Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第28巻  

小説「新・人間革命」あらすじ

前後
1  【広宣譜】
  1978年(昭和53年)6月28日、山本伸一は、学会本部で新学生部歌の作詞を開始。一節一節の意義を学生部の代表に語りながら、〝全員が人材、全員が使命の学徒、学生部の活動は世紀の指導者に育つための修行〟との指針を示す。新学生部歌「広布に走れ」は、30日の学生部結成記念幹部会で発表され、瞬く間に日本中の友に愛唱されていった。
  この頃、伸一は宗門による理不尽な学会攻撃に苦しめられている学会員を励まし、皆の勇気を奮い起こすために、各部や全国の方面や県などに、〝希望の歌〟を贈りたいと考えていた。7月に入ると、新男子部歌「友よ起て」や白蓮グループの「星は光りて」、新壮年部歌「人生の旅」、練馬区・北町地域の支部歌「北町広布」、千葉の歌「旭日遙かに」と、次々に歌を作っていった。また、7・17「大阪の日」を迎えるにあたって、苦楽を共にしてきた関西の友に「常勝の空」を贈り、今再びの出発を切る。
  引き続き、中国方面の指導へ。移動の車中や懇談の合間も作詞や推敲に取り組み、岡山では九州の歌「火の国の歌」を、さらに鳥取県米子では中国の「地涌の讃歌」を発表。再び岡山に戻った彼は、四国の「我等の天地」、新高等部歌「正義の走者」(後の未来部歌)を完成させていく。
2  【大道】
  7月24日、香川県の四国研修道場の野外研修で「我等の天地」を発表。翌日の記念幹部会で伸一は、〝凡夫こそ仏〟という創価の人間主義の根幹を語り、〝人材の四国に〟と期待した。26日には、2度目の小豆島訪問へ。豪雨災害を乗り越えた友を励まし、のちに「小豆島の歌」を贈る。
  27日、名古屋での「中部の日」記念幹部会では、中部に贈った「この道の歌」を熱唱。広布誓願の〝この道〟を進むなかに、信心の醍醐味と真の喜楽があることを語った。翌日、岐阜・東濃地域へ。5回におよぶ記念勤行会を行い、渾身の指導と激励を重ねる。
  8月2日、伸一は、荒川文化会館で行われた東京支部長会で東京の歌「ああ感激の同志あり」を発表。信心根本に「感激」をもって生きる学会員の一日を表現した歌詞を解説するとともに、学会活動に取り組む支部長・婦人部長の姿勢を語る。終了後、代表幹部と懇談し、〝東京は一つ!〟との自覚を促す。
  さらに、東北の「青葉の誓い」、北陸の「ああ誓願の歌」、神奈川の「ああ陽は昇る」を作り上げ、9日からの九州指導の激闘のなか、北海道の「ああ共戦の歌」(後の「三代城の歌」)を、22日からの長野指導では「信濃の歌」を発表するなど、錬磨の月・8月も、希望の歌、勇気の歌を作り続け、全国に広布に生き抜く共鳴音を広げた。
3  【革心】
  8月12日、日本と中国の間で「日中平和友好条約」が調印された。伸一の日中国交正常化提言から満10年。彼は、この条約を内実のともなう永遠のものにするとの誓いを胸に、9月11日、3年5カ月ぶりの第4次訪中へ。〝日中新時代〟の流れを広げ、万代の平和の礎を築こうと、文化・教育の交流に力を注ぐ。文化大革命が終わり、「四つの現代化」へ新出発した中国各地には、喜々とした若者の姿や明るい表情の女性があふれていた。
  17日、人民大会堂で歓迎宴が行われた。伸一は、日中の平和友好条約に盛られた、平和を守る精神をどのように構築していくか——その根本は「信義」であると訴える。この時、初めて会った周恩来総理夫人・鄧穎超は、語らいのなかで訪日の意向を発表する。
  19日、李先念党副主席は、伸一との会見で日本に1万人の留学生派遣や中米国交正常化のための条約を結ぶ用意があることなどを述べ、友好交流の展望が開かれる。その夜、伸一主催の答礼宴にも、鄧穎超が出席。周総理も、鄧穎超も、共に生涯、心の改革を忘れず、革命精神を貫く、〝革心の人〟であった。伸一は、鄧穎超と日本での再会を約すとともに、日中友好の永遠なる金の橋を築き、周総理との信義に生き抜くことを強く心に誓うのであった。

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