Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第17巻  

小説「新・人間革命」あらすじ

前後
1  【本陣】
  「広布第2章」に入って初めての新年である1973年(昭和48年)「教学の年」が明けた。山本伸一は、「広布第2章」とは仏法を基調とした社会建設の時ととらえ、広宣流布の大闘争を決意する。
  この年は別名「青年の年」。伸一は、仏法の多角的な展開を担う、青年たちに強く訴えた。——師弟の道を歩め。社会に開く“遠心力”が強くなるほど、仏法への“求心力”が必要であり、その中心こそ師弟不二の精神だ、と。
  また、伸一が当面の大テーマとしていたのが、本陣・東京の再構築だった。1月に新宿、練馬の友を激励したあと、2月に入ると、まず中野へ。参加した中野の青年たちに、30年間、毎年集うとともに、メンバーで「中野兄弟会」を結成することを提案。
  伸一の足跡は、2、3月にかけて、港、渋谷、世田谷、千代田、杉並、目黒、さらに多摩方面の第2東京本部へと及び、地域ごとの特色を大切にした激励を重ねる。ここに「東京革命」の烽火が燃え上がった。
  日本の政治・経済の中心である首都・東京で、難攻不落の大城を構築し、世界の立正安国の基盤を築く戦いが、伸一の手で着々と進められていったのである。
2  【希望】
  “教育はわが生涯をかけた事業”と、創価教育に全精魂を注ぐ伸一は、4月11日、大阪・交野市に誕生した創価女子中学・高校(当時)の入学式へ。
  交野は、豊かな自然に恵まれ、古くは和歌等にもうたわれたロマンの天地である。伸一は自らこの場所を選び、1969年(昭和44年)に建設計画を発表して以来、最高の教育環境を整えるために、真剣に心を砕いてきた。
  関西の学会員も、その伸一の心に応え、用地の草取りなど、喜び勇んで支援してくれた。
  そして迎えた入学式。 全国から集まった生徒たちに向かって伸一は、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことをしない」という信条を培うよう期待を寄せる。
  式典終了後の語らいでは、帰りが遅くなる時は、家に電話を入れること、いつでも電話ができるように10円玉を持っておくことなど、具体的なアドバイスを行うのだった。
  伸一の限りない期待を強く感じ取った生徒たちも、通学途中に行き交う人々へのあいさつの励行や、最寄りの駅に花瓶と花を贈るなど、学園のよき伝統をつくるために努力を重ねる。こうした行動に、学園生への地域の信頼と共感が広がっていった。
  また、伸一は、多忙な行事を縫って学園を訪れ、生徒のなかに飛び込んでいった。
  長男の正弘は、創価教育への父の志を受け継ぎ、創価女子学園の教員に。後に、伸一の二男、三男も創価教育に従事していった。
  創価女子学園は82年(同57年)、男子生徒を受け入れ、新スタート。女子生徒たちが真剣に取り組んだ「よき伝統」は大きく開花し、日本を代表する人間教育の城となっていく。
3  【民衆城】
  「広布第2章」の大空への飛翔は、全同志の“信心のエンジン”を全開にする以外にない。4月から5月にかけて、伸一は一瞬の機会も逃さず、同志のなかへ飛び込んでいく。
  東京・荒川の同志と出会えば、瞬時に励ましの懇談会に。荒川は、57年(同32年)8月、伸一が夏季ブロック指導の最高責任者として、弘教の指揮をとった地であった。その前月、伸一は無実の罪により、大阪で不当逮捕された(大阪事件)。荒川の地は、学会と民衆を苦しめる権力の魔性への、反転攻勢の舞台となったのだ。
  4月の本部幹部会では墨田へ。ここもまた、53年(同28年)、伸一が男子部の第1部隊長を務めた時、広布拡大に走り抜いた地だった。その激闘を振り返りながら、民衆勝利の方程式が、感動的に示されていく。
  伸一の東京各区の激励は続く。渋谷の後、生まれ故郷の大田へ、文京支部長代理時代に縁の深かった豊島へと、休みなく走った。
  5月8日からは欧州へ飛んだ。フランスでは、「第三文明絵画・華展」やパリ大学へ。さらに、「ヨーロッパ会議」を設立する。英国へ渡ると、前年に引き続きトインビー博士と対談。帰国の途次には、経由地のオランダでメンバーを激励。希望の民衆城を築く、伸一の奮闘は続いた。

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