Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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公民権運動の母 ローザ・パークス女史

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「ああ、この優しさが、皆の心をつかんだのだな」
 ローザ・パークス女史をアメリカ創価大学にお迎えしたとき(一九九三年一月三十日)、愛情深い母のよう人柄に打たれた。清らかな笑みをたやさず、謙虚で、しかも凛とした信念を秘められていた。
 黒人──アフリカ系アメリカ人の人権運動の母として、生きながら歴史的人物となっている女史である。
 全米はもとより海外の教科書でも紹介され、文字どおり、知らない人はいない。
 「二十世紀でもっとも影響力のあったアメリカ女性はだれか」──。九三年、全米の歴史家・女性学の研究者の意見がまとめられた。
 その総合三位がパークス女史であった。一位はエレノア・ルーズベルト大統領夫人。″三重苦″のへレン・ケラー女史が九位だった。
 しかし、パークス女史はどこまでも庶民として生きようとされていた。あえて、自分を特別視されないよう、賢明に身を処しておられるようであった。
2  「ノー」の一言がが世界を変えた
 たった一言が、歴史を動かすときがある。平凡な一日が、永遠の記念日になることがある。一庶民が、世界を変える指導者になる戦いがある。
 「ノー」
 パークス女史が、「黒人は白人のために席を立て」というバスの運転手の命令を拒否したときから、アメリカの黒人の歴史は、音をたてて変わり始めた。
 五五年十二月一日。デパートで服の仕立ての手伝いをしていた彼女は、仕事を終えて帰宅しようとしていた。
 アラバマ州モンゴメリーの町。彼女は四十二歳だった。
 バスに乗ってから気がついた。
 太った運転手は十二年前、彼女をバスから降ろさせた意地の悪い運転手ではないか。後ろがいっぱいだったので「前から」乗った──それだけで彼女を降ろさせたのである。
 前は白人、黒人は後ろ。白人が座れなければ、黒人は立って席を譲れ。一事が万事、″お前たちは劣等の人間なのだ″と決めつける差別が公然と行われていた。
 十二年たっても、運転手は相変わらずだった。「さっさと席を立ったほうが身のためだぞ」
 他の人は立った。しかし彼女はじっとしていた。
 「立ち上がることが、どうして自分の『身のためになる』のか、私にはわかりませんでした。私たちがいいなりになればなるほど、彼らの扱いはひどくなるばかりだったのです」(ローザ・パークス『黒人の誇り・人間の誇り』高橋朋子訳、サイマル出版会)
 動かない彼女の思いの背後には、無数の同朋の血涙の哀史があった。
 アフリカから奴隷船で連行され、家畜以下の扱いに苦しみ、死んでいった祖先たち。子どもの目の前で母が鞭打たれ、親は子が売られていくのを、ただ絶望のうめきで見送った。
 ″奴裁解放″後も、人々はだまされ、取られ、リンチされ、気まぐれに殺されていった──。
 女史は私に語られた。
 「悲しい出来事を、私はたくさん体験してきました。いくつも、いくつもです」
 「ある黒人少年は白人女性への暴行の罪を着せられました。完全な無実でしたが、十七歳で逮捕され‥‥やがて死刑にされました。二十一歳の若さでした」
 女史は夫のパークス氏らとともに、そういう犠牲者を救おうと努力されていたが、抑圧の壁は厚かった。
 権力も法律もマスコミも世間も、だれもが平然と、同じ人間の権利を踏みにじっていた。権力をカサに、いばる人間のいいなりになることに、彼女は、ほとほと疲れていた。我慢すればするほど彼らはつけ上がるのだ。
 運転手がどなった。「立たないのか」「ノー」
 「お前を逮捕させるぞ」「かまいませんよ」(同前)
 動かない彼女の思いの前方には、これから生まれる世代への慈愛があった。こんなことは、もう、いいかげん、やめさせなければ!
 警官がやってきた。「どうして、立たないのか?」
 彼女は警官を見すえた。
 「あなたたちは皆、どうして私たちをいじめるのですか?」(同前)
 女史の逮捕をきっかけに町の黒人の怒りが爆発した。それだけ彼女が慕われていたのだろう。彼女は、いつも朗らかで、優しく、聡明な女性として尊敬されていた。
 差別するバスには、もう乗らないぞ! こうして有名な「バス・ボイコット(乗車拒否)運動」が始まった。若きマーチン・ルーサー・キング牧師がリーダーとなった。
 バスを利用していた三万人もの人々が団結した。皆、歩いたり、車を乗りあわせた。黒人のタクシー会社はバスと同じ料金で皆を乗せた。
 妨害は、ひどかった。女史はデパートをクビになった。脅迫電話も鳴りやまない。新聞はデマを流し、キング氏の家は爆破された。
 それでも団結は壊れず、「非暴力」に徹した抗議運動は、全米と世界の良心を揺さぶり始めた。一年後、ついに合衆国最高裁判所は、「バスの人種隔離は憲法違反」と宣言した。
 ここから怒涛のごとく、平等を勝ち取る公民権運動が広がっていったのである。
 「時を得た思想ほど強いものはない」(トマス・ペイン)
 一人の婦人の勇気が、枯れ野に落ちた火のように、世界を変えていった。
 キング氏は言った。
 「彼女は『ツァイトガイスト(時代精神)』に迫られて、あの座席を動かなかったのだ」
 時の潮は満ちていた。その水門を開けたのが、「いじめられるのは、もうたくさんだ」という女史の叫びだったのである。
3  じつは、お会いする前、女史の周辺の人々は、日本の政治家の″差別発言等″から日本人に不信感をもっていたと言われていた。当然であろう。
 また女史の名声を利用しようという動きも絶えず、何ごとも慎重であられた。
 そんな心配は、実際にアメリカ創価大学を訪問されてから吹き飛んでしまったようだ。
 〽ウィ・シャル・オーバーカム(私たちは必ず勝利する)‥‥。
 歌声の中を女史が到着。お会いするや、ぱっと通いあうものがあった。
 私も戦ってきた人間である。言わず語らずに、女史の信念と涙と希望が、わが胸の琴をかき鳴らした。
 女史も「会ってすぐに、これほどまでに親しみを覚え、『友人だ』と実感できる人には会ったことがありません」と心境を告げてくださった。
 「ぜひ日本へ」という申し出も喜んで受けられた。国外は近隣の国へしか行かれていない女史が翌九四年、遠路、来日されたことに驚いた人も多かったようだ。
 八王子の創価大学で、創価女子短大生の合唱に涙を流されていた女史。
 かつてアメリカで見た一人の被爆した若い日本女性を思い出されたのだという。
 「彼女もコーラスが好きでした‥‥」。同じ日本人の乙女らの歌に、彼女を思って涙が止まらなくなった──。どこまでも優しい女史であった。いつも「心」を大切にされる女史であった。
 母は強し。民衆は強し。女史の強さを育てたのも、お母さんであったことを私は思い出す。
 「母は私に自尊心を教えてくれました。『人間は苦しみに甘んじなければならない──そんな法律はないんだよ!』と」
 戦い続けて今、女史は八十歳を超えられた。世界の「人権の母」として、いついつまでも、お達者でと祈らずにおられない。
 (一九九四年九月十八日「聖教新聞」掲載)

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