Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第15巻  

小説「新・人間革命」あらすじ

前後
1  【蘇生】
  山本伸一は、1970年(昭和45年)5月の本部総会で、「公害問題」に言及。広宣流布とは、仏法の人間主義を根底とした社会の建設だと考える彼の、やむにやまれぬ発言であった。
  イタイイタイ病や水俣病等が深刻化するなか、彼は反公害闘争のペンをとり、仏法の“人間と環境”の共生の哲学を通して公害根絶を訴え、大きな反響を広げていく。
  当時、水俣でも妙法の同志が自他共の宿命転換を願って、懸命に戦っていた。伸一は74年(同49年)1月、遂に水俣の友に会う。皆が人々の希望となり、郷土の蘇生の歴史をと、全精魂を注いで励ますのであった。
  “妙法の大地に大文化運動を”と、「第三文明華展」などが多彩に行われた70年。伸一もまた、精神闘争即芸術の結晶として、「青年の譜」等の詩を次々に発表する。
  一方、作家・三島由紀夫の割腹死事件を巡って学生部員と語り、広布と民衆のために命を捧げる人生たれと念願した。
  翌71年(同46年)2月には、伸一は北海道に飛び、初の“雪の文化祭”に出席。新しき庶民文化の祭典を実現した友を、心から讃えた。
2  【創価大学】
  1971(昭和46)年4月、東京・八王子に創価大学が開学。牧口・戸田両会長の構想を受け継いだ伸一が、「人類の平和を守る要塞たれ」等の理念を掲げ、全生命を注いで建設した教育の城である。
  創立者の伸一は大学の自主性を尊重し、開学式にも入学式にも出席しなかったが、彼を慕う一期生たちは、何の伝統もないなか、次々にクラブを設立するなど、懸命に、奮闘していった。
  当初、教員の一部に、伸一の来学を歓迎しない空気があった。しかし、ならば我々が創立者を呼ぼうと、学生が大学祭を開催し、遂に伸一の訪問が実現する。これ以後、伸一が大学行事に出席し、直接、学生と交流する流れがつくられる。
  2年目の秋、理事会がほぼ決定した学費改定案を学生に諮ると、これは創立者が示した「学生参加の原則」を壊すものだと、学生たちは白紙撤回を要請。その真剣さに、理事会も同意する。その後、学生たちは協議を重ね、自主的に学費値上げを決議したのである。
  こうしたなか、伸一は「全員が創立者の精神で!」と語る。彼の期待を真剣に受け止めた学生たちは、理想的な学園共同体の実現へ、建設の労苦を背負っていく。
  第3回入学式には、伸一が初めて出席し、“人類のため、無名の庶民の幸福のため”という創大開学の意義を講演。また、滝山祭の盆踊り大会に加わり、血マメを作りながら太鼓を叩くなど、学生のなかへ飛び込んで励ます伸一の姿は、人間教育の模範であった。
  大学の評価は卒業生で決まる。伸一は、大学に招待した各企業のトップ一人ひとりに自ら名刺を渡し、「学生を宜しく」とあいさつするなど、全力で学生を応援した。
  4春秋を経て、遂に迎えた第1回卒業式。伸一は共に大学建設に戦った一期生に、生涯、創大で結んだ魂の絆を忘れるなと激励するのであった。
3  【開花】
  「大河の時代」を進む学会は、いよいよ、その仏法の哲理を現実社会のうえに開花させる時を迎えていた。伸一は、1971(昭和46)年6月、牧口初代会長の生誕100年に際し、この大河を開いた創価の源流の先師への感謝の思いを募らせる。
  2日後には、北海道へ飛び、激励行の合間に月の写真を撮影。彼の写真は、やがて「自然との対話」写真展に発展し、新たな民衆文化の波を起こすことになる。
  伸一は、学会の発展が、そのまま地域と社会の繁栄につながると考え、地域との交流を図る取り組みを思索していた。その構想を具体化した、「鎌倉祭り」と、「三崎カーニバル」は、地域の興隆を願う学会員の真心が輝き、社会に開かれた信頼と友情の舞台となったのである。
  同年の夏季講習会の最中、大型の台風の影響を受け、近くでキャンプを行っていたボーイスカウトの世界大会の運営本部から、避難させてほしいとの知らせが入った。伸一の陣頭指揮で万全の支援を推進。垣根のない人間と人間の交流がなされた。慈悲の光による社会貢献の時代が大きく開花していた。

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