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日蓮大聖人・池田大作

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宣言  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
2  一九五七年(昭和三十二年)八月三十日、宮崎県日向市の日豊本線富高駅から定善寺に至る街路に、長い行進の列が続き、朝の家並に、学会歌の歌声が響き渡った。
 「この行列は、なんじゃろか」
 小さな町のことである。沿道の人びとは、ただ驚いて行進を見ながら、口々にささやき合った。
 行進する人の顔は、晴れやかで、皆、はつらつと胸を張り、喜々として耳なれぬ歌を歌っている。
 「ようわからんが、定善寺が創価学会の寺になったっちゃげな。その行列じゃそうだ」
 この日、千葉県・保田の妙本寺系の本山であった定善寺をはじめとする日向七カ寺が日蓮正宗に帰一し、その法要が定善寺で営まれ、帰一を祝賀する行進が行われたのである。
 当時、日蓮正宗といっても、社会の人びとの多くは、その名さえも知らなかった。「日蓮」といえば、身延の日蓮宗と思うか、創価学会を想起し、そして、すぐに「折伏」を思い浮かべるのが、人びとの常であった。事実、この定善寺の帰一の推進力となったのも、創価学会の果敢な広宣流布への戦いであった。
 行進は壮観であった。法主の堀米日淳が乗った車を先頭に、学会員約二千人の市中行進である。列は延々と続き、最後尾の人たちが出発したのは、先頭が定善寺に到着してからであった。それは、日向市にとって、記録的な出来事であったにちがいない。
 翌日の各紙の地方版や地元紙にも、日向七カ寺の帰一とともに、この大行進が報じられている。
 定善寺門前には、同寺の住職である小原日悦が出迎えていた。幾多の風雪を越え、この日を迎えた小原の顔は感慨をたたえ、頬は、ほのかに上気していた。
 定善寺の歴史は古く、元弘元年(一三三一年)、日叡にちえいの開基である。日叡は、日興上人の弟子・日郷の教えを受けていたが、日興上人の滅後、建武二年(一三三五年)に、日郷が大石寺を去って安房の保田に妙本寺を建立すると、定善寺も、その系列に入り、日向方面の本山となってきた。
 妙本寺や定善寺は、日興門流であったが、戦時中の軍部政府による宗教統制策によって、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗に統合された。
 しかし、保田の妙本寺は、身延の日蓮宗とは教義的にもなじむわけがなく、戦後、日蓮宗から離脱したのである。そして、この年の三月に、日蓮正宗への帰一が決定し、妙本寺の帰一奉告式は、四月七日に大石寺で営まれ、同月二十八日には、妙本寺での奉告法要が行われていた。
 保田の妙本寺が帰一したことによって、系列の定善寺をはじめとする日向七カ寺も、帰一が決まったのである。
 妙本寺を帰一に導いたものは、学会員の折伏であった。潮の流れが、船を運び、魚の群れをいざなうように、創価学会による広宣流布の潮流は、新しき宗史の流れをも開いていったのである。
 妙本寺のある千葉県の安房郡で、学会の折伏が開始されたのは、一九四八、九年(昭和二十三、四年)ごろのことであった。やがて、勝山に地区が結成され。五三年(同二十八年)には、初の地区総会が開催された。
 この日、東京から来ていた幹部から、「妙本寺は、本来、興門流であり、身延の一門にいるのはおかしいことだ」と聞かされた一人の壮年会員がいた。
 彼は、その言葉が脳裏に焼き付いて離れなかった。
 ″もともと日興上人の流れをくむものなら、一時も早く、身延から離れ、正しい信心に立ち返って、学会と一緒に広宣流布をめざすべきだ。誰かが言わなくてはならん……″
 その思いは、日ごとに強くなり、妙本寺の末寺を訪れ、紹介状をもらい、同志を伴って、妙本寺の貫主に面会を求めたのである。
 彼は、複雑な話は、何ひとつわからなかった。ただ、興門流でありながら、身延の一門にいることは間違いであり、ともかく学会の幹部に会って、話を聞くようにと、熱心に説いていった。
 妙本寺の貫主・富士日照にっしょうは、その真剣さに心を動かされ、学会の幹部との会談が実現した。立場や肩書ではない。一会員の広宣流布への情熱が、新たな流れを開く突破口となったのだ。
 身延一門との合同の後に妙本寺の貫主となった日照は、本尊さえも雑乱した身延の乱脈ぶりに疑問を感じ、合同をよしとはしていなかった。
 多くの日興門流寺院が、軍部政府の権力に屈し、法義をも変えて合同したが、そこには、信仰者としての正義も、良心も、信念もないといえよう。日興上人を否定し、波木井実長の功労を讃える身延派に帰属することなど、道理のうえからも、本来、あり得ないことである
 この会談を通して、日照は、身延と訣別し、帰一することを決意するが、最大の問題は、檀家や末寺を、いかに説得し、円滑に事を運んでいくかということであった。一挙に事を推し進めようとすれば、檀家は動揺し、それが帰一の大きな障害ともなりかねなかった。そこで、ひとまず身延から離脱し、妙本寺は単立するかたちをとることになった。
 だが、学会に反感をいだく、妙本寺の執事らは、事態を知るや、貫主の日照に反旗を翻し、檀家や近くの末寺の僧侶を動かして、これを阻止しようとした。学会の幹部は、帰一を進める妙本寺の窮状を聞くや、主だった檀家と会い、何度も粘り強く話し合いを重ねた。次第に、檀家の理解も深まっていき、やがて、帰一すべきであるとの意見が、大勢を占めるようになったのである。
 貫主の日照は、末寺の説得にも努めたが、その際、それを積極的に支持し、行動を共にしたのが、定善寺住職の小原日悦であった。
 日悦と日蓮正宗の堀日亨との因縁は浅からぬものがあった。日亨が古文書などの調査に、かつて定善寺を訪れ、一カ月ほど逗留した折、給仕にあたったのが修行中の日悦であった。
 以来、日亨を慕い続けてきたのである。それだけに、彼は、身延一門に属しながらも、日興上人の教風を守ろうとしてきた。
 日悦は、帰一の話が持ち上がると、強く賛同の意を示すとともに、定善寺の末寺を、すべて帰一させようと、固く心に誓ったのであった。しかし、それに真っ向から異を唱えたのが、定善寺の末寺の一つであった宮崎市の上行寺だった。実は、上行寺には、こんないきさつがあった。
 ――前年の五六年(同三十一年)夏、上行寺の檀家が、学会員に折伏され、入会してしまったことに憤った同寺の住職が、学会に法論を申し込んできた。それを知った身延の宗務院は、学会との公開法論は無謀であるとして、中止を命じたのである。
 身延にしてみれば、五五年(同三十年)三月、北海道での小樽問答で完敗していたことから、決して、勝ち目はないことを痛感していたにちがいない。まして、今度の法論は、上行寺の住職が、自ら新聞社にも知らせていただけに、敗北も大々的に報じられてしまうことになりかねない。
 しかし、上行寺の住職は、法論の中止によって、自分の面白が潰されてしまったと腹を立て、県内の他の寺にも呼びかけて、身延を離脱し、独立を声明したのである。
 日蓮正宗への帰一の話が具体化してきたのは、この内紛のさなかであった。上行寺の住職は、日悦に猛然と反対し、帰一への動きを切り崩し始めた。
 しかし、日悦の決意は固かった。身延に帰属した謗法の過ちを悔い、懸命に帰一を訴えて歩いた。そして、遂に本善寺、本照寺、法蔵寺、妙国寺、本建寺、本蓮寺の六カ寺が、ともに帰一することになったのである。
 この日悦が、帰一への強い決意をもつにいたった契機もまた、広宣流布に邁進する創価学会の姿を、目の当たりにしたことであった。
 日悦は、帰一の前年に行われた、福岡での学会の支部結成大会に、招かれて出席した。折伏行に邁進する創価学会に強い関心をいだいてきたが、この時、初めて、学会のありのままの姿を目にし、その息吹に触れたのである。
 在家の信徒たちが、真剣に広宣流布を叫び、場内は、燃えるがごとき弘法への熱気に満ちあふれでいた。後に、日悦は、この時の感想を知人の学会員に、こうもらしている。
 「私も僧侶として、広宣流布のことを口にはしていた。しかし、実感をもって、この言葉を知ったのは、この時でした。御書に、『仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり』と仰せだが、このままでは、私も、『法師の皮を著たる畜生』に終わってしまう――その思いが私に、帰一への意志を固めさせたのです。創価学会の出現は、本当に不思議です。学会でなければ、広宣流布はできない。仏意仏勅の団体という以外にない」
 日悦は、身延に帰属しながらも、日蓮大聖人の御精神は広宣流布にあることを確信し、檀家にも信心指導の手を差し伸べようと、懸命に努力を払ってきた。しかし、檀家の多くは、その呼びかけにも、なかなか耳を傾けようとはしなかった。
 さんざん指導を重ねても、勤行ができる人は、八百世帯の檀家のうち、わずか三人にすぎなかった。ましてや、折伏を行じようとする人など、皆無であった。
 それだけに、学会が勇猛果敢に折伏戦を展開していることに、驚きを禁じ得なかったのであろう。自身が夢に描き、なそうとしてもできなかった理想を学会に見た日悦は、学会に、日蓮大聖人のまことの御精神が脈打っているのを実感したようだ。
3  日向七カ寺の日蓮正宗帰一奉告法要は、午前九時から、法主・日淳の導師で執り行われた。この日、学会からは、理事長の小西武雄らの幹部が出席していたが、集った二千人の同志の喜びは、ひとしおであった。唱題の声にも、一段と力がこもっていった。
 式の最後に、定善寺住職の小原日悦が、あいさつに立った。
 静かな口調であったが、声には凛とした決意が込められていた。
 「私は、仏に仕える者として、このままで終わってよいものか、本当に寺を守ってくださる人に、真実の仏の心を伝えておるのかどうかを考えてきました。そう考えると、大聖人様の前には、顔向けできないという心で、いっぱいでございました。
 もう、余命いくばくもございません。日蓮大聖人の御信仰というものが、どういうものであるのかを、檀家の人に、縁ある衆生に、しっかりとお知らせして、そうして死んでいきたいと考えました」
 日悦は、一言一言、かみしめるように語っていった。
 「本当の信仰を伝えていかなければ、私は、大聖人様のもとへまいりまして、きっとお叱りを受ける。それで、本気になって、日蓮大聖人の御精神に還ろうと思ったのでございます。
 現在までの在り方は、間違っておりました。それは、私が悪かったのです。一言うべきことを言わなかったから、こんなになってしまった。誰の罪でもない。どなたにも、平身低頭、お詫わびしたい」
 前非を悔いる真摯な言葉が、参列者の胸を打った。目頭を押さえる人もいた。
 日悦は、それから、帰一にいたった経緯に触れ、日淳に深く感謝の意を表したあと、力を込めて言った。
 「ここで、私たちが申し上げなければならないことがございます。大聖人様の折伏行、これが大聖人様の御慈悲であります。それを皆さん国民のうえに投げかけているのが、創価学会でございます。私は、創価学会の生成から見てきているのでございます。創価学会こそ、宗祖の意そのままの団体なのでございます」
 それは、身延に帰属し、謗法の罪に苦しみながら、広宣流布を渇仰してきた小原住職の確信であり、心の底からの叫びであったにちがいない。
 本堂を埋めた学会員から、激しい拍手が湧き起こった。その響きは、日向の海にこだまする、新しき朝の波音を思わせた。広宣流布の怒濤が奏でた歓喜の潮騒でもあった。
 帰一にいたるには、苦難の坂道があった。日悦が帰一の方針を打ち出し、檀家は学会員になるように呼びかけると、人びとは、ほとんど寺に寄りつかなくなった。檀家を失うことは、そのまま生活の糧を失うことである。
 日悦は、そのころ、「これから、どうやって食べていくのか」と尋ねられ、堂前の井戸を指さしながら、こう答えたという。
 「水を飲んでも、三日や四日は生きてみせる」
 愚問として一笑に付す、毅然とした言葉であった。
 当時、本当に一粒の米もなかった。わずかな麦を食べて、半年間をしのいだ。
 しかし、この帰一は、決して戦いの終わりではなく、むしろ始まりであった。檀家の多くは、日蓮正宗への帰一というより、自分の寺が創価学会に奪われたと思ったのだ。
 しかも、日悦は、各檀家の謗法払いを厳格に行うよう、徹底して指導していっただけに、反発は大きかった。当時、どの檀家の家にも神札が貼られ、仏像が置かれたりしていたのである。
 檀家が定善寺に押しかけ、「悪僧日悦」と書かれた筵旗むしろばたで境内が埋まったこともあった。しかし、住職は、詰め寄る人びとに、悠然と御聖訓を拝して、まことの大聖人の御精神を、諄々と諭すように説き明かすのであった。
 創価学会に反発をいだく人びとは、そろって定善寺を離脱し、やがて、自分たちで寺院を建立した。
 しかし、日悦は、「学会さえあれば広宣流布はできる。あとはいりません」と、微動だにしなかった。
 日悦は、一八九八年(明治三十一年)に日向に生まれ、一九〇六年(同三十九年)に得度し、東洋大学、日本大学に学んでいる。
 定善寺の住職となってからは、日向市の公安委員長、地裁の調停委員なども歴任し、地域にも大きく貢献してきた。その高潔で思いやりあふれる人柄は、誰からも慕われていた。
 終生、学会員を、ことのほか大切にした。会員が定善寺を訪れれば、相手がどんな立場の人であろうと、「遠いところ、よく、おいでくださいました」と、丁重に、温かい笑顔で迎えるのであった。
 また、葬儀を頼まれた家が貧しいと知ると、遺族が用意している供養の額を超えると思われる香典を持参した。
 さらに、寺院を会合で使用する青年たちに、パンや菓子を振る舞うことも珍しくなかった。そして、「学会の皆さんに使っていただいてありがたい。広宣流布のお役に立てます」と言うのである。
 住職は、三〇年(昭和五年)に、石段を大修復する際、供養を募ったこと以外に、生涯を通して、自ら施を求めることはなかった。
 さらに、供養の金額を定めることも、「永代供養」など、供養の名札を掛けることも決してしなかった。供養は、どこまでも信徒の発意によるものであるとの考えからであった。
 少欲知足の聖僧の生き方を守り通し、会員の励ましには財を惜しまず、自身には、極めて厳しかった。食卓は常に質素で、よく粥をすすっていたという。
 また、学会員が庭の整備や建物の修理を申し出ると、自らも作業に加わった。周囲の人が制しても、「皆さんこそ、お休みください」と言って、重いブロックを黙々と運ぶのである。
 さらに、形式主義を排して、現代という時代のなかで、宗開両祖の御精神に適った化儀の在り方を探求した。そして、塔婆は立てず、もし、希望する人がいれば、紙で塔婆を作った。
 また、後年、定善寺に墓園を開設した際には、墓石の形、大きさも、墓の広さも同じにし、そこを「平等園」と名づけている。それは、日蓮大聖人の仏法の御精神は、″皆、平等であり、地位や財産などによって差別があってはならない″との信念からであった。
 日悦は、八〇年(同五十五年)八月十九日、八十二歳で逝去している。日蓮大聖人の御精神通りに生きょうと努めた日悦は、学会を愛し、讃え、擁護し続けた。透徹した僧侶の眼は、広宣流布に挺身している学会の姿に、「地涌の義」を見ていたにちがいない。
4  この一九五七年(昭和三十二年)の八月ごろ、戸田城聖は、折あるごとに、原水爆に関する宣言の構想を練っていた。
 この年の三月十八日から、ロンドンのランカスター・ハウスで、国連軍縮小委員会が開かれていたが、九月六日、遂にもの別れに終わることになる。
 これは、アメリカ、イギリス、フランス、カナダの西側諸国とソ連の五カ国からなる会議であり、核兵器の生産、実験、使用の禁止などが、大きな議題となっていた。
 会議は半年近くにわたり、百五十回以上も行われたが、意見の一致をみずに、結局、なんら成果をあげることなく、小委員会は無期休会になってしまった。
 この小委員会で、ソ連は、核実験の無条件一時停止と、核兵器の全面的使用禁止を主張していた。それに対して、西側は、核実験の停止は核兵器の製造の停止と結びつかなければならないとの立場をとり、実験だけを切り離したソ連の停止案を受け入れなかった。さらに、核兵器の使用についても、自衛のための核兵器の使用はやむを得ないとした。
 また、西側は、空中、および地上の査察案を提唱したが、ソ連は、自らも査察案を出しておきながら、最終的には、これを拒否した。
 そこには、東西の複雑な思惑がからんでいた。当時、世界は、新たな核軍拡競争の局面を迎えていたのである。
 五五年(同三十年)ソ連が、大型の水素爆弾を高空で爆発させる実験に成功を収めたのを契機にして、核兵器の開発競争は、実用化に向かって走りだしたといえる。それまでも水爆実験は行われていたが、大きな装置を使っての爆発実験であり、航空機から投下する水素爆弾ではなかった。
 しかし、これによって水爆は、実際に運搬可能なものとなり、単に、爆発力の大きさを競う時代から、核を誘導兵器の弾頭に取り付けて、攻撃、防御に使える核の開発を競う段階へと移行していった。
 このソ連の実験から半年後の五六年(同三十一年)五月には、今度はアメリカが、同国として最初の水爆投下実験に成功している。さらに、アメリカは、放射性降下物、いわゆる″死の灰″を少なくし、それが広がる地域を極小化させるとともに、爆心地付近の破壊効果を最大限にする実験にも、成功を収めたとしている。
 アメリカは、この実験について、軍事的観点ばかりでなく、人道的見地からも、重大な成果をあげたとして、放射性降下物による危険は、必ずしも、大規模な核兵器の使用に伴うものではないと発表した。そして、この水爆を「きれいな水爆」と呼んだのである。
 これによって、水爆の脅威は、ますます現実味を帯び始めてきたといってよい。核兵器が実際に使用される可能性が、一段と高まってきたのである。
 五六年から翌五七年(同三十二年)にかけては、アメリカ、イギリス、ソ連が、核実験を繰り返し、核開発競争は激化の一途をたどっていった。そうしたなかで、五七年八月に、遂にソ連がICBM(大陸間弾道ミサイル)の実験に成功したのである。
 大陸間を、ひとっ飛びするICBMは、当時、「究極の兵器」といわれ、その完成は、早くて六〇年(同三十五年)、遅ければ六五年(同四十年)になるだろうと予測されていた。それが三年も早く、完成したのである。
 ソ連はこれで、地球上のいかなる地点であろうと、望むところに、核爆弾を撃ち込むことができるようになったわけである。それまで、核兵器の戦略的な均衡は、西側が、やや優位とされていたが、それが逆転し、ソ連が、やや優位に立ったことになる。
 アメリカは、通常兵器や兵力におけるソ連の優位に対して、核兵器における優位によって対抗するという基本的な立場をとってきていただけに、その衝撃は大きかった。しかも、前の六月、アメリカは、二カ月前の六月、ICBM「アトラス」の実験に失敗していたのである。
 アメリカにとっては、西側の核兵器の優位を維持するためには、一刻も早くICBMの実験を成功させ、同時に、ソ連の核兵器を生産停止に持ち込むことが、不可欠な要件となってきていた。
 それだけに西側は、核実験の停止と、核兵器の生産の停止を結びつけることに、固執せざるを得なかったといってよい。ソ連がICBMの生産を急げば、勢力の均衡は大きく崩れてしまうという、強い危機感に駆られていたであろうことは、想像にかたくない。また、ICBMで一歩、ソ連が先んじたことから、ソ連の奇襲攻撃を封じるためにも、査察制度の導入に踏み切りたかったといえよう。
 一方、ソ連は、西側の優位を完全に突き崩すために、世界各地に設けられたアメリカの海外基地を排除することに、交渉の重点を置いていた。アメリカは、ソ連が奇襲攻撃をしかけた場合、直ちに大量報復するために、ソ連を取り巻く海外基地網を設けていたからである。
 ソ連が、核兵器の全面的使用禁止や、核実験の無条件停止を強調したのは、この大量報復政策を無力化するためにほかならなかった。
 こうした米ソ両国の、それぞれの思惑から、双方の合意はみられず、軍縮交渉は、失敗に終わった。この軍縮小委員会が休会に入るにあたって、アメリカのスタッセン代表は、「意見一致にとって、最も大きな障害になったのはソ連が軍事目的のための核分裂性物質の生産禁止に同意しないことだ」と述べている。
 軍縮小委員会の不成功を、ソ連の責任であるとして非難したのである。しかし、それは、ソ連も同様であった。
 ソ連のゾーリン代表は、こう語っている。
 「西側は原水爆の放棄を望んでいない。核兵器の実験中止で協定に到達できることが明らかであるにもかかわらず、西側は実験を中止しようとしない。かれらが小委で交渉を続けてきたのは、軍縮のため努力しているようにみせかけ、国際世論をしずめるためであった」
 それは、米ソを中心とした東西両陣営の、根深い相互の不信感と、対立の激しさを物語っていた。
 そうしたなかにあって、たび重なる核実験は、核戦争への恐怖を募らせるとともに、大気汚染をはじめ、放射能の人体への影響を深刻化させ、反核の機運は、世界的な高まりを見せ始めていたのである。
 当時、アメリカのライナス・ポーリング博士は、核実験禁止アピールに、二千人の米科学者が署名したと発表。また、世界平和評議会総会では、核実験即時無条件停止のコロンボ・アピールが発表されている。

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