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日蓮大聖人・池田大作

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信念の人 サッチャー英国首相

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  サッチー前英国首相は、シェークスピア劇の登場人物のようである。
 行動は鮮烈。言葉は率直。個性は、くっきりした輪郭を描き、日々これ完全燃焼のドラマであった。
 「さ、急がう、人間が怠けてゐれば、運の方でも転寝してしまはう」(「へンリー四世」福田恒存訳、『シェイクスピア全集』6所収、新潮社)
 ともかく一分一秒も無駄にしたくない、が信条。これほど働いた首相はいないと定評がある。週七日、毎日十九時間労働とも言われた。それで在任十一年半を走り抜いたのだからタフである。歩くのも人の倍の速度。
 体力だけではない。信念を貫いて一歩も引かない精神力は「世界一強い女性」「鉄の女」などと評された。当然、敵も多かったが、女史は不退転であった。
 教育大臣のころ、ある官僚が「この政策は人気がないようですが」と具申すると、「人気があるかどうかではありません。それが正しいかどうかを聞いているのです」と、たしなめたという。
 たしかに、批判など気にしていたら何もできない。あらゆる意見に耳をかたむけたうえで、ひとたび決断したら、あとは迷わず実行するしか道は開けない。
 「いちばん大事なことはな、己れに忠実なれ、この一事を守れば、あとは夜が日につづくごとく、万事自然に流れだし、他人にたいしても、いやでも忠実にならざるをえなくなる」(「ハムレット」福田恒存訳、前掲全集10所収)
 事実、女史はつねに毀誉褒貶に囲まれていた。しかし批判する人は多くとも、そのなかに彼女ほど強い信念と行動力をもった人は少なかったのである。
 辞任(一九九〇年十一月)の半年後のアンケート調査では、戦後の歴代首相のなかで第一位という評価をかち得ている。ちなみにチャーチルは四位であった。
 私は二度、お会いした。
 はじめは、ダウニング街十番地(首相官邸)である。ロンドンは心おどるメイフラワーの季節だった。(八九年五月)
 「ようこそ、いらっしゃいました」エメラルド・グリーンの装いで、にこやかに迎えてくださった首相は、温かく、こまやかな気配りの方であった。謙虚なものごしも印象的である。
 国会初当選(五九年)のときには、選挙戦でともに働いてくれた人たちに、長文の礼状を、すべて手書きで送った女史である。
 話が、お父さんのことに移ると表情がいっそう、柔らかくなった。
 「お父さまが生きておられたなら、首相は何と言われますか」
 「そうですね。きっと私は言うでしょう。『あなたの教えを私はベストを尽くして実行してきました‥‥』と」
 首相にとって「父が人生の師であり、政治の師」であった。
 「父の教訓は、『ベストをつくせ。たとえ失敗しても、もう一度トライ(挑戦)せよ。そしてふたたびベストをつくせ』でした」
 首相の実家は、中部イングランドの田舎町グランサムの食料品居。父は一徹な苦労人で、のちに町長にまでなった。読書家でもあり、時事問題をふくめ、娘に、あらゆる話題を語った。
 週日は身を粉にして働き、日曜日は熱心に信仰の活動に打ち込んだ。女史は学校に行き始めると、友人の家庭が日曜には好きなことをして遊んでいることを知った。
 「私も同じようにしたい──」
 すると父は言った。
 「他の人がやっているからという理由で、まねして同じことをしてはいけないよ。人との違いを恐れてはならない。やるべきことを自分で決め、必要なときは他人を説得し、リードしてあげなさい」
 自分の足で立て。″精神の自由″を持て。この教えが女史の哲学の土台となった。
 女史は強く言われた。
 「民主主義を多くの人は『権利』と考えています。しかし民主主義の根本は、自分の『責任』を果たすところにあります。責任とは、家族への責任、社会への責任、そして世界への責任です」
 民衆一人一人が自立して、自分の責任を実行していく。その結果、全体が繁栄していく。首相は、しばしば国家主義者のように誤解されたが、「はじめに個人ありき」が、その社会観であった。
 個人の自由を統制する国家の介入に反対したのも、この哲学からである。国家の権限を民衆に移し、国家を「民衆をコントロールする主人」から、「民衆の自由な活動に奉仕する下僕」にするのが目標であった。
 ″英国病″と呼ばれた長期停滞の原因も、「だれかが最後は何とかしてくれるだろう」という甘えにあると見て、それまでの社会主義的政策に″荒療治″を加えた。
 憎まれ、たたかれたが「目的は経済という手段をとおして、人心を変えることです」と、ゆずらなかった。その評価については、歴史の審判に待つほかはない。しかし、改革への女史の真剣さだけは、だれも否定できなかった。
 ゴルバチョフ氏がソ連共産党書記長に就任する前、いち早く「一緒に仕事ができる人」と氏を評価したのもサッチャー首相である。氏とレーガン米大統領を仲介し、冷戦終結に大きな役割を果たした。
 女性ゆえの差別もあったようだが、女史は決して「無理だ」とか「大変だ」とか口にしなかった。それも父の教えであった。状況が厳しくなるほど、彼女は勇み立ち、運命に挑戦した。
 「罪が運勢にあるんぢゃなくって、我々の心にあるんだ」(「ヂューリヤス・シーザー」坪内逍遥訳、『シェークスピヤ全集』創元社)
2  「何とかなる」は私の流儀ではない
 女史との再会は二年後であった。(九一年六月)
 「人生は六十五歳から始まります。私は未来のために働きます」との首相辞任のさいの有名なスピーチから七カ月。その言葉どおり、新オフィスでの女史は意気軒高であった。
 「私の樹は、どうなっていますか?」。開口一番、前回約束した植樹について聞かれた。私どものイギリスの文化拠点タプロー・コートに首相の樹が順調にそだっている。そう伝えると、快活な少女のように、にっこりされた。
 植樹といえば、女史は「政治とは、われわれの子孫のために木を植える作業です」とも言われた。
 現代は、一時の人気とりで動く無責任な指導者が多すぎる。そうではなく、どんな烈風があろうと、今、勝利の苗を植える。そのビジョンと実行力が「歴史」をつくるのである。
 「何とかなるというのは、私の流儀ではありません」と言われたこともある。使命感の人であった。熱い心の人であった。ゆえに人の何倍も充実して生きた。
 「女性は、ものごとを長期的に見ます。自分の子どもたちが成長して入っていく世界に関心を持っているからです」とも。
 この″母の心″を、最初の語らいでは、こう語っておられた。
 「私の母は、とても働き者でした豊かな家ではありませんでしたが、子どもたちのため、人々のために働き、つくしていました。その姿を通して『他の人のために自分の人生をささげる人』の模範を示してくれたのです」
 女史も模範を示された。女性の偉大な能力を証明された。大きく開かれたこの扉を通って、無数の女性が生き生きと続くことを私は願う。
 そのためにも、女史を育て支えた多くの英国紳士の公平さ、心の寛さに、日本の男性は学ぶべきではないだろうか。
 (一九九五年三月五日 「聖教新聞」掲載)

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