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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

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1  一九五八年(昭和三十三年)の元日は、晴れて風もなく、冬には珍しい、穏やかな暖かい日であった。
 午前十時、戸田城聖は、自ら予告していた通り、創価学会本部の広間に姿を現した。
 広間には、東京の支部幹部ら二百人ほどが待機していた。約四十日ぶりに戸田の姿を見かけると、激しい拍手が広がった。
 幹部たちは、″もう戸田先生は、完全に健康を回復されたのだ″と思った。しかし、その戸田の体は、痛々しいまでに痩せていた。顔も一回り小さくなったようであり、服は肩の辺りが、だぶついている。
 参加者は、胸を突かれる思いで、戸田の闘病が、ただならぬものであったことを察した。
 しかし、戸田城聖は、厳然と彼らの前にいる。その侵しがたく、厳しく気高い表情は、いつもの戸田であった。
 皆は、さっと居ずまいを正した。戸田は、無言のまま御本尊の前に端座し、深々と頭を垂れてから勤行を始めた。例年通りの、元旦の初勤行である。
 いささか、しわがれてはいたが、力強い響きがあった。勤行を厳粛に終えると、戸田は、御本尊を背にしながら、座ったまま語り始めた。
 「寿量品には、三妙が合論されています。三妙とは、本因の妙、本果の妙、本国土の妙のことであり、妙とは、思議しがたいことをいいます。久遠の仏の境界を得るための原因を本因、その仏道修行の因によって得た仏果を本果、その仏が住する所を本国土というのは、皆さんも知っていることと思う」
 参加者は、三妙合論という言葉は知っていたが、戸田が、開口一番、こう語りだしたことに戸惑いを覚えていた。
 何ゆえ戸田は、元旦から三妙合論を説くのか、いぶかりながら耳を澄ました。
 「本果の妙を表しているのは、寿量品の『如是我成仏己来、甚大久遠』(法華経四八二ページ)、すなわち、『是の如く我れは成仏してより己来、甚だ大いに久遠なり』の文であります。ここで、釈尊は、今世で三十歳で悟りを開いて成仏したのではなく、実は、久遠の昔に、既に仏となっていたことが明かされる。
 では、その仏は、どこにいるのか。法華経以前の教えでは、浄土にいて裟婆世界にはおられないと説かれてきたが、寿量品にいたって、仏は、裟婆世界にいると説く。
 つまり、仏は、凡夫と一緒に、菩薩や声聞、縁覚、また、畜生、餓鬼などと共に、裟婆世界に同居していることが明かされる。それが本国土妙を示す『我常在此裟婆世界、説法教化』(法華経四七九ページ)、『我れは常に此の裟婆世界に在って、説法教化す』という文です。
 文底からこれを広く深く論じれば、南無妙法蓮華経の生命は、久遠以来、大宇宙とともにあるということです」
 参加者は、皆、難解そうな表情をしていたが、彼は、さらに話を続けた。
 「大事なことは、仏は現実の世界以外には、いらっしゃらないということです。五濁悪世の世の中にいてこそ、真実の仏なのであります。
 さて、釈尊が仏の境界を得るには、その根本原因があった。それを明かしているのが本因妙であり、『我本行菩薩道……』(法華経四八二三、『我れは本と菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命……』という箇所であります。
 では、仏が行じた菩薩の道とは何か――。
 それこそが、この文の文底に秘沈されている大法であり、南無妙法蓮華経です。末法の私たちは、この南無妙法蓮華経という仏の悟りを、直接、信じて仏になるんです。
 この成仏の根本原因を説くのに、釈尊は、既に成道した仏、すなわち本果の立場で説いている。ですから、寿量文上の釈尊を、本果の仏と称するのであります。
 しかし、大聖人は、御内証は御本仏でありますが、仏自体の立派な姿を現されることはなく、凡夫の立場で、仏になる本因の菩薩道を説き、行じられた。ゆえに、大聖人様は、本因の仏となります。
 御書のどこを拝しても、大聖人は、″私は、既に仏なのだから、みんなを救ってやろう″などとは、おっしゃっておりません。大聖人が、生まれながらにして御本仏の体を現し、御本仏の行を行じられたとしたならば、それは菩薩道ではなくなってしまう。ここに、本果妙の釈尊の仏法と、本因妙の教主釈尊、すなわち、日蓮大聖人の仏法との大きな相違がある。これをもって、私の、今年の初めての講義に代えます」
 この指導は、戸田城聖が、これまで行ってきた方便品・寿量品講義の、締めくくりともいうべき話となった。
 戸田の話は、難解といえば難解であった。参加者の多くは、戸田が、何を言わんとしたのか理解しかねていた。
 彼は、日蓮大聖人は本因妙の仏であることを説くとともに、この裟婆世界にあって折伏行に励む同志こそ、大聖人の末弟として、菩薩の道を行ずる人であることを、教えておきたかったのである。
 同志の多くは、病苦や経済苦など、幾多の苦悩を背負いながら、日々、広宣流布に悪戦苦闘していた。しかし、戸田は、そこに尊い仏子の輝きを見ていたのだ。
 妙法広布に生きるわれらの菩薩道の実践は、そのまま裟婆世界を仏国土に転ずる仏の行となる。そして、それを行ずる同志は、一人ももれなく地涌の菩薩であり、その内証は仏にほかならない――それこそが、七十五万世帯の折伏を成就した戸田城聖の、不動なる確信であった。
 彼は、諸仏を仰ぎ見る思いで、居並ぶ弟子たちに視線を注いだ。
 戸田城聖の三妙合論についての話のあと、最前列にいた山本伸一が、戸田の新年の三首の和歌を披露した。
  獅子吼して 貧しき民を 救いける
    七歳ななとせの命 晴れがましくぞある
  
  若人の 清き心よ 七歳の
    苦闘の跡は 祝福ぞされん
  
  今年こそ 今年こそとて 七歳を
    過して集う 二百万の民
 一首目と三首目は全会員に、二首目は青年部に贈られたものである。いずれの歌にも、「七歳」とある。
 七十五万世帯を成就し、晴れやかに迎えた会長就任七周年となる新年である。戸田を慕い、戸田と共に戦ってきた幹部たちは、この七年を振り返りながら、感慨無量の思いで、三首の和歌を聴いていた。
 新年を祝い、乾杯したあと、小西理事長が、あいさつに立った。
 「本日は、戸田先生のお元気なお姿に接することができましたことは、私どもの最大の喜びでございます。昨年の暮れに、私たちは戸田先生から、『一、一家和楽の信心。二、各人が幸福をつかむ信心。三、難を乗り越える信心』との、三つの指針を頂きました。本年は、この指針を心に刻み、今日の喜びをかみしめながら、共々に頑張ってまいろうではありませんか」
 学会本部での新年の勤行会は、午前十一時に終了した。参加者の多くは、総本山に行くために、それから東京駅に向かった。
 総本山は、全国各地から集って来た会員でにぎわっていた。その人たちに、この日の朝、本部で発表された戸田の和歌が伝えられた。各坊で会員たちは、健康を回復した戸田と共に新年を迎えた喜びをかみしめつつ、三首の和歌を朗詠した。
 翌二日は、朝から雨であった。午前十一時から、法主・日淳に新年のあいさつをした。
 三日は、雲一つない晴天となったが、戸田は理境坊の二階にあって、各方面から集った幹部と懇談し、外に出ることはなかった。伸一を傍らにおいて、廊下の藤イスに座り、各地の幹部の報告に耳を傾けながら参道のにぎわいを眺めているのであった。以前の体力を取り戻すまでには、まだ、いたっていなかったのである。
 彼は退屈すると、伸一を相手に将棋をさした。一勝一敗のいい勝負であった。
 伸一が、廊下に出た戸田を写真に撮ろうと、カメラを向けると、戸田は、にっこりと笑った。久しぶりに目にする、まばゆい笑顔であった。
 総本山への初登山は、元日から五日まで行われたが、初登山が終わると、学会は総力をあげて、大講堂落慶総登山の準備に入った。
 三月の一日から、一日七千人、延べ約二十万人に上る登山となる。それは総本山にとっても、学会にとっても、空前の壮挙であった。大成功、無事故を期し、万全の構えで準備が進められていった。
 輸送計画に基づく各支部の参加者の割り当てをはじめ、国鉄やバス会社などとの綿密な協議、総本山との打ち合わせ、各役員の人選――と、数えきれないほどの事項を、次々と、さばかなければならなかった。
 その準備、運営のすべての責任を担っているのが、参謀室であった。室長の山本伸一は、連日、多忙を極めた。伸一の疲労は募り、発熱する日が続いていた。しかし、彼は、この総登山に一切をかけた。
 大講堂の落成は、師である戸田城聖の念願であり、総登山は、戸田が七十五万世帯を達成した広宣流布の刻印ともいうべきものであったからである。
 戸田は、準備に余念がない伸一の姿を目にし、自分は、三月の一カ月間に及ぶ総本山での滞在に備えて、体の調整に専念しようと決めた。そして、会合への出席は、すべて差し控えることにした。
 とはいえ、一月七日の、僧侶十六人を招待して行われた新年の宴には、会長である彼は、出席せざるを得なかった。しかし、彼の疲労は、はなはだしく、宴半ばにして退席したのである。
 この時、戸田の病は、ほとんど回復していたが、病による体の衰弱の回復は、容易ではなかった。三月まで、十分な静養が、何よりも必要であった。
2  一月二十六日の日曜日のことである。思いもかけない痛ましい事故が起こった。男子第四十四部隊の部隊長である大野英俊が、″交通事故によって不慮の死を遂げた″との報告が入った。
 彼は、この日の午後、仕事でオートバイに乗り、新宿区内で私鉄の踏切を渡ろうとして、電車にはねられたのだ。踏切には、警報機はあったが、遮断機はなく、彼は、上り電車が通過した直後に飛び出した。そこに下り電車が来たのだ。一瞬の出来事であった。彼は、電車に三十メートルほど引きずられた。即死である。
 山本伸一は、この日、疲労から熱を出して寝込んでいた。そこに事故を知らせる電話が入った。伸一は、知らせを受けると、戸田に一報し、直ちに大野英俊が運ばれた病院を訪ね、大野の遺体と対面した。
 電車に引きずられたにもかかわらず、外傷は、額にわずかな擦過傷があるだけであった。眠るような、安らかな臨終の相だった。
 それから、伸一は、事故現場に向かい、事故の状況を詳細に確認した。そして、大野の関係組織の青年たちと、葬儀の手配などの打ち合わせをし、翌日、戸田城聖の自宅に報告に訪れた。
 戸田は、仏壇に向かい、大野の冥福を祈り、唱題しながら伸一を待っていた。
 伸一は、開口一番、戸田に詫びた。
 「先生、大切な弟子を亡くすようなことになり、まことに申し訳ございません」
 彼は、部隊長という青年部の中核である幹部の死を、青年部の室長である自分の責任として、とらえていたのである。
 「これを契機に、全男子部員が、″事故など絶対に起こさない″という決意を固めることだ。今は大事な時だけに、魔も強いのだ。わずかでも油断があってはならない」
 戸田は、厳しい表情で、こう言うと、大野の家族の状況を尋ねた。大野には、子どもはなく、妻と二人で暮らしていた
 「かわいそうなのは、奥さんだな。後々のことも、皆で、よく考えてあげなさい。それから、葬儀は部隊葬として、皆で、彼を送るようにしなさい。ところで、藤川はどうしているのだ。本来ならば、彼こそ、大野のために奔走すべき立場ではないか」
 「はぁ……」
 伸一は、答えに窮した。藤川というのは、第七部隊長の藤川一正のことである。彼は、当時、戸田の事業の関連会社である大洋精華の営業部長をしていた。大洋精華は、家庭用品や電気器機などの販売会社であった。
 大野英俊は、ここの営業部員であり、また、学会の組織にあっても、第四十四部隊の部隊長になるまで第七部隊に所属していた。
 戸田は、怒りの表情を浮かべ、押し黙っていた。
 彼は、深い思いに沈みながら、この事故について考えをめぐらしていった。
 ″本質的には、大野の宿業ゆえの事故といえよう。しかし、注意力が散漫になっていたことが、直接的な事故の原因であることは間違いないだろう。それは、過労による可能性もある。あるいは仕事に追われ、焦りがあったのかもしれない……″
 戸田は、こう思うと、数カ月前の彼の指摘が、現実となってしまったことが、残念でならなかった。
 ――前年の夏、戸田は、大洋精華の社員の表情が暗いことが気になった。関係者に聞くと、営業部長である藤川の、常軌を逸したやり方に、社員が苦慮しているとのことであった。社員に休日も与えずに働くことを強い、営業成績が悪いと怒鳴りつけ、時には、コップを床に叩きつけたりもするという。そして、社長をしている十条潔が、社員を温かく激励するのを冷ややかに見ながら、自分は、社員への監視の目を光らせているというのである。
 戸田は、その話を耳にすると、十条に厳しく言った。
 「社員を、よく休ませなさい。大事故を起こすぞ。社員を犠牲にするようなことがあっては、絶対にならない!」
 社長の十条も、その強引なやり方を心配し、悩み抜いていた。大野英俊は、生真面目で責任感の強い青年であった。理不尽なことにも耐え、休みの日曜日にも仕事に出かけて行ったのであろう。
 戸田城聖は、今、彼の憂慮の警告にもかかわらず、無残な事故が起こってしまったことに、悔しさをかみしめながら、藤川という人物について考えていった。
 藤川は、区議会議員でもあったが、一九五五年(昭和三十年)の六月、河口湖畔で行った水滸会の野外訓練の折、議員になって間もない彼が、″故郷に錦を飾るとはどういうことか″と尋ねたことがあった。
 戸田は、青年たちに、偉大なる政治家や大実業家になることを説いてはきたが、人生の至高の価値は、広宣流布の使命に生きること以外にないと訴え続けていた。それだけに、その問いは、ピントのずれた妙な質問といえた。
 戸田は、瞬間的に藤川の心を察知した。区議会議員となった彼には、社会の栄誉や権力の威光が、よほど尊く、まばゆく思えたにちがいない。
 戸田は、質問を聞くと、言下に、こう答えた。
 ″戸田の弟子となって、広宣流布に戦っている姿が、最高にして永遠の錦じゃないか! この錦こそ、最高にして不変の錦なんです!」
 戸田は、青年の心に兆した名聞名利の心を、砕いておきたかったのである。以来、戸田は、彼の生き方を危慎してきた。根底の一念の、微妙なずれを感じたからである。
 藤川は、やがて、女子部の幹部である松田幾代と結婚するが、その後、彼の名聞名利を欲する心は、ますます強くなったように思えた。
 戸田は、怒りを込めた声で、山本伸一に言った。
 「藤川は、一将功成りて万骨を枯らすことになる。とんでもないことだ。しかし、女房も女房だ。あの見栄っぽりの性格が、ますます亭主をおかしくさせている。悪いのは女房だ。
 今度の事故も、上司である彼に、社員を思いやる心があれば、あるいは防ぐことができたのかもしれない。大野の死は、宿業であることは間違いないが、藤川は、真摯に自分を反省する機会としていかなければならない……」
 それにしても、戸田にとって、部隊長という青年部の最高幹部の不慮の死は、初めてのことである。彼は、大野の死は、仏法のうえから見る時、何を物語っているのかを考えざるを得なかった。
 ″三障四魔のなかに、死魔とあるが、幹部である彼の死から、信心に不信をもつ人がいるならば、それは死魔に翻弄された姿といえよう。彼の死には、何か大きな意味があるはずである……″
 戸田は、愛する弟子の大野のためにも、また、多くの会員たちのためにも、彼の死が何を意味するかを、明らかにしておかなければならないと思った。
 戸田は、伸一が帰って行くと、原稿用紙を広げた。万年筆を手にし、一行目に「大野君の死を悼む」と記した。かわいい弟子の痛ましい死を思うと、彼の手は、小刻みに震えた
 戸田の脳裏に、大野の屈託のない笑顔が浮かんだ。戸田の目は潤み、熱い涙が頬を濡らした。彼は、しばらく思索にふけっていたが、あふれる情愛をぺンに託して、堰を切ったように書き始めた。
 「大野君、君の死を聞いて、ぼくは非常に驚いた。わが学会は、ぼくが会長就任以来、大幹部の死は一人もみない。また、青年部において、いかなる意味においても、部隊長級の死は、いまだこれをみない。
 大御本尊様に奉仕する身として、一時は、ただ驚くのみであった。
 生命について、これを論ずれば、三世の宿命を基礎としなければならぬ」
 戸田は、込み上げる悲しみをとらえ、努めて冷静に、論を運ぼうとしていた。部隊長として、健気に信心に励んでいた同志が、なぜ不慮の死を遂げたのか。大聖人の仏法は、宿命の転換を可能にする大法ではないのか――戸田は、今、会員たちの心に兆すであろうこの問いに対し、三世の生命のうえから、真っ向から答えようとしていた。死の解明こそ、仏法の偉大なる法理の証明である。
 「その三世の宿命について、健康とか、智慧とか、家庭不和とか、金銭とか、という問題は、わりあいに簡単に解決ができることを、釈尊も、天台も、妙楽も説いているが、生命の転換については、釈尊、天台大師、日蓮大聖人の深く悩まれたところである。
 釈尊は、釈尊の立場において、天台は、天台の流儀において、大聖人は、大聖人の流儀において、いずれも解決はしている。これには、深い思索と強い信仰とが必要であることを、先哲は強く主張せられている。
 日蓮大聖人は、三大秘法の本尊を根本として、生命問題を解決しておられる。もし、われらが、これに随順するならば、必ずや大聖人の仰せのごとき結論を得られるのである。
 佐渡御書に、般泥洹経を引いていわく、『善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ……』、又云く『及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり
 この経文は、過去世において、多くの罪や悪業をつくった者が、その報いによって、人びとから軽んじられるなどの苦しみに遭うことを説いたものである。そして、本来、その苦しみは深く、大きく、未来世にわたるところを、仏法を守った功徳によって、現世で軽く受けることを示している。
 戸田は、黙々と万年筆を走らせていった。
 「この御文によれば、君の横死も軽く受けたるの部類に属するか。かく論ずれば、死というものを解決しえぬがゆえに詭弁を用いるというかもしれぬが、それは三世の生命観を知らず、仏法のなにものかも解しえぬやからの妄言である」
 また、戸田は、「兄弟抄」に引用されている涅槃経の「よこしま死殃しおうに羅り呵嘖・罵辱めにく鞭杖べんじょう閉繋へいけい・飢餓・困苦・是くの如き等の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」の御文を引いて論じていった。
 「横に死殃に羅り」とは横死のことである。経文の意味するところは、今世で横死しなければならないことも、また、人から問責されたり、罵られ、辱しめられたりすることも、現世にあって報いを軽く受けている姿であり、それによって、地獄に堕ちることを防いでいるとの教えである。
 大聖人は、この経文から、さまざまな苦報を受ける因を明かされ、「我身は過去に謗法の者なりける事疑い給うことなかれ」と、池上兄弟に御指導されている。つまり、私たちの苦報の因は、過去世に正法を行ずる人に怨をなした、謗法の罪にあることを明示されているのである。
 そして、その罪は深くとも、今世で正法を信受し、行ずる功徳が大きいために、それが、未来の大苦を招き寄せ、今生の少苦となって現れていると仰せになっている。
 まさに、転重軽受の法門であり、苦しく、悲惨に見える報いも三世にわたる仏法の法理に照らすならば、偉大な功徳といえるのである。
 さらに、大聖人は、それを疑って、現世の軽苦を忍ぶことができず、退転するようなことがあってはならないと、戒められている。
 戸田は、一文の結びとして、こう記していった。
 「この大聖人の御心を拝するに、君の横死は現世の少苦である。少しも悩まず、いたまずして死に、しかも大地獄に堕ちずして成仏の相をいたす。また、死後は大聖人のもとにありて、次の生命活動の強き根源を与えられる。喜びとするか、悲しみとするか。その人びとによるともせよ、ぼくは君のために喜びとするものである。
 願わくは大野君、今や広宣流布の途上にある。一日も早く、この地上に返り咲き、われら同志と手を握って、大聖人の御遺命を達成しようではないか。若々しき青年として、君を見る日も遠からじと思う。速やかに、学会のもとへ帰り給え。同志は君の帰り来らんことを待望している」
 愛弟子の、無残な交通事故死という不可解に思える現象も、広宣流布に命を捧げ、大難を忍んできた戸田には、御聖訓に照らして、その真意を明らかに知見することができた。彼は信心の眼をもって、生死の深淵を凝視することができた。
3  大野英俊の通夜は、一月二十八日に営まれた。
 戸田は、通夜の席に駆けつけ、大野の遺体を抱き締めてやりたかった。しかし、いまだ整わぬ彼の体調が、それを許さなかった。彼は、やむなく、山本伸一に、遺族へのお悔やみの伝言を託した。
 伸一は、通夜の席で大野の冥福を祈り、懇ろに読経・唱題した。そして、悲しみにやつれた夫人を、力の限り、励ますのであった。
 「奥さん、今は、ご主人を亡くした悲しみでいっぱいであると思います。しかし、一日も早く、その悲しみを乗り越えてください。
 大野さんは、電車に、はねられながら、不思議なことには、ほとんど外傷がない。眠るような臨終の相をしています。
 それは、彼が見事に宿業を転換し、成仏を遂げた証であるといえます。夫を亡くしたとしても、家族が、真剣に信心に励んでいくならば、必ず崩れざる幸福を築いていけるのが仏法です。
 あなたが、強く、強く、生き抜いて、幸せになることが、ご主人の願いであり、彼は、それをじっと見守っているはずです。負けてはいけません」
 伸一は、悲しみに凍てついた夫人の心に、勇気の明かりをともそうと、懸命に語りかけていった。
 社長の十条潔は、出張中であったが、急遽、引き返し、通夜に駆けつけた。彼は、大野の遺体の顔をなでながら、肩を震わせて泣いた。
 「大野君、痛かっただろう。辛かっただろう……」
 それは、十条の精いっぱいの言葉であった。そこには、万感の思いが込められていた。しかし、この通夜にも大野と最も関係の深かった藤川一正は、この通夜にも姿を見せなかった。
 伸一は、彼に憤りを覚えた。そして、そんな人間の未来を案じた。
 戸田城聖は、翌日、藤川が通夜にも参列しなかったと知ると、顔を真っ赤にして激怒した。
 「なにっ! 藤川は、人間として許せん。先輩でありながら、無責任極まりない態度ではないか。今後、藤川のことは、一切、信じるな!」

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