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日蓮大聖人・池田大作

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大学革命をめざすハーバード大学学長 ルデンスタイン博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  ハーバード大学に着くころ、夜来の雨が上がった。
 初秋の木々が、枝に宝石のような水玉を光らせていた。大樹の木の間を、リスたちが忙しそうに走っている。
 一九九一年の九月。ケネディ政治大学院の招聘による講演を行うのに先立って、私はルデンスタイン学長を表敬訪問した。
 学長室のあるマサチューセッツ・ホールは、大学に現存する最古の建物である(一七二〇年建造)。質朴なたたずまいのホールを入ると、約束の時間の少し前、学長が単身、部屋から出てこられた。お会いした瞬間、温かいものが流れた。
 人なっこい笑みを浮かべて、丁重に歓迎してくださる。淡々として、まったく飾らないお人柄である。高位の人の威圧感もなければ、つくった慇懃さもない。
 人格は、まるで一個の芸術品を見る思いがした。
 招じ入れられた学長室も質素で、机の上は、付箋やメモがいたるところにつけられた書類の山であった。まさに「仕事をする人」の部屋である。
 学長は、私にはソファをすすめられ、ご自分は「これが学長用の椅子になっています」と小さな背もたれだけの、かたい木の椅子に座ろうとされた。
 「それはいけません」。私は、お願いして、ソファに座っていただいた。懇談の間も、終始、軽く頭を下げたまま、礼儀正しさの模範のような姿であられた。
 このとき、第二十六代の学長に就任されたばかり。地元紙が氏の就任は「ハーバードの幸運」と呼んだことが誇張でないことがわかった。
 苦労が人を磨く。氏は初の″庶民出身″の学長とされる。
 亡きお父さまは、コネチカット州の獄舎の看守をされていた。キエフ出身のロシア系ユダヤ人であった。お母さまはイタリア系で、学長就任のときも、パートのウエートレスをされていた。
 少年時代について、学長は「次の食事をどうするかという瀬戸ぎわにまではいかなかったものの、経済的には、ぎりぎりのところにいました。父は、夜も週末も別の仕事をしていました」と回顧されている。
 だから今も「ただで手に入るものは何もない、という意識があります」と言われる。
 学長になったとき、こう評価された。「エリートだけが思いどおりの教育をわが子に受けさせられる時代にあって、ルデンスタイン学長は、全階層のための教育を考えることができる人物である」と。
 ハーバード大学には奨学金制度も多いが、それでも学生や親の経済的負担は増え続けている。学長は、二十一億ドル(約二千百億円)という莫大な寄付金を集めるために、身を粉にして働かれた。優秀な青年が、経済的理由で勉強を続けられないような不平等があってはならない──青年へのあふれる思いが学長を駆り立てたのであろうか。
 九四年末、学長が病気で休職された。過労とのことであった。すぐに、お見舞いの手紙を送った。
 就住以来、三年余、一度も休暇を取られていなかったという。週百二十時間、日曜をふくめた毎日十七時間も働いてこられた。学長は六十歳。それまでもったのが、不思議なくらいである。
 無理はしていただきたくないが、指導者として、全身全霊で職務に打ちこむ姿は崇高である。
 学長は、夜も、いろいろな人々からの便りにみずから返事をしたため続けておられたという。
 私は諸葛孔明の無私の精励ぶりをたたえた「鞠躬尽瘁」という言葉を思い出す。親鳥が、自分の身を犠牲にして雛を守ろうとする、大いなる愛を思い出す。
 今の世の指導者に、なんとこの精神がなくなってしまったことだろうか。
2  大学は「大学に行けなかった庶民」のためにある
 大学は、社会の指導者をつくる場である。しかし、「大学はもはや、知識ある野蛮人をつくっているだけである」と言われ、「権威に従順なロボットの生産工場になった」とさえ嘆かれている。
 問題は、大学で「何を学んだか」ではない。「どんな人間になったか」である。大学を出たために、大学に行けなかった庶民を見下すような人間になったならば、いったい何のための学問か。
 大学は、大学に行けなかった人々のためにこそあるのだ。そう言えば、言いすぎであろうか。
 近代ハーバード大学の父エリオット学長は「大学は民衆のためにある」「ハーバードの精神は″奉仕″の一語に尽きる」と言った。
 「われわれは行動する人間を育てるのだ。公共の利益に大きく貢献する人を世に送るのだ。われわれは漫然とした世の傍観者、人生のゲームの見物人、あるいは他人の労苦を口うるさく批評する評論家などを養成することには関心を持たない」(R・N・スミス『ハーバードの世紀』村田聖明・南雲純訳、早川書房)
 民衆への「奉仕」という根本の哲学を教えること。大学の指導者自身が身をもって「奉仕」を実行すること。それこそが、模索されている「大学ルネサンス(復興)」の基本ではないだろうか。
 ルデンスタイン学長は、イギリス・ルネサンスの文学がご専門だが、当時も大転換期。激動ぶりは現代に通じている。
 変化の激しい時代に教育はどうあるべきか──学長は「知識」とともに、「確固たる人生観」を学生に身につけてほしいと語っておられた。
 「確かな人生観があれば、環境の変化にも柔軟に適応でき、つねに成長していくことができます。知識は、どんどん変化していきます。つねに学び、つねに成長することが求められているのです」
 知識と信念──学長ご自身がこの二つを備えた方であられる。有名なエピソードがある。
 七二年の春、三十七歳の氏はプリンストン大学の学生部長であった。学生たちがある研究所を封鎖しようとして、研究所の職員と、けんかになっていた。氏は仲裁に入った。そのとき、職員が氏のあごを殴った。横転した氏の写真が大々的に報道されてしまった。
 「さぞかし、腹が立っただろう」。同僚が言うと、「いや、彼は間違って、ぼくを殴っただ。あれは、その場の緊張を静めてくれたよ」
 「これがルデンスタイン流なのです。彼がいらいらしたり、怒ったり、平静を失ったのを見たことがない」と人々は感嘆した。
 学長は、あなたが発揮できる一番強い力はと問われて、「何より私は『聞きたい』」と答えている。
 学長の魅力を室内楽に譬えた人もいる。四重奏のように、他の人の音に耳をかたむけながら、それに自分の音を調和させていく──。
 高校教師である令嬢のアントニアさんは「父は世界を『全体的に』見ています。人々がたいに作用しあっている模様を。父は人々がともに働けば、必ずものごとを成しをげられるのだと感じているのです」と語る。
 人々の力を引き出す名人。これこそ現代の求めるリーダー像であろう。
 「教育の大統領」に、庶民の心を知る人を選んだ。それ自体、時代の最先端を走る同大学の英知を象徴していよう。
 日本も謙虚になって「指導者革命」に本気で取り組まなければ、学歴社会が進むほど、冷たい傍観者や評論家だらけの国になってしまうのではないか。そう私は憂えている。
 (一九九五年二月五日 「聖教新聞」掲載)

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