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日蓮大聖人・池田大作

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第37回国際アジア・北アフリカ研究会議… 平和の世紀と法華経

2004.8.18 提言・講演・論文 (池田大作全集第150巻)

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1  二十一世紀の開幕とともに、アメリカの中枢部を襲った同時多発テロとそれに続く紛争・戦争は、憎悪と報復の連鎖を引き起こしつつ、グローバル化した世界の各地へと、今も拡大している。
 新たな世紀に入っても、現代文明に渦巻く暴力と憎悪の分断のエネルギーは、人間と人問、民族と民族、そして人類と大自然を引き裂いている。
 「暴力と戦争の世紀」を「非暴力と平和の世紀」へと転回しゆくために、人類の哲学はいかなる役割を果たすことができるのか。本稿では、東洋の哲学の代表ともいうべき『法華経』に焦点を当て、この経典に内包された「智慧」を明らかにしてみたいと思う。
 ヴォロビヨヴア博士(ロシア科学アカデミー東洋学研究所写本室主事)は「法華経は、あらゆる差異を取り払って成仏の可能性を万人に開いた。法華経が深く愛され、経典の最高峰であるとされる所以は、ここにある」(『法華経 方便品・寿量品講義』ロシア語版「発刊によせて」)と述べられている。
 『法華経』には、生命尊厳の根本理念となる方便品の「四仏知見」の説示、宝塔品における「多宝塔」の出現が説かれ、さらには、永遠なる久遠の大生命そのものから出現した、地涌の菩薩をはじめ多くの菩薩群の活躍が示されている。
 これらの『法華経』に説かれる「法理」とその「実践」は、紛争やテロ、飢鐘や環境の破壊といった様々な”地球的問題群”に直面する人類に、いかなる示唆を与え、いかなる実践を促しているのだろうか。
 このような問題意識のもとに、「平和の世紀」を創出するための『法華経』の役割を考察していくものである。
2  三つの人類的課題への挑戦
 現今の人類が抱える危機は、三つの次元に整理することができる。
 まずは、地球生態系の危機に関する次元である。近代科学技術文明の底流にある自然支配の思想は、自然との「共存」ではなく、自然からの「搾取」を促してきた。
 その結果、オゾン層の破壊、海洋汚染、砂漠化の進行、熱帯雨林の破壊と生物種の激減、広範囲の放射能汚染等々、地球環境を破滅の危機に追い込んでいる。
 さらに、発展途上国における人口の激増、食料不足、経済格差による貧困の拡大などの要因が重複し、一段と生態系の破壊が進行している。
 次に、人間社会の次元における課題である。情報・通信技術の革新、運輸手段の改善により、国際社会における情報、運輸、経済、軍事等の多方面にわたる”相互依存度”が急速に深まる一方で、文化や民族、宗教の相違によって増幅された紛争や無差別テロが、各地で頻発している。エイズ(後天性免疫不全症候群)をはじめとするウイルス性疾患の広がりも懸念されている。
 先進国においては、難民の流入や、それに刺激されての差別が生起している。
 そして、三つ目の次元は、人間の心の衰退である。人生の目的を見失い、”アイデンティティー・クライシス(自己同一性の危機)”に陥る場合さえ多くなっている。生命力は衰退し、慈悲、智慧、正義、勇気といった本来的な人間性が消失している一方で、暴力性が増加し、倫理性を著しく低下させている。
 また、家族や地域共同体によって培われてきた愛情、信頼、人間の紳を失った人々は、孤独感や虚無感に苛まれている。
 人類が直面する現代世界のこのような危機は、まさに『法華経』警喰品に「三界は安きとと無し 猶お火宅の如し 衆苦は充満して 甚だ怖畏す可し」(法華経191㌻)と描かれた「三界火宅」の様相を呈している。ここに燃え盛る「火」とは煩悩のことである。
 その煩悩の火が、個人や家族、地域から、個人や家族、地域から、民族、国家、人類、そして地球生態系へと拡大していることを、この経文は警告している。今日における「衆苦」とは、まさに”人類的危機”である。
 このような世界を『法華経』では「五濁悪世」と記述している。
 「舎利弗よ。諸仏は五濁悪世に出るたまう。所謂る劫濁・煩悩濁・衆生濁・身濁・命濁、是の如し」(法華経124㌻)
 六世紀の中国で活躍した天台は、『法華文句』において、「五濁」のそれぞれを解説した後、それらの関係性を次のように解明している。
 「次第とは、煩悩と見とを根本と為す。此の二濁より衆生を成ず。衆生より連持の命有り。此の四、時を経るを、謂いて劫濁と為すなり」(大正34巻53㌻)
 「煩悩濁」とは、貪欲、瞋恚、愚癡の三毒や慢心等の煩悩である。
 「見濁」とは、思想やイデオロギーの濁りであり、偏頗なイデオロギーへの執着である。
 貪り、瞋り、癡かさ、慢心などの「煩悩濁」「見濁」によって、人々は心身ともに疲弊していく。これが「衆生濁」である。
 そして、その濁りが、一過性に留まらず慢性的に受け継がれていくことにより、人々の活力が失われ、「生きよう」とする力さえ失われて寿命も短くなる。これが「命濁」である。
 社会に「衆生濁」、「命濁」が充満してくると、それらが、家族、部族、民族、国家といった各段階の社会共同体の濁りを引き起こし、その時代全体を閉塞させ濁していくのである。すなわち「劫濁」である。
 「五濁」の根本にある種々の煩悩、悪見は、言うまでもなく「無明」を源としている。根源的煩悩である「無明」が貪欲、瞋恚、愚癡として表出し、さらに多くの枝末の煩悩へと展開していく。
 「無明」とは、仏教が説き示す真実に「明らかでないこと」である。その真実とは、あらゆる生命に本来的に至高の尊厳性が永遠に具わっていることである、と『法華経』は説き示している。従って、「無明」を今日的に表現すれば、生きとし生けるものの”尊厳”への無知となり、それは必然的に他者の尊厳を無視し蹂躙する「根源的エゴイズム」となる。この「根源的エゴイズム」により、閉鎖的な自己欲求のために、他者を無視し、傷つけ、さらには死に追いやっても”痛み”を感じない生命へと転落していくのである。
 現代のテロや憎悪の報復による紛争・戦争の基盤には、「無明」に基づく「生命軽視」の思想がある。「生命軽視」の思想は、他者の尊厳性を認めず、単なる「モノ」として手段化する。――ここに現代物質文明による「人間不在」の源泉がある。
 「無明」が「貪欲性」として発現すれば、それは個人に留まらず、今日のような世界では、人類的規模において民族や国家間の経済的な格差を広げていく。先進国の貪欲性が、途上国の人々が生きていく上での必要最小限のニーズさえ奪っているのもそうであろう。また、こうした人類の貪欲性は他の生物の生存権をも奪い、種の多様性の保全に危機的影響を及ぼしている。
 「無明」が「瞋恚」即ち「暴力性」として発現すれば、家庭や教育の現場、地域社会における暴力行為として噴出し、さらに歴史性を帯びた”怨念”が、部族、民族、人種間の紛争を引き起こす原因となる。ある場合には、卑劣なテロ行為として激発することになる。
 さらに「愚癡」は、根源の「無明」であり、またそこから広がる種々の無知・無自覚であるといえよう。
 「無明」による「根源的エゴイズム」は、人間生命を含む生きとし生けるものの「縁起」の網――”相互依存性”をことごとく切断していき、万物の生存の基盤を破壊していく。
 現代世界を見れば、「生命軽視」の様相はここに極まったという他はない。
 現代文明は、個人から人類に至るあらゆる次元での「無明」を引きずり出し、人類を自然生態系とともに破滅に追い込もうとしている感さえある。
 仏教の知見から人類が直面する諸課題を見るとき、今日の状況はまさに、五濁に染まった悪世――地球という「ガイア」とともに、人類の種そのものが絶滅の危機に直面していく「末法」の様相を呈しているといえるであろう。
3  生命尊厳の思想と善性の開発
 「無明」による「生命軽視」「人間不在」の底流を、「法性」による「生命尊厳」「自他共生」の理念を基調とする本流へと、人類史を転換する機軸が、哲学・宗教であろう。
 人類史を織りなした幾多の哲学・宗教と同じく、『法華経』も「生命尊厳」の思想に貫かれている。
 『法華経』の見宝塔品は、宝石で飾られた巨大な「宝塔」が大地を割って涌現するところから始まり、多宝、釈迦の二仏の並座、三変土田、分身来集へと、「虚空会の儀式」が展開している。
 この「宝塔」について、「爾の時、仏前に七宝の塔有りて、高さ五百由旬、縦広二百五十由旬にして、地従より涌出して、空中に住して」(法華経372㌻)と記されている。
 十三世紀の日本の日蓮によれば、大地より涌出した巨大な「宝塔」とは、すべての生命が永遠普遍の宇宙大の尊厳、「宇宙生命」(仏性)という尊厳なる当体を内在させているということを象徴するものであるとする。
 また日蓮は、宝塔の中に並座した二仏のうち、釈尊は「智慧」の働きを、多宝は真理としての「法性」を、そして来集した分身仏は「慈悲」の働きを象徴しているととらえている。
 すべての人間生命は、このような「宝塔」、即ち尊厳性を内包しているのであるが、「方便品」では、この「宝塔」――宇宙生命としての「仏性」を一切衆生に開示させることが、諸仏の目的であると明記されている。いわゆる「開示悟入」の四仏知見である。
 「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう」(法華経121㌻)
 諸仏は、人間生命の内奥にある「仏知見」を「開」き、指し「示」し、覚知せしめ(「悟」)、一体不二となって(「入」)、「生命の尊厳」性を輝かせゆく「最高の自己」を実現させるととを出現の目的とするというのである。
 釈尊もまた同様であり、それ故に「舎利弗よ当に知るべし 我れは本と誓願を立てて、一切の衆をして 我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」(法華経130㌻)と説くのである。ここに「仏知見」とは、智慧に輝く「仏の大生命境涯」であり、天台は「仏性」の意味に解釈している。(大正33巻803㌻)
 すべての人間が、三世十方の諸仏や釈尊と同じく、内なる「仏性」を顕在化させた時、生命内在の「無明」が打破される。「無明」はあらゆる煩悩の根源であるから、三毒をはじめとするすべての煩悩は、菩提(仏の最高究極の悟り)へと転回しゆくのである。
 大乗仏教の「煩悩即菩提」の法理は、人間生命に内在する煩悩への挑戦であり、菩提の顕在化を意味している。現代的に表現すれば、煩悩は「悪性」であり、菩提は「善性」となるであろう。
 「無明」から現れる「悪性」は、人間と自然、人間と社会、そして人間自身をも分裂させるエネルギーである。この悪のエネルギーが充満する時、人間の身心から大宇宙にまで至る「縁起の法」がことごとく分断され、「人間」と「生命」と「大宇宙」そのものが、生への輝きを失っていく。そこでは「人間」や「社会」は分断され、孤立化し、互いの「生命軽視」の思想と行動のみがはびこるであろう。
 一方、「法性」「仏性」から顕在化する「善性」――善のエネルギーは、慈悲、信頼、智慧、勇気、正義心となって、悪のエネルギーによって分断された人間や生命を結びあい、融合していく行為となってあらわれるのである。
 人間をはじめとする万物は、「善性」を薫発して融合し、連帯することによって、「縁起の法」にのっとった本来的な「生命の尊厳性」を発現していくのである。そこにこそ、非暴力と慈悲と信頼と希望の「平和の文化」が創出されるのである。

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