Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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永遠の行動者 アーマンド・ハマー博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「博士は、永遠の青年ですね」。私がそう言うと、アーマンド・ハマー博士の、つやのある顔が、にっとりとほころんだ。
 「私は自分の仕事があまりにも好きだから、明日が待ちきれないのです」。このエネルギーで二十世紀を駆けぬけ、″米ソの懸け橋″として世界を東奔西走された。九十歳を越えてなお、博士の瞳には、現在と未来のロマンしか映っていなかった。
 博士とは不思議なご縁だった。出会ったのはパリのホテルのレストラン。美術史家のルネ・ユイグ氏(当時、ジヤツクマール・アンドレ美術館館長)ご夫妻に招かれて昼食会に出かけた。ルーブルをはじめ八ヵ所の美術館の協力を得て「近世フランス絵画展」の日本開催が決定した折のことである。端麗な庭に面したそのレストランにおられたハマー博士を、ユイグ氏が紹介してくださった。博士は美術収集家としても高名である。
 博士のテーブルに行って、あいさつをずわしたが、短い会話だけで、古武士のごとき鋼鉄の意志力を感じた。一九八三年六月だから、そのとき、博士は八十五歳。私の恩師(戸田城聖第二代会長)より二歳年長である。五十八歳で逝いた恩師が健在であれば同年代かと、博士に親近感をおぼえた。
 博士は自家用飛行機″オクシーワン″で、米ソ中をはじめ各国を飛び回っておられた。二十三歳でレーニンの知遇を得た博士は「ソ連が認めた最初のアメリカン・ビジネスマン」である。以来、二大国を近づけることが博士の使命感となっていた。このころ、米ソ関係は最悪であり、博士の悩みも深かったようだ。
 ゆっくりお話ししたのは、九〇年の二月、ロサンゼルスの博士の執務室であった。博士が六十代以後に国際的大企業へ育て上げたオキシデンタル石油の本社である。
 博士は六十を前に、いったんは引退を考えられたが、「無為の生活に耐えられなくなって」、まだ休んではだめだ、もう一度、何かにチャレンジしようと、小さな赤字会社だった同石油の再建に乗り出されたのである。
 後に博士は「六十で老いを感じたなんて滑稽だった。九十になってもまだ私は元気に働いているんだから」と述懐されている。執務室には、レーニン、ルーズベルト以来の米ソの歴代首脳をはじめ各国の指導者との交友の写真が飾られ、「二十世紀の陰の主役」とまでいわれた博士の歴史をうかがわせた。
 机には各国の時刻を刻々と伝えるいくつもの時計。なにしろ、一年の飛行時間が六百時間、距離は地球を十周という行動力である。
 七年前と違って、米ソの緊張緩和は急速に進んでいた。五回を数えたレーガン、ゴルバチョフ会談の陰に、ハマー博士の民間外交があったことは有名である。
 ともかく、よく動かれる。ロサンゼルスでの語らいも、ソ連から帰国されたばかりであったが、今度はその翌月、中国で最高首脳と深夜まで会談された次の日に、私に会いに東京へ飛んでこられた。その翌日には、すぐアメリカへと、席のあたたまるいとまもない。そして三月後の六月にまた来日され、静岡と創価大学(八王子市)で続けてお会いした。
 決断も仕事も、万事スピードが速かった。ワシントン滞在中の博士と私の秘書が電話で打ち合わせしたことが、数分後にはニューヨークの博士のスタッフに伝わっていたこともあった。しかも正確に。こちらの連絡にも反応が即座に返ってくる。私も恩師から「電光石火」をたたきこまれたが、博士の成功の一因を見た気がした。
 「この年になると、残された時間で何をなすべきか、わかってくるものです」。博士は「私はたくさんの夢をもち、幸い、夢の多くを実現しました。あと二つの大きな夢があります。それは永遠の平和をつくるここと、ガンの撲滅です」と語られていた。
2  「人物は会ってみないとわからない」
 創価大学では米ソ首脳会談の秘話として、レーガン大統領に会うようゴルバチョフ書記長を説得した模様を学生に講演してくださった。「どうして彼(レーガン氏)の人物を自分で判断しないのですか。‥‥そうすることによって何か損することでもあるのですか」と。
 首脳会談は、私もかねてから繰り返し訴えてきた。流れをつくるには、ともかくトップ同士が会うことである。下からの積み重ね方式では、らちがあかない。最高責任者同士が同じテーブルにつき、個人的に親しくなるのが先決で、気心を知り、対話の回路が開ければ、いくらでも打開策は見えてこよう。「人物は直接、会わなければわからない」。月並みなようだが、これが私の体験からの結論である。
 長い間、ビジネスという戦場で鍛え上げられた博士の現実主義も、まったく同じ答えを出したようだ。「大事なのは、体面ではない。結果を出すことだ。そのためには、まず会うことだ」
 人が「不可能だ」と言うと、博士はいつも言ったという。「不可能だなんて言わず、どうすれば可能になるかを教えてくれ」「私は不可能なことをやることに慣れているんだ」
 博士の波澗万丈の生涯を見れば、その言葉が誇張でないことがわかる。医学部に入学した途端、父親が殺人罪の嫌疑で入獄。ソ連で事業に成功したものの、スターリン時代に国外追放。たいへんな苦労でリビアに石油事業の基地をつくれば、革命政府ができて撤退。陰謀や妨害は日常茶飯事であった。
 しかも「行動者」には毀誉褒貶がつきものである。米ソ協調に動けばアメリカの一部からは共産主義者と非難され、一方、社会主義を飯の種にする資本家とも批判された。民間人が余計なことをと、″専門家″からも圧迫があったようだ。叩かれ、叩かれ、博士はそれらを全部乗り越えて「結果」を出してこられた。
 創価大学の講演で博士は「今世紀の大半は、戦争というカミソリの刃の先で暮らしてきた」とし、起こりつつある変化を「人間主義への回帰」と表現された。そして、新時代の指導者は「これまで無視されてきた人間的価値」に敏感な男女でなければならないと青年に期待を語られたのである。
 大学のグラウンドから、成田空港の自家用飛行機へ、博士はヘリコプターに乗り込まれた。銀色の機体が初夏の陽光を反射しながら、上空を旋回する。私は大学の最上階から、手を大きく振って見送った。飛び去っていく機体が見えなくなるまで──。それが最後になった。思えば、出会いからちょうど七年後の同じ六月であった。半年後、博士の計報が世界を駆けた。
 講演の結論が私どもへの遺言になってしまった。
 「九十二年の生涯を振り返って、私が、しみじみ思うことがあります。それは『初志を貫き通すならば、一人の人間が状況を変えることができる』ということです」
 どうだ、見よ、私は勝ったぞ!──博士の高らかな勝利宣言のように私には聞こえた。
 (一九九四年五月二十九日「週刊読売」掲載)

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