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第31回「SGIの日」記念提言 「新民衆の時代へ平和の大道」

2006.1.26 提言・講演・論文 (池田大作全集第150巻)

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1  あす26日の第31回「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、池田SGI会長は「新民衆の時代へ平和の大道」と題する提言を発表した。提言ではまず、自然災害やテロなど、リスク社会化する世界の状況に触れつつ、現代文明の行き着く先として、人間が生きる背景を失い、欲望に突き動かされる「裸形の個人」に堕してしまう危険性を指摘。その打開のためには、「人間主義」の復権が欠かせないとして、フランスの思想家モンテーニュの思想や大乗仏教の知見を通し、三つの実践規範──(1)漸進主義的アプローチ(2)武器としての「対話」(3)機軸としての「人格」を提示している。その上で、平和と共生の地球社会を建設するための具体的な手立てを展望。まず国連については、新たに設置される「人権理事会」や「平和構築委員会」の意義に言及しながら、「人間の尊厳」を柱とした国連改革の重要性を強調。続いて地球環境問題を取り上げ、温暖化防止対策と「持続可能な開発のための教育の10年」において、日本が積極的な役割を果たすよう訴えている。また、東アジアにおける"不戦の共同体"を築くために、地域間協力を進める「東アジア評議会」の創設とともに、日中関係の早期回復を提唱。最後に、軍縮教育の推進を通し、民衆レベルでの「平和の文化」の拡大を呼びかけている。
2  人類を脅かすさまざまな危機
 戦後60年という歴史の節目を迎えた昨年は、人々の日常生活を一瞬にして危機に陥れる脅威が、さまざまな形で顕在化した年でもありました。
 何といっても、国際社会に大きな衝撃を与えたのは、相次ぐ自然災害です。
 2004年12月に起こったインドネシアのスマトラ沖地震・津波の傷跡が癒えぬ中、7月にはインドで洪水の被害が拡大し、8月にハリケーン「カトリーナ」がアメリカ南部を襲い、甚大な被害が出ました。
 また、西アフリカ地域でイナゴの大発生と干ばつによる食糧危機が続いているほか、10月にはパキスタン北部での地震で7万3000人が犠牲となり、約300万人が家を失いました。
 とくにアメリカで、冠水被害のために都市機能が麻痺し、多くの市民が劣悪な状況に置かれたことは、自然災害に対する脆弱性は先進国といえども大きな課題であることを、改めて浮き彫りにしたといえましょう。
 自然災害に加えて、世界に暗い影を落としているのは、各地で多くの市民を巻き込んだテロが続発していることです。
 昨年7月、ロンドンで地下鉄やバスの乗客らが犠牲となる同時爆破事件が起きました。G8サミット(主要国首脳会議)の開催で厳戒態勢にあった最中のことだっただけに、国際社会に強い衝撃を与えました。
 その後も、エジプト、インドネシアのバリ島、イラクなどで一般市民が犠牲となる事件が続いており、そうした無差別的な暴力の傾向はますます強まっています。
 このほか、人種や民族などの違いに対する不寛容が引き起こす紛争や犯罪、また移民の増加に伴う社会での軋礫が深刻化しています。
 2003年以来、アフリカのスーダン西部ダルフール地方で発生した、アラブ系民兵組織によるアフリカ系住民への襲撃で数万人規模の人々が殺害され、約190万人の国内避難民が発生しました。国連の調査団が"最悪の人道危機"と呼ぶ状況は、残念ながら、今なお解決されないままとなっています。
 また90年代頃からアメリカで大きな問題となっていた「ヘイトクライム《憎悪による犯罪》」は、2001年9月の「同時多発テロ事件」以降、広がりをみせ、とくにイスラム教徒への暴力や差別が増加していると言われます。
 一方、移民の問題に関連したケースとして、昨年10月から11月にかけてフランス全土に暴動が広がり、夜間外出禁止令が出されるほどの社会的な問題となりました。
 このほか、急速に進むグローバル化に伴い、危険度が増している問題として、感染症などの疫病問題が挙げられます。
 このうち、アフリカなどで深刻化している、「HIV(ヒト免疫不全ウイルス)/エイズ(後天性免疫不全症候群)」については、これまでの死者は2500万人以上、エイズで親を亡くした孤児の数も1500万人にのぼっており、世界で現在、4000万人もの人々がHIVに感染しています。
 また、「新型インフルエンザ」の流行も懸念されており、ウイルスが猛威を振るい始めれば、かつてのスペイン風邪に匹敵する被害をもたらすと警告されています。
3  「自由な個人」と「裸形の個人」
 以上、主だったもののいくつかを列挙してきましたが、いずれもすぐれて今日的なグローバル・イシュー(問題点)として、どれひとつ我々が"対岸の火事"視できるものはありません。
 しかもそれらは、地球温暖化やテロの温床ともなる貧困が示しているように、グローバリゼーションの「正」の側面とされている経済・金融面での世界化、IT(情報技術)革命によるネット社会の地球規模の広がりと、構造的に一体化している面もあり、両々相まって、我々に抜き差しならぬ対応を迫っております。
 まさに文明論的、人類史的課題といってよく、環境運動の標語が"グローバルに考え、ローカルに行動する"と促しているように、性急に事を運ぼうとすると、地球文明への道のりの長遠さに、ややもすると意気阻喪に襲われかねない。現代の世界に瀰漫している、新たな世紀の始まりにはふさわしからぬ、あてどなき漂流感、得体の知れぬ不安感の背景には、そうした諸事情が横たわっているように思うのであります。
 こうした事態、閉塞状況に正しく向き合うには、「大状況」から「小状況」へと、目を転じてみるにしくはない。どんな大きな問題でも、身近な生活実感の中に位置付け、捉え直すことによって、本質が明確になり、また持続的な実りある対応になってくると思うからです。
 私は昨秋、「聖教新聞」の書評欄に『人間の終焉』(ビル・マッキベン著、山下篤子訳、河出書房新社)という一冊が紹介されているのを目にしました。
 副題に"テクノロジーは、もう十分だ!"とあるように、生殖系列遺伝子の操作=注1=にまで手を染め出した最新のテクノロジーは、人間が人間であることの根底を脅かしており、放置すれば「人間の終焉」さえ招いてしまう、と警鐘を鳴らしているものです。
 その中で、著者は、産業革命以来の近代文明の歩みを振り返り、「重要なのはこれらの変化がすべて同じ方向に進んできたことだ。個人の自由と引きかえに背景を手放したという方向である」とし、その終着点が目前に迫った今、「いまや私たちは──ここが議論の核心なのだが──個人としてさえ消滅してしまう瀬戸際にいる」と警告しています。
 近代文明は、「自由な個人」の獲得めざして、人間をあらゆる束縛、しがらみから解き放つことに専心してきた。その結果、富や便益など得たものは大きいが、失ったものは更に大きい。家族、地域・職域共同体、宗教などの組織、団体、国家、そして自然……それらとの絆、しがらみという「背景」を失った「自由な個人」とは、いかなる実態を有するのか。
 それは擬制でしかなく、いきつくところは、(マッキベン氏は、この言葉は使っていませんが)、欲望をむき出しにした「裸形の個人」にすぎないのではないでしょうか。
 ドイツの気鋭の社会学者ウルリッヒ・ベック氏は、現代世界は予測不可能なリスクに覆われているとして、グローバル時代を「リスク社会」と分析したことで知られていますが(『世界リスク社会論』島村賢一訳、平凡社)、その彼の立場が、一方で「個人化論」によって補完されていることは、問題が奈辺にあるかを示しているといえましょう。

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