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日蓮大聖人・池田大作

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新・黎明  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  新しき太陽は、昇ろうとしていた。しかし、夜明け前の闇は深かった。
 その閣をついて、一筋の閃光が走った。新しき黎明の荘厳な調べを告げながら――。
2  広宣流布の大指導者・戸田城聖を亡くした、同志の悲しみは癒えなかった。
 しかも、それを嘲笑うかのように、一部のマスコミは、創価学会への猛攻撃を開始したのである。
 新聞紙上には、「ポックリ生き仏昇天 ゆらぐ創価学会の屋台骨 恨みの他宗派は大喜び」「壊滅寸前の創価学会 哀れな邪教の末路」「″魔星″堕ちて神通力失う」といった見出しが躍った。
 紙面に登場する評論家の多くは、学会の「空中分解」を予測していた。さらに、戸田の学会葬さえも嘲笑い、「教祖成仏 アベックの敵となる 日曜の外苑に″仏滅″騒ぎ――芝生奪って土下座 30万信徒が念仏の大合唱」との見出しを掲げた新聞もあった。
 また、この機に乗じて、学会を切り崩そうとする他宗の動きも活発化し始めた。
 学会は、戸田亡き後、理事長の小西武雄を中心に運営していくことになったが、会内には、戸田を失った空虚感が漂い、あの弾けるような活気は失われつつあった。会員たちは、不安と感傷の雲を払い、未来を照らす希望の光を、いまだ見いだしかねていたのである。
 山本伸一は、この事態を深刻に受け止め、今こそ、同志の一人ひとりの胸に、新たな希望の灯をともさなければならないことを痛感していた。希望は勇気を生み、活力をもたらすからだ。
 彼は、間近に迫った、伝統の五月三日の春季総会は、未来への大目標に向かい、新たな出発を期す日にしようと、深く思索していた。
 その間、四月の二十五日から四日間、関西の教学試験のために、大阪に向かった。
 彼は、大講堂落慶の記念の総登山、戸田の逝去、そして葬儀と続いた激闘によって、著しく疲労していた。
 とうとう二十九日朝、伸一は高熱を出し、起き上がることさえできなかった。恩師の偉業を受け継ぎ、広布に走りゆかねばならない自身の体が、思うに任せぬことが、不甲斐なく、悔しくてならなかった。
 伸一は、熱でほてった重い体で、床に臥しながら、″学会の新たな出発のために、何が必要か″を、考え続けていた。彼の脳裏には、戸田の誕生日の前日にあたる今年の二月十日、恩師が語った言葉がまざまざと蘇るのであった。
 「伸一、あと七年で、三百万世帯までやれるか?」
 ″あのお言葉こそ、学会の未来のために示された大目標である。七年……、先生は七年という歳月を、次の目標の達成までの期間とされた。その意味は、限りなく深いはずだ″
 伸一は、戸田が生前、「学会は七年ごとに大き歩みを刻んでいくのだ」と、しばしば語っていたことを知っていた。また、「七年を一つの区切りとして広宣流布の鐘を打ち、『七つの鐘』を打ち鳴らそう!」と語っていたことが思い出された。
 伸一は、七年ごとの学会の歩みを振り返ってみた。
 牧口常三郎と戸田城聖の手によって、創価教育学会が創立されたのは、一九三〇年(昭和五年)十一月十八日である。そして、七年後にあたる三七年(同十二年)には、会員に約百人が名を連ね、創価教育学会が本格的に発足するにいたっている。さらに、七年後の四四年(同十九年)十一月十八日には、牧口が獄死。それから七年後の五一年(同二十六年)五月三日には、戸田が第二代会長に就任している。
 以来、七年を経て、戸田は願業をことごとく成就し、逝去した。不思議な時の一致といってよい。
 伸一は、深い感慨を覚えながら、思索を重ねていった。
 ″昭和五年に、第一の広宣流布の鐘が打ち鳴らされたとすれば、既に、第四の鐘が鳴り終わったことになる。すると、今年の五月三日の春季総会は、第五の鐘を、高らかに打ち鳴らす日としなければならない。
 この第五の鐘にあたる七年のうちに、先生が示してくださった三百万世帯を、断固、達成するのだ。第六の鐘となる次の七年の目標は、六百万世帯の達成になろう。
 そして、第七の鐘が鳴る昭和四十七年(一九七二年)には、大御本尊を御安置申し上げる大殿堂たる、正本堂の建立も成し遂げなければならない。
 さらに、今から二十一年後の昭和五十四年(一九七九年)には、「七つの鐘」が鳴り終わることになる。それまでに、日本の広宣流布の、確かな基盤をつくりあげることだ。
 それは同時に、本格的な世界広宣流布の幕開けとなるだろう。その時、私は、五十一歳……。もし、健康でさえあれば、新しき世紀への大舞台が待っている″
 伸一の広宣流布の展望は、限りなく広がっていった。彼は、燦然たる未来に思いを馳せながら、総会では、戸田が折々に語ってきた、「七つの鐘」の構想を発表しようと思った。
 そして、その構想の実現こそ、ほかならぬ伸一自身の生涯の使命であることを、悟らざるを得なかった。先輩幹部は数多くいた。しかし、未来の広宣流布の柱として頼むに足る同志を見いだすことは、できなかったからである。
 伸一は、この日、高鳴る胸の鼓動を感じながら、日記にこう記した。
 「意義深き五月三日、目前に迫る。実質的――学会の指揮を執る日となるか。
  胸苦し、荷重し。『第五の鐘』の乱打。
  戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。本門の青春に入る」
3  春季総会は、一九五八年(昭和三十三年)五月三日、後に日大講堂となった両国の東京スタジアム(旧両国国技館)で行われた。
 ロイヤルボックスの上には、亡き戸田城聖の遺影と、「団結」の文字が掲げられ、その両側には、二首の戸田の和歌が、堂々たる毛筆体で垂れ幕に記されていた。
  「獅子吼して 貧しき民を 救いける 七歳の命 晴れがましくぞある」
  「いやまして 険しき山に かかりけり 広布の旅に 心してゆけ」
 総会では、「開会の辞」に続いて人事が発表され、森川ヒデ代に代わり、谷時枝が女子部長に就任した。また、新たに男子部に十個部隊、女子部に十二個部隊の結成をみたのである。
 それは、戸田の膝下で、山本伸一を中心に切瑳琢磨してきた後継の青年たちの、新しき飛翔を物語っていた。一抹の寂しさを宿していた参加者の心に、青年の若々しい息吹が、希望の薫風となってそよいた。
 理事たちのあいさつや、体験発表のあと、山本伸一が立った。彼は、集った地涌の勇者をつつみ込むように、視線を場内に注ぐと、力強く語り始めた。
 「釈尊の予言は、日蓮大聖人の御出現によって、虚妄ではなくなりました。その大聖人の御遺命は、戸田先生の出現、すなわち、創価学会によって現実となったといっても、過言ではありません。
 戸田先生は、広宣流布の実現に生涯をかけ、戦い、叫び抜かれ、一切の願業を成就されて、寂光の宝刹に還られました。この広宣流布の実現こそが、戸田先生の心であり、それが創価学会の永遠の精神であります。
 今、後に残された私たち弟子一同の進むべき道は、理事長を中心に団結し、さらに広宣流布に邁進していく以外にありません。御本尊を信受し、末法の弘法の大指導者である戸田先生の薫陶を受けた私たちが、力を合わせて前進していくならば、広宣流布、すなわち宗教革命は、絶対に断行できると信ずるものでございます。
 御聖訓に、『此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし』とございますが、正法を流布する私たちもまた、師子王のごとく雄々しく、前進してまいろうではありませんか!」
 彼は、胸にたぎる広宣流布への大確信と大情熱をほとばしらせ、数万の同志に向かって呼びかけた。
 それから、戸田が折に触れて述べてきた「七つの鐘」の構想に触れ、学会が三〇年(同五年)の創立以来、七年を節として大きな飛躍を遂げてきた歴史をたどっていった。
 参加者は、伸一の話に、じっと耳を澄ましていた。
 「そして、昭和二十六年(一九五一年)、戸田先生は、第二代会長に就任され、以来七年、一切の広宣流布の原理を示され、広布の基盤をつくってくださいました。いよいよ、本日から、第五の鐘となる、新たな七年の幕が開くのであります。
 そして、次の七年が第六の鐘、その次の七年が第七の鐘となり、その終了は、二十一年後の昭和五十四年(一九七九年)となります。
 この『七つの鐘』が鳴り終わる時までに、広宣流布の永遠の基盤をつくりあげることを目標に、前進してまいりたいと思うのでございます。『命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也』との御聖訓がございますが、本日を力強い前進の第一歩として、希望と勇気と確信をたぎらせて、広宣流布に邁進していこうではありませんか!」
 それは、亡き師子王に代わって、後継の若師子が放った新生の大師子吼であった。雷鳴のような拍手が、堂内を揺るがした。どの顔も紅潮していた。その叫びは、人びとの心を覆っていた雲を払い、燦たる希望の陽光となって、同志の胸深く降り注いだ。
 悲哀と感傷に閉ざされた暗夜に、新しき黎明が訪れようとしていた。人びとは、新しき広宣流布の道が豁然と開かれ、朝日に照り映える、未来の金の峰を仰ぐ思いで、伸一の話を聞いた。
 この日、日淳は、戸田の偉業を讃えて語った。
 「会長先生は、七十五万を目標に折伏・弘教に励まれましたが、私は、この七十五万と言われましたのには、深い意味があるものと考えておりました。
 それはあらためて申すまでもなく、七十五万は南無妙法蓮華経の五字七字であると、私は常に察しておったのでございます。南無妙法蓮華経の五字七字を目標として、これを確立する時には、すでに広宣流布の基礎が出来上がるということを考えておられたと、察しておるのでございます。
 御承知の通り、法華経の霊山会において上行を上首として四大士があとに続き、そのあとに六万恒河沙の大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法蓮華経を弘通いたしますという誓いをされたのでございます。その方々を、会長先生が末法に先達になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。すなわち、妙法蓮華経の五字七字を、七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います。
 この全国におられます七十五万の方々が、皆ことごとく南無妙法蓮華経の弘法に精進されまするならば、釈尊もかつて予言いたしましたように、末法に広宣流布することは、断固として間違いないところでございまする」
 そして、日淳は、強い確信を込めて訴えた。
 「皆様方が相応じて心も一つにし、明日への誓いを新たにされましたことは、全く霊山一会厳然未散と申すべきであると思うのであります。これを言葉を変えますれば、真の霊山で浄土、仏の一大集まりであると私は深く敬意を表する次第であります」
 総会は、まさに霊山を今世に移しての、広宣流布への誓いの集いとなった。今、使命の仏子たちは、後継の若き闘将の雄叫びに奮い立ち、新たな行進を開始したのであった。

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