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日蓮大聖人・池田大作

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憂愁  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  日ごとに秋の気配が深まっていくにつれて、戸田城聖の健康は、次第に回復しつつあるように見えた。
 戸田自身、あの耐えがたかった暑熱の夏に比べると、食欲も増し、体調も整ってきているように感じられたが、体の芯にまとわりついているような疲労感が抜けることはなかった。しかし、たぎり立つ気迫が彼を支えていたのである。
 九月下旬のある日、戸田は学会本部にあって、各方面の未来の構想を考えていた。
 ″夕張支部の結成によって、五支部の体制となった北海道は、ひとまず広宣流布の布陣は整ったとみてよい。次は、南の九州をどうするかだ。今、先手を打っておけば、九州の大発展の基盤をつくることができる″
 当時、九州は、北部に福岡と八女の二支部があり、両支部の陣容は、既に約四万世帯に達していた。
 このほか東海岸の大分、別府、延岡、宮崎などの主要都市には、関西の船場、松島、梅田の各支部が、それぞれ、千世帯から二千世帯の支部員を有していたのである。
 さらに、熊本、鹿児島にも、足立支部など、八千世帯の学会員がおり、九州は、総勢五万五千九百世帯になっていた。
 九州も、関西や北海道のように総支部を結成し、同志が結束を図っていけば、さらに大きな飛躍を遂げるであろうことは間違いなかった。
 戸田城聖は、春の総会のころから、そのことに気づいていたが、誰を、この総支部の責任者にするかとなると、いささか思案に暮れざるを得なかった。地元の九州からは、全九州を任せるに足りると思える人材は見いだせなかった。
 すると東京から、誰かを派遣しなくてはならないことになる。しかし、彼の側近は、皆、一人で幾つもの役職を兼任し、フル回転している。誰を派遣するにしても、大きな支障をしたすことになる。だが、事態は、もはや一刻の猶予も許されぬ段階にきていた。
 ″誰かを選ばねばならない″
 戸田は、まず山本伸一を思い浮かべた。しかし、伸一は青年部の室長として、学会全体を担う屋台骨の存在であり、既に学会は、事実上、彼を中心にして動いていた。
 ″伸一なら、盤石な組織をつくりあげ、九州を大阪以上に大発展させるであろうが、伸一は、学会の未来を託すために、私の側に置いて、訓練の総仕上げをしなくてはならない″
 そう考えると、伸一だけは、どうしても動かすわけにはいかなかった。
 ″では、誰がいるか。九州に頻繁に通うとなると、年輩者ではなく、青年の方がよい。それに、九州となんらかの関係がある幹部の方が、地元にもなじみやすい″
 戸田城聖は、九州に縁のある若手幹部を思い起こして、九州総支部長の候補として考えてみた。
 しかし、いずれも、力量、人格、見識などを考え合わぜると、首をひねらざるを得なかった。″この人物ならば″と思える候補がいないのである。
 彼は、しばらくは現状のままで、いかざるを得ないかとも思ったが、九州の発展のためには、今、どうしても手を打たなければならないことを痛感していた。
 九州は、初代会長・牧口常三郎も、弘教に足を運んだ縁の地である。その大地に、今、五万数千の同志が育ち、飛翔の時を待っていることを思うと、総支部の結成は、なんとしても行わないわけにはいかなかった。
 戸田は、候補として考えてみた幹部の顔を、再び思い浮かべながら、思案を重ねるのであった。
 ″あえて選ぶとすれば、石川ということになるかな″
 小岩支部長に就任した石川幸男は、九州の出身ではないが、夏季地方指導では、これまで九州の八女や福岡などに派遣されてきた。また、教学の講義の担当講師として、福岡を中心に九州の指導にあたってきていた。
 彼は、一九五〇年(昭和二十五年)十一月の入会であったが、戸田は、翌年四月に聖教新聞が創刊された時には、編集スタッフに任命し、程なく編集長とした。実際に大きな責任をもたせて、人を訓練するというのが、戸田の人材育成の方法でもあった。五一年(同二十六年)七月の男子部結成式の折には、彼は、第一部隊長に抜擢され、一年半後には、青年部出身の初の支部長として、小岩支部長に就任したのである。
 まさに琴星のように、短日月のうちに登場してきた幹部といってよい。
 しかし、それだけに、戸田には、気にかかることも少なくなかった。
 学者肌の石川は、教学に力を入れ、編集者としての力も着実に増していったが、実践力に欠け、人への配慮に之しいのである。出会った同志があいさつをしても、まともに返事もしないといった声や、支部員に対する態度が、横柄で冷たいといった声も出ていた。
 戸田は、彼の自己中心的な性格と、次第に兆し始めた慢心を見て取り、憂慮していたのである。
 また、酒を飲んで乱れることも、戸田の心配の種であった。酒を口にすると、別人のようになって、周囲の人に絡み、時には、自分の支部員に際限のない酒まかせの指導をすることもあった。戸田は、そうした振る舞いに対し、「君の酒の飲み方は下臈の酒だ。下臈の酒は飲むな」と注意を重ねてきた。
 戸田は、石川に厳しい指導もしてはきたが、本当に激しく叱ることは少なかった。むしろ、身近に置いて、擁護し、讃えるように努めてきたといってよい。内向的な性格の男であるだけに、厳しい火を吐くような指導は、受け止め切れないことを、よく知っていたからである。
 学会の首脳幹部の采配に問題があった場合、常に戸田から叱責されるのは、山本伸一であった。理事長の小西武雄たちは、自分たちに戸田の叱責が及ばぬことに胸をなで下ろし、「防波堤」と呼んでいた。
 石川は、自分が叱責されないのは、立派な弟子であるからだと思っていたようだ。彼には、自分を見つめ直す自省の心が薄かった。それが、慢心にもつながっていたのである。戸田は、そのことにも気づいていた。
 ″九州人は、情が熱い。彼は理屈屋だが、九州にもっていけば、「情」と「知」がうまくかみ合って、九州に新しい力が湧くかも知れぬ。九州の総支部長として、戦わせてみるか……。
 また、九州の地で、組織の第一線を汗まみれになって駆け巡り、同志を励ましていくなかで、彼も、本当の信心、本当の学会を肌身で知ることができるだろう。その戦いを通して、机上の信仰と、兆し始めた慢心を打ち破ることもできよう″
 人間の完成は、荒れ狂う人間の海のなかで激しく波にもまれ、自らの信念の航路を切り開いていくことによって、なされるものだ。
 自分が机上で組み立てた観念の世界に、こもりがちな石川は、自己の観念の尺度で、人も、現実も、裁断していくきらいがあった。そうした在り方は、仏法を偏狭な自分の考えでとらえ、それを絶対視するところから、恐るべき教条主義に陥りかねない。また、現実が自分の思うに任せぬとなれば、最後は、すべてを周囲のせいにすることになろう。そこに、自分の観念の殻にともる人間の落とし穴もある。
 広宣流布のリーダーとして、人格をつくるために不可欠なものは、自分の殻を砕くことである。それには、全精魂を傾け、一切をかなぐり捨て、必死になって戦う、真剣勝負の戦場が必要となる。
 一抹の不安はあったが、戸田城聖は、あえて石川の可能性にかけ、彼を九州総支部長に任命しようと決めたのである。
 九州総支部の人事は、九月三十日の、九月度本部幹部会の席上、発表された。
 総支部長を補佐する総支部幹事には、八女支部長の鬼山勝春が就任した。そして、小岩支部長は、江東総支部長の泉田弘が兼任することになった。
2  戸田城聖にとっては、慌ただしい日々が続いていたが、十月に入ると、思いがけないニュースが世界を駆け巡った。
 十月四日、ソ連が、世界最初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したというのである。ラジオや新聞は、世紀の大事件として大々的にこれを取り上げ、世界の耳目はこのニュースに注がれた。
 人工衛星は、直径わずか五十八センチメートル、重量八十三・六キログラムの球体で、地上に電波を送りながら、楕円軌道を描いて一時間三十五分ほどで地球を一周するという。秒速は約八千メートルである。
 人工衛星の打ち上げ成功のニュースに、人びとは沸き返り、誰もが宇宙時代の到来を感じた。戸田城聖の周囲にいる人びとも、戸田の人工衛星に対する発言を促すように、驚嘆した感想を語った。
 「先生、これは宇宙の神秘に対する、人間の知恵による挑戦ではないでしょうか。この分ですと、宇宙生命の神秘の扉が開かれる日も近いですね」
 「さあ、どうかな。そう簡単にいくものでもないだろう」
 戸田は、極めて冷静であった。一個の人間を、そして大宇宙を貫く生命の大法を思えば、人知の限りを尽くした人工衛星の打ち上げも、無限の宇宙空間に蛍火を投じただけにすぎないと、彼には感じられた。
 「でも、やはり、これは人類の壮挙であり、勝利とはいえないでしょうか」
 「壮挙にはちがいないが、勝利とは必ずしも言えないぞ。人工衛星が軍事的に利用されれば、むしろ、人類の悲劇を増幅させることになるからな」
 「先生、新聞などでは、宇宙旅行も、もう夢ではなくなったと言っていますが、そうなると、広宣流布も宇宙的に考えなくてはいけませんね」
 戸田は、それを聞くと、笑いだした。
 「おいおい、地球の一角の、小さな国の広宣流布も、まだ始まったばかりなのに、そう宇宙にまで飛躍されては困るな。
 大事なのは足もとだよ。しっかり、足が地に着いていなければ、観念の広宣流布はできても、現実の広宣流布はあり得ない。何があっても浮き足立つのではなく、妙法の旗を掲げて、現実の大地に、しっかりと立つことだよ」
 戸田は、常に壮大な宇宙を仰ぎ、深い思索を重ねながらも、彼が現に立っている足もとを忘れることは、決してなかった。現実の諸問題に、日々、心を砕きながら、懸命に格闘し続けていたのである。
3  十月十三日には、九州総支部結成大会が行われ、戸田城聖は福岡にいた。会場となった福岡市内の大学のラグビー場には、晴天の秋空のもと、九州各地から約三万人の会員が集った。
 午前九時に、結成大会は開会となり、学会歌、経過報告に続いて人事が紹介された。そして、地元九州を代表して、八女支部と福岡支部の幹部が、総支部結成の喜びを語ったあと、総支部長に就任した石川幸男が、抱負を述べた。さらに、理事長の小西武雄らのあいさつがあり、会長・戸田城聖の指導へと移っていった。
 戸田は、はつらつとした三万人余の九州の同志を見て、「火の国」に旭日を仰ぐ思いがした。
 古来、大陸との交流も深い九州に、かくも多くの地涌の戦士が涌出し、総支部が結成されたということは、東洋広布の時代の到来を告げるものであると、彼には思えた。
 戸田は、満面に笑みをたたえながら語り始めた。
 「本日は、晴天に恵まれ、九州男児、九州婦人の健康なる姿と心を見て、私は、まことに嬉しく思いました。
 思うに、今、世界は原子爆弾の脅威に怯えきっている。また、日本の国内を見れば、自界叛逆の難の恐ろしさにあえいでいる。たとえば政界にせよ、経済界にせよ、絶えず対立を繰り返している。どこに調和があるだろうか。まさに、民衆救済の大責務は、創価学会の肩にかかっていると、私は信ずるものであります。
 願わくは、今日の意気と覇気とをもって、日本民衆を救うとともに、東洋の民衆を救ってもらいたいと思う。これをもって私の講演に代える」
 話は、極めて短かった。しかし、万感の思いを託しての指導であった。
 会場では、このあと、九州総支部の結成を祝賀する大運動会が行われた。和やかに競技が展開され、午後三時に終了し、散会となった。
 戸田は、翌十四日には大阪に向かった。御書講義のためである。
 彼が大阪に着くと、法主を務めた水谷日昇が逝去したとの知らせが届いていた。
 ――十月十四日午前二時二十分、日昇は息を引き取った。十月七日に病床に臥し、七日間の加療が行われたが、高齢のためか快癒はかなわず、総本山内の蓮葉庵で最期を迎えた。七十九歳であった。戸田城聖は、大阪から、直ちに総本山へと向かった。
 彼が、十月十日に、蓮葉庵を訪れ、日昇を見舞った時には、病床で来訪を待っていた。
 日昇は、一九四七年(昭和二十二年)、総本山第六十四世の法主となった。折から農地改革で総本山は経営の基盤を失い、厳しい困苦のなか、宗門の再興に力を注いだ。そして、学会の赤誠の外護のもと、五重塔の修復、奉安殿の建立をはじめ、各地に寺院が建立され、五六年(同三十一年)三月に退座するまで、宗門は大きく発展した。
 戦後の創価学会は、日昇の登座と時を同じくして草創の歩みを始めた。そして、五一年(同二十六年)に戸田が会長に就任すると、学会は飛躍的な発展を遂げ、総本山の興隆に尽くしてきた。
 十五日の通夜の席で、戸田城聖は、ひとしお尽きぬ感慨に駆られて、苦難の過ぎし日を思い返した。
 ――敗戦直後から数年間の、あの疲弊した総本山の姿。参道の石畳を踏む人も、まことに少なく、宝蔵で御本尊を拝する人影は、いたって少なかった。
 農地法施行による宗門の収入の途絶から、僧侶は鋤鍬を振るって荒れ地を畑に変え、食糧の自給自足に励まなければならなかった。
 戦時中、壊滅の危機に瀕した学会は、焼け野原に一人立った戸田城聖の孤軍奮闘から、再建の歩みが始まった。しかし、しばらくは、はかばかしい発展もなく、困窮の総本山を目にしながらも、思うに任せなかった。
 日昇の辛労を知りつつ、戸田は、さらに辛かった。彼は、″いつの日か……″と、人知れず心に繰り返し、総本山の再興を誓った。そして、供養の限りを尽くし抜いていったのである。
 日昇は、五一年(同二十六年)に、創価学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊を、さらに、五五年(同三十年)には、関西本部の「大法興隆所願成就」の御本尊を認めている。
 この関西本部の入仏式の折り、日昇は、「先年は、本部の御本尊といい、ここにまた関西本部の御本尊をお認めすることは、私は実に何たる幸福で、人生の幸福、大満足に感謝にたえません。涙をもって三宝にお礼を申し上げるとともに、皆さまにも感激の涙をもってお礼申し上げる」と述べている。それは、広宣流布に邁進する学会への、深い賛嘆の心から発せられた言葉であったにちがいない。
 戸田城聖は、通夜の唱題のなかにあって、日昇を偲んでいた。戦後十二年、今、総本山は、大講堂建設の槌音がこだましている。外壁は、ほとんど完成し、巨大な杉木立のなかに、富士を背にした威容を現す日も近くなった。その完成を間近にした今、日昇が逝去したことが、戸田は残念でならなかった。
 彼は、日昇の枢の前で思った。
 ″せめて来春の大講堂落慶までは、ご健勝でいていただきたかった……″
 十月十六日には、日昇の密葬が、しめやかに行われた。本葬は、十月二十五日と決まった。
 本葬の日は、朝方に秋雨が降っていたが、間もなく雨も上がり、昼近くになると薄曇りのなかを、秋風が颯々と吹いていた。
 午後零時三十分、学会の音楽隊が葬送の調べを奏でるなか、客殿から、行列が、竹矢来に囲まれた経蔵前の式場へ向かった。戸田城聖も、この行列のなかにあった。学会旗、支部旗、男女部隊旗と、百十八本の旗を翻し、学会幹部千五百人が、粛々として進んでいった。
 午後一時二十分、開式となった。
 戸田は、出獄以来十二年にして、かくも多くの会員によって、日昇を見送ることができ、悲しみのなかにも、いささか気持ちが慰められた。まだ、戸田の念願とする広宣流布は緒についたばかりだが、葬送の光景は、広宣流布の一つの事実相を表していると彼には思えた。
 日昇の本葬を終えて東京に帰ると、戸田は、常にない疲労を覚えた。
 彼の気力は、変わることなく、旺盛に見えたが、このころから、ごろりと横になって休息を取ることが、日増しに多くなっていった。しかし、体の変調を誰に訴えるわけでもなかった。時間が来れば、悠然として起き上がるのである。
 山本伸一は、戸田の様子から、師の体調の変化と、ただならぬ覚悟を感じていた。
 十月二十八日には、十月度の本部幹部会を前にして、人事の決定のために理事会が開かれた。戸田は、この席で、思いがけない発言をした。
 「これからは、人事の決定は、理事長を中心に、みんなでよく相談して決めなさい」
 「…………」
 理事たちは、この突然の発言の意味がのみ込めず、戸田の顔を見た。
 彼の表情は、平生と変わらず、何事のないかのように見えた。
 「このところ、みんなも育ってきたからな。私に代わって、人事を決定してもよいことにしよう。今後は、君たちに任せるよ」
 理事たちは、この言葉で、戸田が、人事の決定権を譲ろうとしていることに気づいた。
 これまで戸田は、人事の決定については、極めて厳格であった。地区部長、地区担当員以上の役職者の任命は、会長の権限であり、戸田は、その一人ひとりに対して、全神経を集中させるかのように熟慮し、慎重に慎重を期した末に、決定の断を下してきた。
 組織の拡大につれて、月々の新任幹部の任命は、かなりの数に上っていたことは事実であったが、戸田はこれまで、人事だけは、決して人には任せなかった。
 理事長の小西武雄をはじめ、理事たちの間には、健康状態のあまりよくない戸田を目にするにつけ、日常の組織運営の問題では、なるべく戸田を煩わせることのないようにしようという、暗黙の了解のよう、なものができつつあった。
 だが、人事だけは別であると、誰もが考えていた。しかし、戸田は、その人事を任せるというのである。
 「わかりました。私どもでやってみます」
 小西は、半は戸惑いながらも、こう答えた。
 戸田が、人事を小西たちに委ねたのは、人事の決定が煩わしくなったからではなかった。長い将来のために、あえて大切な人事を任せ、その決定のいかんで、組織は生きもすれば、死にもするという機微を、彼らに悟らせる訓練をしたかったのである。

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