Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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平和学の父 ノルウェーのガルトゥング博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  平和学──何とすばらしい学問だろうか。人類にとって、とれほど必要な学問があるだろうか。
 戦争は、なぜ、だれによって起こるのか。どうすれば防げるのか。どうすれば万人が幸福に向かって自由に生きられるのか。
 この切実な聞いに真正面から取り組んだのが、世界の「平和学の父」ヨハン・ガルトゥング博士である。
 博士の令嬢イレーネさんが幼いころ、核兵器について、こう言ったという。
 「パパ、すごく恐ろしくて強力な爆弾があるって幼稚園で聞いたんだけど、その爆弾で私たちは死んでしまうの?」
 冷戦下の当時、「そんなことはないよ」と、はっきり否定することが博士にはできなかった。
 博士は、一握りの無責任な権力者が、幼い子どもたちにまで恐怖感をあたえている現実に、あらためて怒りを覚えた。「彼らに、そんな権利があるものか!」と。
 博士の平和研究の原点には、こうした怒りが燃えている。
 博士が九歳のとき、祖国ノルウェーは、中立を表明していたにもかかわらず、ドイツ軍に突然、侵攻され、占領された。(一九四〇年四月九日)
 何という理不尽。何という暴力。
 首都オスロの副市長で、医師でもあったお父さんはナチスによって強制収容所へ入れられてしまった。
 博士は、私に語ってくださった。
 「全ノルウェーを、とりわけ私たちの小さな家庭を苦しめた、あの激しい狂気。どうしたら、あのような恐ろしい出来事を回避できるだろうか。どうしたら、ヨーロッパ全体のカルマ(宿業)を改善できるだろうか──その方法を見つけ出したかったのです」
 博士の家庭は、おじいさんも、お父さんも医師。お母さんは看護婦であった。
 「家庭全体が、人々の病の治癒に取り組んでいました。その雰囲気のなかで、私は『課題があっても、それは必ず乗り越えられる』という楽観主義を身につけました。とくに母は『永遠の楽観主義者』でした」
 いつの世も、母の影響は絶大である。
 博士は医師になるかわりに、戦争・暴力という「人類の病」を研究する医師になった。
 しかし、道は前人未到であった当時、平和学という学問はない。平和研究者という職業もない。
 しかも、社会と人間を総合的にとらえなければ「平和」は解明できない。自然科学と社会科学の二つの学部で並行して研究したこともあった。
 苦しみに負けぬ母から継いだ「永遠の楽観主義」が、博士の工ネルギーだった。
 そして二十九歳の年、「オスロ国際平和研究所」を創設されたのである。
 当時、世界に平和を研究する機関は一つもなかった。戦略を研究し、武器を開発する機関は数えきれぬほどあったにもかかわらず。
 「しかし今や、たとえば八九年の国際平和研究学会には、何と六十二カ国・四百人の平和研究者が集いました。そのうち六十~七十人は私の教え子でした」
 先覚者の喜びが、博士の声に、にじんでいた。
 博士を一躍、有名にしたのは「構造的暴力」という発想である。
 ──平和とは、たんに「戦争(直接的暴力)がない」状態ではない。それは消極的平和にすぎない。
 人体に譬えれば、「病気で倒れていない」だけで「健康」とはいえないのと似ている。
 一切の差別、抑圧、貧困、飢餓、搾取、人権侵害。家庭から国際社会まで、制度の構造がもつ暴力(構造的暴力)がある。
 また、そうした暴力を容認し、正当化する「文化的暴力」もある。
 それらを克服してこそ、積極的平和はある。「人間が人間として、自分を十分に開花させる機会を奪われないこと
 」それが博士の一言う「平和」であり、「人権」の基本である。
 構造的暴力の代表として、主に資本主義国による「搾取」と、主に共産主義国による「抑圧」の二つを挙げ、博士は、これを現代の二つの代表的な病気に譬えられた。
 「『抑圧』と『心臓・血管の疾患』は、どちらも循環を妨げる点で似ています。
 『搾取』と『ガン』は、社会または人間という組織体の一部が他の部分を犠牲にして生きている点で、よく似ています」
 大事なことは、博士が徹して「民衆の幸福」に基準を置かれていることであろう。その眼は、表面の繁栄などにごまかされない。
 「人々の『苦』と『楽』の比率がどうなっているのか。これのみが絶対的な視点です」
 「一切を『生命の法』に照らして、絶えず再検討すべきです」
 再検討したとき、日本は、はたして「平和=健康」な社会であろうか。平気で市民の人権が侵害され、国内外の民衆の声が政治に生かされず、子どもたちさえ生きる力を弱めている──この国が病んでいないと言えるだろうか。
2  恐れられた「市民のモラル・パワー」
 博士は、行動の人でもある。
 信念のため「兵役拒否」をし、半年問、入獄されたこともある。
 訪問国は、「百二十カ国を超えたところで数えるのをやめました」。
 冷戦時代には、社会主義国に行くだけで批判された。私にも経験がある。しかし「対話」しなければ何も変わらない。「対峙」しているだけでは臆病である。博士は勇敢だった。
 博士が六八年、東ドイツで講演したときである。チェコへの軍事介入を批判するや、会場の後ろのドアが開いて、屈強な黒服の男二人が現れ、博士の両手両足をつかんで演壇から引き離した。博士はマイクにしがみついたが、たちまち黒い車に押しこまれて空港へ連行され、国外退去になったという。
 その東ドイツが約二十年後、崩壊した。その理由について語っておられたことが忘れられない。(九〇年十月)
 「あたえられた情報だけを見ていたのでは、わかりません。政治家の発言を、そのまま報道することが多いからです。もっと市民レベルの情報が必要です。
 じつは東ドイツの指導者たちが何を一番、恐れていたか。彼らは西側の指導者たちをではなく、むしろ、女性を中心とする自国内の少数の平和主義者たちを恐れていたのです。
 モラル・パワー(道徳・精神の力)が低下していた彼らにとって、信念のためには、みずからを投げ出す覚悟のある人々が怖かったのです。それは彼らでさえ、こうした平和運動のほうが正しいと、心の中では知っていたからです。
 このように『市民のモラル・パワー』を権力が恐れている国に、もし創価学会のような平和団体があったならば、きっと恐れられ、目をつけられていたことでしょう」
 深まりゆく秋の京都。丹精された日本庭園を、ともに見つめながら、私は博士の洞察力に感銘した。博士は、日本社会の現状を百も承知のうえで、こう言われたのである。
 博士は、平和の探究からガンジーの非暴力闘争の研究に進まれ、ガンジーの「私は仏教徒かもしれない」との一言に導かれて仏教の探究に入られた。
 そして「世界のあらゆる思想のなかで真に『平和』を説き明かしているのは、仏教以外にない」と結論されるにいたった。
 「思想と英知の体系としての仏教は、地球的諸問題を解決するのに必要な知恵と思考のパターンを備えている。仏教は世界の政治文化を変革できる思想であり、本来『変革の宗教』であった。
 しかし、多くの仏教徒は、そのことを自覚して行動していない。創価学会だけが、思想と行動を結びつけた、きわめて刺激的な例外である」
 博士は、私と創価学会に注目された理由をこう語られている。
 博士は初め、多くの日本人から、学会の悪口を聞いたという。しかし博士は、真の学者であった。「私は自分の目で確かめます」
 こうして博士と私は出会い、対話を重ねるごとに、「仏教と平和は表裏一体」という認識を深めあった。
 対談集も発刊した。タイトルは『平和への選択』(本全集第104巻収録)と決めた。
 「平和は受動的にあたえられるものではなく、意志的に『選択』するもの」だからである。
 平和社会、人権社会、健康社会。その目標へ向かって、絶えず賢明な選択を重ねていかねばならない。
 民衆が政治を監視し、あらゆる分野の指導者を動かしながら、社会の体質を健康へ、健康へと変革しなければならない。
 私は博士に申し上げた。
 「結局、平和への王道は、民衆が強く賢明になる以外にありません。私はこの一点にかけています
 博士は、わが意を得たりとばかりに、にっこりと、うなずかれた。
 揺れる豊かな銀髪が、「平和の人」の知性と優しさに、とてもよく似合っていた。
 (一九九四年十月三十日 「聖教新聞」掲載)

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