Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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あとがき  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  桜の花が、別れを惜しむかのように、ひらひらと風に舞っていた。
 あふれる万感の思いを胸に、桜吹雪の彼方に広がる空を見上げた告別の日のことが、脳裏に焼きついている。
 一九五八年(昭和三一十三一年)四月二日、わが思師・戸田城聖先生は、安祥として五十八年の人生の幕を閉じられた。それは、桜花のごとく清く、気高い、鮮烈など一生であられた。
 軍部政府の過酷な弾圧と戦い、敗戦の焼け野原に、ただ一人立たれ、人類の平和の砦を築かれた先生――。
 日蓮大聖人の御遺命のままに広宣流布の旗を掲げ、まさに滅せんとした仏法を現代に蘇らせた先生――。
 苦悩にあえぐ民衆のなかに分け入り、共に語り、共に泣き、共に笑い、七十五万世帯の幸の灯をともされた先生――。
 しかし、この不世出の仏法指導者が、世間に正しく理解されることはなかった。むしろ、誤解と中傷のなかで、生涯を終えられたといってよい。
 恩師の真実を伝える伝記を書き残すことは、私の青春時代からの誓いであった。先生の偉業を世界に宣揚することは、弟子としての、私の使命であると心に決めていたからである。また、死身弘法を貫かれた先生のご精神を伝えずしては、未来への仏法の継承もあり得ないからだ。さらに、先生のご生涯は、そのまま一個の人間の偉大なる人間革命の軌跡であり、それを書き残すことによって、万人に人間革命の道を開くことが可能になると確信していたからである。
2  先生亡きあと、私は、すぐに執筆の構想を練り上げていった。最も頭を悩ませたのは、どこから書き起こすかということであった。妙悟空のペンネームで、戸田先生が書かれた小説『人間革命』は、先生の分身である主人公の「巌さん」が、牢獄の中で、自分も法華経の虚空会に連なった地涌の菩薩であることを悟り、その使命である広宣流布を自らの天命として、生涯を生き抜く決意を固めるところで終わっている。それは、先生の獄中での悟達のご境地を、そのまま記されたものといえよう。
 「地涌の菩薩」の使命の自覚は、自己という存在に根源的な意味を与え、真実のヒューマニズムへの覚醒を促し、人生の最高の価値の創造をもたらす源泉にほかならない。また、それは、利己のみに囚われた「小我」の生命を利他へと転じ、全人類、全民衆をもつつみこむ「大我」の生命を確立する原動力でもある。恩師は、そこに人間革命の究極の原理があることを教えようとされ、自らの体験をもとに小説の筆を執られたといってよい。
 一九四五年(昭和二十年)七月三日の出獄後の先生の人生は、この獄中の決意の実践であり、その歩みのなかにこそ、人間革命の具体的な方途が示されているといえる。ゆえに、私の『人間革命』は、恩師の小説の続編の意義も込め、先生の出獄の日から筆を起こすことにしたのである。そして、一九六四年(同三十九年)の先生の七回忌法要の折、私は執筆の決意を披涯し、その年の十二月二日、沖縄の地で最初の原稿の筆を執った。
 以来、二十八年の歳月を経て、ようやくここに全十二巻が完結の運びとなった。昨年(一九九二年)の十一月二十四日、最後の原稿を書き上げ、「わが恩師 戸田城聖先生に捧ぐ 弟子池田大作」と記した時、私の胸に、先生の微笑む顔が浮かんだ。偉大なる恩師の真実に、どこまで迫ることができたかと思うと、汗顔の至りではあるが、今、弟子としての、一つの務めを果たすことができた喜びをかみしめている。
3  思えば、私は、『人間革命』の執筆を通して、日々、恩師との対話を続けてきた。ここに一九五七年(昭和三十二年)八月から先生の逝去までを収めた、この第十二巻の執筆にあたっては、先生の在りし日を偲び、幾たび胸を熱くしたことであろうか。
 当時、先生は、日ごとに衰弱の度を深めるなかで、死力を振り絞るようにして、最後の広宣流布の戦いを展開されていた。それは、自らの死期を悟った先生の、限りある命の時間との壮絶な闘争であった。そのなかで九月八日には、横浜の三ツ沢の競技場で、あの歴史的な「原水爆禁止宣言」を「遺訓の第一」として発表された。
 そして、十一月、先生は疲弊した体で広島の指導に赴こうとされて倒れた。その前日、広島行きをお止めする私を、先生は厳しく叱咤された。「仏のお使いとして、一度、決めたことがやめられるか。俺は、死んでも行くぞ」――その烈々たる闘魂の叫びは、今なお私の耳にこだましている。
 先生は不屈の一念で病魔をも、はねのけられた。奇跡的に健康を回復し、翌年三月、一カ月にわたる大講堂落慶の記念の総登山の指揮を執られた。その間に「3・16」の記念の式典に臨み、私をはじめとする青年たちに、広宣流布の後事の一切を託され、ほどなく逝去されたのである。
 総登山の期間中、先生は、常に私を傍らに置き、最後の最後まで、全生命を注いで訓練してくださった。毎日毎日が黄金の輝きに満ちていた。先生の一言ひとことは、すべてが遺言であり、未来を照らす永遠の指標であった。
 いわば、第十二巻に綴った先生の軌跡は、恩師の生涯のなかで「流通分」ともいうべき意味をもち、万代にわたる数々の栄光の指針に彩られている。
 当初、私は、先生の逝去をもって、『人間革命』全十二巻を終了するつもりであった。しかし、それではあまりにも悲しい。また、先生のご精神は、広宣流布の大河となって、永遠に流れ通わねばならぬことを考えると、どうしても未来への希望の曙光を点じて終わりたかった。「新・黎明」の章を加え、山本伸一の第三代会長就任をもって終了とさせていただいた。そのために第十二巻は原稿の枚数も増え、各巻より長くなってしまったことをお許し願いたい。
 戸田先生は五十八歳で世を去られたが、もしご存命ならば、今年、九十三歳を迎えられたことになる。病弱であった弟子の私は、既に思師の逝去の年齢を超えた。先生がご自分の命を分け与えてくださったように思えてならない。その私のなすべきことは、恩師に代わって、「世界の平和」と「人類の幸福」のために戦い、生き抜き、この世の使命を果たしゆくことと思っている。それが、弟子としての報恩の道であり、先生が開き示された人間革命の道であるからだ。
 創価桜の大道を行く私の胸のなかに、先生は今も生き続けている。とともに、同志の心のなかにも、先生が永遠に生き続けることを念じてやまない。
 最後に、連載第一回から挿絵を担当してくださった三芳悌吉画伯、また、装画の故川端龍子画伯、東山魁夷画伯をはじめ、これまでご尽力いただいた関係者の皆様方に衷心より感謝の意を表し、「あとがき」とさせていただく。
                       著者
   一九九三年二月十一日
     恩師の生誕の日に
       ブラジル・リオデジャネイロにて

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