Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「写真で戦った兄弟」 コーネル・キャパ氏

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「その瞬間からです。私の人生が変わったのは」
 コーネル・キャパ氏は、兄ロバート・キャパ氏の計報を聞いた瞬間を語ってくださった。
 そのころ、兄は、すでに「世界一の戦争写真家」と評価されていた。
 スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦、イスラエル独立戦争──一九三〇年代から四〇年代を通して、もっとも激しい戦闘の最前線につねに彼ロバートの姿があった。
 「戦争はね、自分の頭を撃たれる危険を冒さなきゃ撮れないのさ」
 彼は大胆だった。
 「もしも、いい写真が撮れないとしたら、近寄り方が足りないからだ」
 「兄は三五ミリのレンズを使っていました。だから、かなり近づかないと、兄のような気迫のともった写真は撮れません。大きな勇気が必要でした。兄は、そういう男でした」
 銃弾の飛び交うなかで、倒れる兵士を撮り、苦痛にうめく傷兵を撮った。逃げまどう民衆。幼児の顔にまで「絶望」が刻まれた戦場の村。これが戦争だ──。
 世界に「真実を」、ただ「真実を」。そのためには、自分の命を懸けるしかない。だれよりも人生を楽しみ、愛した彼は、フォト・ジャーナリストとしては、だれよりもわが身を危険にさらした。
 報道の「自由」といっても、自分の命で購い、戦い取るしかなかった。
 コーネル氏と一緒に、聖教新聞社のロビーに展示された″兄弟展″の写真を見た。ロバートの作品のなかに、連合軍の攻撃で畑を焼かれたドイツの農民たちの姿があった。
 ユダヤ人であり、自由主義者である彼は、ファシズムを心から憎んでいた。祖国ハンガリーの叔父の一家も、友人も、強制収容所で殺された。
 それでも、彼が人間を見る目は、敵・味方という区分を超えて、ドイツの民衆の悲しみに注がれていた。
 私は言った。「わびしさ、悲しさ、苦しさ、哀れさ──戦争裁判を百日間続けるよりも、鮮やかに戦争の悪を裁き、訴えています。百万の言葉に勝る証言です」
 ロバートは、いつも、一番苦しんでいる民衆と同じ高さから、ファインダーをのぞいていた。コーネル・キャパ氏が、こんな話をしてくださった。
 四三年十月。連合軍のイタリア・ナポリ解放に加わった。ドイツ軍は撤退の前に町を破壊していた。
 ある小学校での光景に、ロバートは胸をふさがれた。占領期の最後に、高校生が銃と弾丸を盗んでドイツ軍と戦ったのだ。
 二十人の若者が枢に入れられて校舎に横たわっていた。枢が小さくて、よごれた足がはみ出ていた。
 彼は帽子を脱いだ。敬礼──そしてカメラを、嘆きに沈む黒衣の母たちに向けた。
 このあと彼は、連合軍の将軍の祝勝写真を撮らされた。胸を張る将軍たち。
 後に、彼は書いた。
 「この母たちの涙こそが『戦争の勝利』の真実を正確に映しているのだ」
2  「戦争写真家の願いは『失業』だ」
 戦争が終わった。彼は、たわむれに、こんな名刺をつくった。「ロパート・キヤパ 戦争写真家 現在、失業中」
 「兄は、もらしていました。『死ぬまで失業した″戦争写真家″でいたいよ』って」
 戦乱のない世界。そのために彼は戦場を走り続けたのだ。
 母ユリアさんも、最愛の息子が戦場に行くたびに、気も狂わんばかりに心配した。ロバートは、十七歳で共産主義者と見られ、国外追放。以来、世界を寝ぐらに暮らしていた。
 お母さんの手を取って、「大丈夫だよ、ママ。大丈夫だよ」と慰めるのも、弟コーネル氏の役目だった。
 しかし、宿命か、使命感か、四十歳のロパートは五四年、インドシナ戦線へ。母は、本能が知らせたのだろうか、そのときから、ショックでヒステリーのようになったという。
 五月二十五日火曜日。ロパートはフランス護衛部隊から離れて、一人で歩いていった。少しでも良い写真が撮れると思うと、彼はいつも危険を冒した。
 午後三時。彼は、道路のそばの草地に降り立った。そこに地雷があったのだ。
 「電話が鳴りました。午後七時五分前でした。『ライフ』誌の編集者からでした。兄にインドシナ行きを依頼した本人です。
 兄の死を私に伝え、『七時のニュースで報道する予定だ。その前に、私自身から連絡したかった』と。
 この光景は、私にとって、きのうのことのように、否、たった今、起こったかのように鮮明です」
 アメリカ陸軍から、ロパートを英雄として、アーリントン墓地に埋葬したいと申し出があった。
 母は拒絶した。「私の息子は軍人ではなかったのです。平和の男だったのです」
 「今、母は兄と隣り合わせで眠っています。墓石には『平和』と刻まれています」
 兄の死が転機となった。
 「私は決めました。自分の人生を、兄の作品の保存のためにささげようと」
 権力者たちの野蛮な行動を伝える伝道者──兄の魂を継承して、弟は立った。
 当時、報道写真は一過性のもので、保存は考えられていなかった。文化として、きちんと評価されるにいたってなかったのである。
 やがてコーネル氏は、国際写真センター(ICP)を設立して、兄をはじめヒューマニズムのために戦った写真家たちの作品を収集・保存した。若いカメラマンを育て、作品展、講演会、執筆を繰り返し、働き通しで写真文化を興隆させた。兄の正確な伝記も依頼し、実現させた。
 自分自身の写真家としてのキャリアを二の次にしてまで、氏は兄たちの宣揚に努めた。
 そこに私は、人間としての偉さを見る。この弟ありて、兄も「永遠のキャパ」になったのだ。
 コーネル氏は、もともと医師を志していたという。パリで勉強しているうちに、兄の影響から写真と出あった。
 「私は思いました。写真があたえる感動──それは医師以上に、多くの人々の心癒せるのではないかと」
 氏の作品に、菩薩のごとき人間愛がにじむゆえんであろう。
 「母は私たちに教えてくれました。『人を愛すること』を。これが二人の写真に共通するテーマです」
 ロバートは、若いカメラマンにアドバイスしたという。いい写真を撮るには「人を好きになることだ。そして、そのことを相手に伝えることだ」と。
 二人とも、人なつっこく、すぐに、だれとでも仲良くなれる魅力にあふれでいた。気さくで、ユーモアを愛し、周囲を楽しくさせることを自分で楽しんでいた。友を愛し、友から愛された。
 そんな兄弟の大らかな人柄のうしろには、お母さんの大きな心があったのである。
 コーネル氏は、「子ども」を撮った兄の作品群について説明された。
 「母が惜しむことなく注いだ愛情が、兄自身の優しさとなって、世界中の子どもたちに受け渡されたのです」と。
3  氏に私は言った。
 「ある『瞬間』の生命に、『永遠』が凝縮しています。肖像写真なら、撮られた人の人間性、過去と未来、宿命、人生のドラマなどの実相が映し出されている。写真とは、その『永遠なる瞬間』をとらえ、表現する芸術ではないでしょうか。
 その意味で、写真家はたんなる記録者ではない。何より、人間性の真摯な追究者であると思います」
 写真を撮るのは、カメラではない。人間である。その人間の生命のレンズが汚れていたり、ゆがんでいたり、惰性でゆるんでいたとしたら、森羅万象の真実に迫れるはずもない。「この瞬間は、もう二度とないのだ
 」──如々として来り、去る、瞬間、瞬間の生命。そのかけがえなさを惜しむ心が、シャッターを押させる。
 写真は、「人生への愛」を極限まで燃やす芸術である。
 ゆえに、ぎりぎりまで人生に苦しんだ人こそ、「生命というカメラ」の力を、ぎりぎりまで引き出せる。深く悩んだ人は、その分、一瞬にも深い内容をつかむことができよう。
 香港のある新聞社から受けたインタビューの中に、「写真がご趣味ですか」とあった。私は答えた。「いいえ、趣味ではありません。私にとって、写真は戦いです」と。
 ──激動の二十世紀。カメラをパスポートに世界を駆けた不思議なる兄弟。二人の魂の歴史は、後世まで語り継がれるにちがいない。
 (一九九四年十月九日「聖教新聞」掲載)

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