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日蓮大聖人・池田大作

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第28回「SGIの日」記念提言 「時代精神の波 世界精神の光」

2003.1.26 提言・講演・論文 (池田大作全集第150巻)

前後
1  第28回「SGIの日」を記念して、私の所感の一端を述べたいと思います。
 「平和の文化」と「文明間の対話」を時代のキーワードに掲げて始まった21世紀も、3年目を迎えました。
 しかしながら、世界を取り巻く状況は、にわかに危機的状況を強めてきた北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)問題など、「平和」や「対話」とは百八十度異なる、殺気立った、とげとげしい雰囲気がたちこめており、“戦争と暴力の世紀”と評された20世紀の負の遺産を引きずっている、というよりもそれを悪化、増進させているといった方が適切でしょう。
2  緊迫化するイラク・北朝鮮情勢
 人々の顔からは、新たな世紀を迎えた時の心なしか華やいだ表情などは影をひそめ、人間精神が息づいていることの証ともいうべき対話の息の根さえ止めてしまいかねない閉塞感、いらだたしさばかりが目につきます。
 世界中が固唾を呑んで見守る中、大多数の人々の平和的解決への祈るような思いにもかかわらず、なぜか、アメリカによるイラク攻撃は避けられないのではという暗い見通しが支配的ですし、中東問題の焦点であるパレスチナ情勢も、年明け早々から、自爆テロと報復という力対力の悪循環は、エスカレートするばかりです。
 それに加えて、一挙に浮上してきたのが、北朝鮮情勢の緊迫化です。
 数年前、韓国の金大中大統領の“太陽政策”によってデタント(緊張緩和)の兆しをみせていた朝鮮半島をめぐる動きも、北朝鮮のNPT(核拡散防止条約)やIAEA(国際原子力機関)の保障措置協定からの脱退表明、ミサイル再開発のほのめかしなどの“瀬戸際外交”によって、舞台は、あっという間に暗転してしまいました。
 こうした危機的状況を見るにつけ、かのトインビー博士が、30年前、私との対談集『二十一世紀への対話』の中で語っておられた人類への警告、黙示録的な言葉が思い起こされます。
 博士は、科学技術によってもたらされた「力」が未曽有の勢いで増大し、人々の「倫理的行動水準」とのギャップは広がるばかりであり、それを劇的に拡大したのが原子力であるとして、こう語っております。
 「こうした原子力時代にあって、人類はその品行の平均的水準を、かつて仏陀やアッシジの聖フランチェスコが実際に到達した水準まで高める以外に、集団自殺を避ける道を見いだすことはむずかしいでしょう」と。いってみれば、「完徳の勧め」であります。
 核兵器のような技術文明の肥大化がもたらしたモンスターをコントロールしていくには、仏陀や聖フランチェスコが体現していたような「完徳」、すなわち透徹した非暴力の精神の力が不可欠である、と。そして博士は、宗教的巨人のような突出した人格ならともかく、人類全体の「品行の平均的水準」をそこまで引き上げることに関しては、人類史の鏡に照らして悲観的でした。
 わずかに希望を託せるとすれば、「宗教面での革命を通じて、急激かつ広範な心情の変化が人々に生じるのも、ありえないことでなく、あるいはそれが事態を好転させるかもしれません」と。現今のように、核などの大量破壊兵器をめぐる危機的状況がつのるほどに、私どもは、この碩学の留言を、心にとどめておかなければならないと思います。
 私が常々、「創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を侵し続ける“力”に対する、内なる生命の深みより発する“精神”の戦いである」と訴えてきたゆえんであります。
 この「“精神”の戦い」とは、具体的にいえば、どんな状況に置かれても、言葉を手放さないこと、徹して語り続けることに尽きます。これは、言うは易く、行うに至難なことです。
 この“戦い”の前には、常に問答無用、言葉を拒絶する悪が立ち塞がっているのが常であり、言葉や対話というものは、そうした悪と対峙した時、どこまでも粘り強く、言論の戦いを続けていけるかで、その真価が問われるからです
3  アイヒマンの沈黙が問うもの
 その点、山崎正和氏の戯曲『言葉――アイヒマンを捕らえた男』(中央公論新社)は示唆的でした。アドルフ・アイヒマン。いうまでもなく、ナチスのホロコーストを遂行した重要人物の一人であり、戦後、アルゼンチンに逃れ、偽名で暮らしていたが、イスラエルの諜報機関によって捕らえられ、ひそかにエルサレムに送られる。世界中の注目を集めた裁判の結果、絞首刑に処せられるのですが、法廷において彼は、あれほどの巨悪に手を染めておきながら、ナチスという官僚機構の歯車であり、命令に従ったまで、と主張するばかりであった――。
 物語は、アイヒマンを捕らえたピーター・マルキンという実在の人物(イスラエルの諜報機関「モサド」元隊員)とアイヒマンとの対峙を軸に展開されます。
 テーマは一点、アイヒマンに"改俊の言葉"をはかせられるかどうか、にあります。
 あれほどの冷酷非道を行っていながら、法廷では卑小そのものの彼に、ピーターは、個人的に、ある時は規則を犯してレコードを聴かせたり、タバコやワインをふるまったりしながら、諄々と正義を説き、情に訴え、罪を認めさせようとする。時には、哀願せんばかりに「私は言葉が欲しい。言葉をくれ。頼む。お願いだ。......あ」と迫るが、アイヒマンは最後まで"改俊の言葉"を口にせず、沈黙のまま絞首台の露と消えてしまう。
 ピーターは、仲間に言います。
 「正義というのは強いものじゃないんだ。悪は説明なしに人を殺す。悪を理解しない人も滅ぼすことができる。しかし正義ってのは、それを理解しない人にはなんの力も持てない。正義は説明だよ。納得できるものが正義なんだ。だから正義は、世界中の何もかもを納得できるものにしたい。悪人だって悪そのものだって、なぜそんなものがあるのか説明を聞きたがるんだ」
 「説明」と「納得」――まさしく言葉の力であり、正義や善は、その上にのみ成り立ちます。そうした「"精神"の戦い」に徹していくことが、どれほど困難なことかは、アイヒマンの沈黙(言葉、対話の拒絶)の前で途方に暮れるピーターの姿が象徴しています。
 トインビー博士の悲観論のよって来るところでもあるのですが、なおかつ、この精神性を圧殺するかのような重苦しさの中で、大事なことは、意気阻喪しないことです。黙らないことです。
 "善"の沈黙は"悪"の思うつぼです。小状況に対してであれ、大状況に対してであれ、言語人(ホモ・ロクエンス)の面目にかけて、言論のつぶてを放ち続けることです。
 情に流されず、大局を見据え、能う限りの精神力を振り絞って対話を続け、暗黒のとばりに風穴を開けていきたいものです。
 そう、苦心惨憺の末、仕留めた巨大なカジキマグロを横取りしようと襲いかかるサメと格闘する、キューバの老漁夫サンチャゴを鼓舞し続けた勇気をもってー。「けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ」「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」(「老人と海」、『ヘミングウェイ全集7』所収、福田恒存訳、三笠書房)

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