由を脅かすものは、あるいは特定の独裁者ではなく、既成の状況になし崩しに追随していく指導者層の卑怯さかもしれない。だからこそ、状況に動かされるのではなく、状況をつくり出していく「気骨ある人間」の育成が必要なのである。
 ブリカル総長は、ヨーロッパ大学評議会の副会長。総長は言われた。「評議会で私たちは確認しました。『今日の大学は、未来の国家の縮図である。そこに未来の社会が映し出されている』と──。
 今、日本の大学はどうであろうか。創造力の火は燃えているか。民衆への愛情は燃えているか。
 (一九九五年六月四日 「聖教新聞」掲載)

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