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日蓮大聖人・池田大作

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裁判  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  猛暑の夏が過ぎた。やがて、涼しい風が吹き始め、澄んだ秋空が広がった。
 学会は、来る日も、また、来る日も、大空をかける若鷲のように、さっそうと飛翔を続けていた。
 山本伸一も、その先頭に立って、東奔西走の日々を送っていたが、彼の胸中には、大阪事件の裁判という暗雲が垂れ込め、人知れず心を悩ませていた。
 一九五七年(昭和三十二年)十月十八日、大阪地方裁判所で、第一回の公判が行われた。
 起訴された六十四人のうち、三人は大阪在住の、大村昌人の個人的な友人であり、創価学会員ではなかった。この日は、全被告人に召喚状が出されていたが、肺結核に苦しむ学会の一青年と、大村の友人の一人が姿を見せなかった。
 出席被告人六十二人といっても、買収関係の四十一人と、戸別訪問関係の二十一人とは、この時、初めて顔を合わせたのである。
 このうち買収は、蒲田支部の地区部長・大村昌人によるものであり、戸別訪問は、それぞれの学会員が、支援活動のなかで、熱心さのあまりに起こしてしまった個別の行為であった。したがって、同じ選挙違反の容疑といっても、性質の異なる別個の事件であったといえる。しかし、検察当局が、これを併合したのは、創価学会そのものに焦点を合わせたかったからといえよう。
 開廷前、法廷は、六十二人の被告人でごった返していたが、係官の指示に従い、定められた席に着く被告人たちの、きびきびとした動作は、常ならぬ法廷の雰囲気を醸し出していた。
 全員が起立するなか、田上雄介裁判長が、二人の裁判官と共に現れ、裁判長席に着くと、開廷が宣せられた。
 白髪の田上裁判長の風貌には、威厳と気品が漂い、その目は鋭かったが、柔和な温かさをたたえていた。これまで、検事たちの傲慢無礼な取り調べに憤りを感じてきた被告人たちは、この裁判長の風貌に、一種の安堵感を覚えたにちがいない。
 起訴状は十件に分かれ、山本伸一の容疑は、戸別訪問関係のほぼ全般にわたり、小西武雄の容疑も、買収関係のすべてにわたっていた。
 裁判長は、これらの事件を、全部、併合審理することを述べ、人定質問に入った。出席した被告人、一人ひとりの氏名、本籍地、居住地、職業、生年月日などが尋ねられていった。
 伸一は、法廷の被告人席にあって、いよいよ、長い戦いの幕が開いたことを感じていた。彼は、戸田城聖の弟子らしく、正々堂々と真実を訴え、無罪を勝ち取ることを、心に深く期していた。
 この時、伸一が、何よりも気がかりでならなかったのは、戸田の健康である。戸田の憔悴は著しかった。自分の逮捕、投獄によって、どれほど戸田を苦しめてしまったかと思うと、伸一の胸は、張り裂けんばかりに痛むのであった。
 ″果てしなく続くであろう、この裁判に、一日も早く勝利し、お元気な先生に、ご報告申し上げ、ご安心いただきたい″
 伸一は、終始、そのことばかりを考えていた。
 公判では、弁護人から、買収事件の被告人の大部分の者が、東京方面の在住者であるところから、生活上の問題などを考慮し、買収関係の審理については、東京の裁判所に移送すべきであるとの申し立てがなされた。しかし、検察側は、本件は関西の地で発生し、関係証拠も大阪にあるので、移送は不適当であり、申し立ては却下されるべきであると反対してきた。
 初公判で、既に戦いの火花が散るかに思われたが、これに対して、裁判長は、意見があれば、十一月二十日までに書面で提出するよう命じ、決定は後日に行うと断を下した。
 この日は、次回の公判は、年が明けた五八年(同三十三年)の一月十四日に行われることが告げられ、閉廷となった。初公判は、まずは、型通りに終わったが、理事長・小西武雄と青年部の室長・山本伸一を狙い撃とうとする周到な起訴状の記述は、今後の熾烈な裁判闘争を予見させた。
 第二回公判が、翌年に持ち越されたのは、検察庁の書類整理が、まだ完了していないためであった。
 十二月の上旬、裁判長は、申し立てのあった、買収関係の被告人の東京移送を却下した。
 中旬になると、大村昌人らの弁護人から、証拠の記録謄写が、翌年の一月末ごろまでかかることから、第二回公判の延期の請求が出され、三月六日に次の公判が行われることに決まった。
 その日は、総本山大石寺で、三月一日の法華本門大講堂の落成慶讃大法要に引き続いて、一カ月にわたる記念の総登山が行われていたさなかである。
 既に、戸田城聖の病は篤く、体力は著しく衰え、起居も思うに任せぬ状態であった。そのなかで戸田は、死力を振り絞るようにして、最後の戦いの指揮を執っていたのである。
 当時、山本伸一は、師の病状に、日々、心を痛めながら、総本山の理境坊に泊まり込み、戸田のもとで、総登山の一切の運営にあたっていた。伸一は、全国から集った会員のために心を砕き、戸田の手となり足となって、盛儀の成功に挺身していたのである。伸一は、今、片時たりとも、戸田の側を離れたくはなかった。裁判のことを、戸田に伝えることさえ心苦しく、総本山を後にすることは、後ろ髪を引かれる思いであった。その伸一も、あの逮捕以来、体調は悪化の一途をたどり、熱に悩まされる日々が続いていた。
 三月五日、伸一は、戸田のいる理境坊の二階に行き、裁判のために大阪に行くことを告げた。戸田は、布団の上に身を起こしながら言った。
 「おお、そうだつたな」
 「大切な戦いの最中に不在になってしまい、まことに申し訳ありません」
 戸田は、こう語る伸一の顔を、じっと見つめていたが、手を伸ばすと、伸一の腕を握った。
 「伸一、疲れているな。体の方は大丈夫か」
 戸田の顔には、疲弊の色がにじみ出ていた。その戸田が、今、自分の体を気遣ってくれていることを思うと、伸一は、熱いものが込み上げてきてならなかった。
 「先生、私は大丈夫です。先生こそ、ご無理をなさっているだけに……」
 「君の戦いは長いのだ。代われるものなら、私が代わってやりたい。伸一……、君は罪を一身に背負おうとした。本当に人の良い男だな。でも、だからこそ安心だな、学会も」
 戸田は、つぶやくように言うと、嬉しそうに笑った。そして、伸一に向かって、毅然として言った。
 「裁判は、容易ならざる戦いになるだろう。いつまでも君を悩ませることになるかもしれぬ。しかし、最後は勝つ。金は金だ。いくら泥にまみれさせようとも、その輝きは失せるものか。真実は必ず明らかになる。悠々と、堂々と、男らしく戦うんだ」
 戸田の言葉は、伸一の胸を射貫き、無量の勇気が噴き上がってくるのを覚えた。
 伸一は、総本山を後にし、大阪へと向かった。
2  三月六日の公判では、起訴状に対する罪状の認否が行われた。買収事件に関与した者は、大村昌人らとの共謀と、買収行為自体は認めたものの、小西武雄との共謀は、皆が否認した。また、戸別訪問の実行者も、その事実は認めたものの、やはり、山本伸一と相談したり、指示されたりしたことはないと、一様に否認したのであった。小西も、伸一も、当然のことながら、それぞれ買収と戸別訪問の共謀を否認した。
 やがて、検事の冒頭陳述に移った。そこでは、学会の組織と指揮系統が詳述され、「全選挙運動は被告人山本伸一総司令がこれを統括し、文書違反及び買収を担当したものは被告人小西武雄に直属する被告人大村昌人を長とする覆面部隊と称せられるものである」とされていた。つまり、学会が組織ぐるみで、買収と戸別訪問を画策し、実行したというのである。犯行の具体的事実は十件にわたり、被告人が、警察と検察で供述した調書を、その裏付けとしていた。
 冒頭陳述は、用意周到に練り上げられたものであろう。いかにも組織的犯行を思わせる完壁さを備えていた。
 この選挙で、買収と戸別訪問が行われたことは、残念ながら明らかな事実である。裁判の争点は、その違反行為が、上層部の指示で、組織的に行われたものかどうかにあった。裁判常識からいえば、理事長・小西武雄、室長・山本伸一という、当時の創価学会の両翼ともいうべき首脳を、有罪に追い込んでいくのに、十分な下地がつくられていたといってよい。当初、弁護士たちの目にさえ、小西や伸一が無罪を勝ち取ることは、不可能であろうと映っていたのである。
 一九五七年(昭和三十二年)当時、創価学会の急成長は、宗教界のみならず、政界にも大きな脅威となっていた。終戦直後は、壊滅状態に等しく、戸田城聖が第二代会長に就任した五一年(同二十六年)ごろでも、まだ会員数は、実質三千余にすぎなかった。それが、わずか六年ほどで、約六十万世帯に発展し、政界へも進出したのである。″学会を、このまま放置しておけば、国家権力をも揺るがす、不気味な存在になりかねない″との、危惧を与えたであろうことは、想像にかたくない。
 宗教が、時に国家をも左右する存在になることは、歴史上、しばしば見られるところである。それゆえに、宗教の台頭に、権力は常に鋭敏に反応し、なんらかの恐れを感じ取ると、いち早く弾圧の挙に出ることも珍しくない。
 日本の近代の歴史のなかでは、三五年(同十年)十二月に始まる大本教の第二次弾圧事件や、三六年(同十一年)九月に始まる「ひとのみち事件」が、大規模な宗教弾圧事件として知られている。それらが、いずれも急成長を遂げ、民衆に根差した新興教団であったことは着目に値しよう。
 なかでも大本教の第二次弾圧事件は、戦時下で敢行されていった宗教弾圧の先触れとなった。
 大本教は、一八九二年(明治二十五年)、出口なおによって開かれた宗教である。教義は、なおが神がかりによって書いた「お筆先」といわれる言葉を、なおの娘婿の出口王仁三郎が、神道などの諸説と結びつけて解釈し、体系化したもので、「みろくの世」の実現を掲げ、世直しを説いていた。それがや不況と社会不安を背影に、人びとの共感を呼び、急速にき教勢を広げ、一九三五年(昭和十年)当時、信徒数四十万と称せられるにいたっていた。
 当時、大本教は、昭和神聖会などの外郭政治団体をつくり、皇道政治、皇道外交、皇道経済などを主張し、国家主義的な運動を推し進めていった。そして、「昭和維新」を訴え、右翼の大物や、軍部革新派とも交流をもっていた。
 大本教が、教勢を拡大した背景には、社会不安があったが、大弾圧を被らなければならなかった背景も、やはり社会不安であった。
 社会は激動していた。二九年(同四年)、アメリカに端を発した世界大恐慌は、日本経済を危機的状況に陥れた。都市には失業者があふれ、農村は冷害や凶作に襲われて、疲弊の極みにあった。
 三二年(同七年)二月には、民政党幹事長・井上準之助が暗殺され、三月には財界の團琢磨が暗殺された。日蓮宗の僧侶・井上日召が率いていた、血盟団のメンバーが起こした事件であった。この事件の背後には、海軍の一部将校の協力があったとされる。そして、五月十五日、海軍の青年将校が犬養毅首相を暗殺した、いわゆる「五・一五事件」が起きた。
 時代は、あの「二・二六事件」勃発の前夜である。当局は、大本教という巨大教団が、軍部革新派と結びついて資金を援助したり、昭和神聖会などの関係諸国体を動かすことに、恐れをいだいていたのである。
 後に、大本教弾圧に関わった内務省の関係者の一人は、この事件について、次のように書いている。
 「『雉子も鳴かずば云云』と謂うことがあるが、若し大本が穏しく宗教の分野に留って居たならば、未だ特高警察の注意を引くこともなく、彼王仁三郎お に さぶろうは当分聖師様でおさまって居れたかも判らない」
 また、別の内務省関係者は、「宗教運動が正しい宗教運動である場合に於ては、警察が之を警戒し取締るべきものでないことは言をたないのであるが、然らざるものに対しては徹底的に之を取締らねばならぬこと亦言を俟たぬ所である」と述べている。
 国家目的に賛同、協力するのが正しい宗教であり、国家にもの申すような宗教は、邪教であり、取り締まらなければならないというのが、当時の内務省関係者の共通認識だったのである。教義の内容はともあれ、民衆のなかに根差したエネルギッシュな新興教団が、政治をはじめとして、社会的な影響力をもっところから、権力の弾圧は始まるといってよい。
 当局は、大本教を解体に持ち込むために、そのきっかけとなる大義名分を探し、虎視耽々と狙っていた。そして、徹底して刊行物をチェックし、教義や、王仁三郎の発言の問題点を洗い出していった。
 大本教では、国祖の神が再現して、三千世界の立て替え、立て直しをし、「みろくの世」が訪れると説いている。当局は、そこに目をつけ、皇室の統治を否認し、聖師である出口王仁三郎が、統治者になろうとしているとしたのである。
 しかし、それだけでは、せいぜい不敬罪にとどまってしまう。不敬罪は、五年以下の懲役であり、壊滅的な打撃を与えることにはならない。そこで、死刑または無期懲役を規定している、治安維持法の適用を考えたのである。
 治安維持法の第一条には、国体の変革を目的として「結社ヲ組織シタル者」は、「死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役」と規定されている。当局は、大本教が行った「みろく大祭」を、この「結社ヲ組織シタ」に強引に結びつけた。
 弥勒菩薩は、釈尊滅後、五十六億七千万年の時に、この世に再誕し、衆生を救うとされている。江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した神道家・大石ごり真素美ますみは、この五十六億七千万年を、三千年とみなす独特の教義を展開し、この時に弥勒菩薩が日本に下生すると説いた。
 王仁三郎は、この大石礙真素美の教義を取り入れ、二八年(同三年)が、その年であるとした。そして、王仁三郎が五十六歳七カ月に達する昭和三年三月三日は、彼が、「みろく菩薩」として出現する日とされ、その日に、その意義を込めた式典を開催した。それが「みろく大祭」であり、この祭典で教団の新人事が発表されている。
 当局は、この人事をもって、国体の変革を企てるための新たな結社が組織されたと、こじつけの解釈をしたのである。
 そもそも「みろくの世」という考えは、宗教的な理想を述べたものにすぎない。それを無理やり、国体の変革という政治的なものに結びつけることによって、不敬罪ならびに治安維持法を適用したのである。
 本来、治安維持法は、共産主義活動の抑圧を狙いとしたものであったが、この時、初めて、宗教団体に適用されたのである。これが契機となり、四一年(同十六年)には同法が大改正され、「国体変革」という″実行行為″に加え、「国体否定」という″思想・信条″そのものも、適用の対象に含まれることになった。つまり、国体の変革を企てる具体的な行為はなくとも、国体を否定する考え方自体までが、処罰の対象となったのである。以来、この希代の悪法によって、宗教弾圧は猛威を振るうことになる。これによって、明治憲法に曲がりなりにもうたわれていた「信教の自由」は、完全に剥奪されたといえる。
3  ――一九三五年(昭和十年)十二月八日、午前四時半。大本教への弾圧の火蓋は切られた。武装した京都府警の警察官三百人と、応援の綾部署員百人の、合計三百人が綾部の総本部に、京都府警の二百三十人が亀岡の本部に踏み込んだ。さらに、同時刻に、島根別院にいた王仁三郎逮捕のために、島根県の警察官二百八十人が行動を開始し、東京では昭和神聖会の総本部など数カ所に、警察官八十人が突入した。
 この日、多くの教団幹部が一斉に検挙され、出版物や文書、記録類、および物品が証拠品として押収された。その後も検挙は続き、翌三六年(同十一年)末までの検挙者は、九百八十七人に上っている。
 自白を取るための取り調べは過酷を極めた。容赦のない拷問によって死にいたった人も多く、その苦痛に耐えられず自殺を図る人もあった。苛烈な拷問のの結果によると思われる、保釈後の死亡者も多数に上っている。
 翌年三月十三日、王仁三郎ら幹部の起訴が決定すると同時に、大本教団は昭和神聖会、人類愛善会などの関連外郭団体とともに解散を命じられた。さらに、教団のすべての建造物に対する強制破却処分も発令されている。
 教団幹部らは、不敬罪や治安維持法違反で起訴され、教団組織の解散処分は、治安警察法によっている。しかし、教団施設を破却処分にする根拠とされたのは、法律ではなく、一八七二年(明治五年)出された大蔵省達第一一八号であった。
 憲法発布以前の太政官時代に出された、この大蔵省の通達の内容は、「無願ニシテ社寺(地蔵堂・稲荷ノ類)創立致シ候儀従前ノ通禁制タルヘキ事」というものであった。当局は、「勝手に地蔵堂などを創設してはいけない」という、明治維新直後の古色蒼然たる通達を根拠に、大本教のすべての建造物を徹底的に破壊する暴挙に乗り出したのである。
 資産価値のある動産は、当局の手で強制的に競売にかけられ、二束三文の捨て値で処分された。祭壇・神具の類や、書籍・旗など信仰に関係するものは、すべて押収されて焼却された。土地は、綾部町と亀岡町に、時価の百分の一以下で強制的に売却・譲渡された。建造物の破壊は、土建業者に請け負わせ、その費用は王仁三郎夫妻の負担とされた。
 建造物の破壊は徹底していた。請け負った土建業者は、綾部の総本部と、亀岡の本部に、合わせて約四百五十人の作業員を、連日、投入した。教碑・歌碑の類は文字をノミで削ってから破壊され、木造建築は柱を切ってからロープで引き倒され、庭石はハンマーで、礎石などはダイナマイトで破壊された。特に、鉄筋コンクリートで堅牢に造られた月宮殿の破壊には、ダイナマイト千五百発以上が使われ、その爆発音は、二十一日間にわたって遠くまで轟いたという。
 こうして、動産・土地は売り払われ、一切の建物は跡形もなく消え去った。教団活動に不可欠な経済的基盤と、活動拠点としての建物を、権力は完壁に破壊したのである。大本教を、この地上から抹殺しようとする、権力の意志が感じられる処分というほかない。
 大本教への弾圧は、国家権力に潜む魔性の狂暴さ、凄まじさを物語って余りある。宗教団体関係者への見せしめにしようとする狙いも、あったのかもしれない。
 国家神道の教えの非を戒め、勇猛果敢に折伏を進める創価教育学会に対しても、当局は厳しい監視の目を向けていた。戦時下にあっても、学会は折伏を展開し、入会に際しては、神札などの処分を厳格に行っていた。そして、国家神道を根本にした政府の在り方は、間違いであることを主張して譲らなかったのである。
 当時、学会は、会員数三千ほどの、まだ小さな教団にすぎなかった。しかし、当局は、牧口常三郎が、国家、社会の建設のために「教育改造」を掲げ、その根本的な方途が、日蓮大聖人の仏法にあるとしていることに、警戒心を強めていったようだ。
 また、学会のエネルギッシュな活動から、将来、大団体へと発展していくことを恐れ、早急に、その芽を摘もうとしたのかもしれない。
 一九四三年(昭和十八年)七月、遂に、弾圧の魔の手は創価教育学会を襲った。学会の、あの神札の拒否が、弾圧を決定的なものにしたのである。七月六日、牧口常三郎、戸田城聖らが身柄を拘束され、翌年三月までには、学会の幹部で検挙された者は二十一人に上った。
 牧口は、自分の逮捕を、国家諌暁の好機であると、とらえていた。取り調べの場は、さながら折伏、弘法の観を呈した。彼は、取調官に言うのだった。
 「さあ、問答をしよう。よいことをしないのと、悪いことをするのと、その結果は同じか、違うか」
 そして、宗教の正邪を論じ、神札を拝むことの誤りを正し、折伏こそが大慈悲であることを訴えてやまなかった。
 学会の指導理念を尋ねられれば、日蓮仏法の法理から説き起こし、学会の目的を語って、「ゆえに本会に入会するに非ざれば、個々の生活の幸福、安定は、もちろん得られませんし、ひいては国家社会の安定性も得られないと、私は、確信しております」と断言するのである。
 あるいは、教義を聞かれれば、法華経の概要を語り、仏教史を概括しながら、仏法の真髄が、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経にあることを述べていった。
 広宣流布の意味については、こう答えている。
 「広宣流布ということは、末法の時代、いわゆる現世のごとき濁悪の時代に、その濁悪の時代思想を、南無妙法蓮華経の真理によって浄化することで、宗祖日蓮大聖人の教えに、上は陛下より下国民にいたるまで、一人も残らずに従い、南無妙法蓮華経に帰依するようになった時を広宣流布と称し、そのとき、はじめて一天四海皆帰妙法の社会相が具現するのであります」
 さらに、「天皇陛下も凡夫であって、皇太子殿下の頃には学習院に通われ、天皇学を修められているのである。天皇陛下も間違いもないではない」「しかし、陛下も、久遠本仏たる御本尊に御帰依なさることによって、自然に知恵が、お開けになって、誤りのない御政治ができるようになると思います」と、仏法の法理のうえから、人間の平等を語って、はばからなかった。天皇が現人神とされていた時代である。
 また、神札などの処分についても、「至上最高、絶対無二の久遠本仏であるところの本門の本尊に帰依するのみでありまして、それ以外のいかなるものをも、信仰の対象として礼拝することは、いわゆる信仰雑乱をきたすことになりますから、絶対にこれを排斥し、拒否しているのであります」と言い切っていった。
 そして、「私の直接指導によって、皇大神宮の大麻やそのほかの神宮、神社、仏閣などの神札・守札・神棚等を取り壊し、焼却した者は現在までで五百人以上あると思います」と述べているのである。
 牧口常三郎は、いささかも節を曲げることなく、堂々と国家神道の誤りを正した。そして、四四年(同十九年)十一月十八日、巣鴨の東京拘置所で獄死したのである。
 当時の取り調べの悲惨さは、言語に絶していた。特高の巡査に幾度となく殴られ、いじめ抜かれた末に、死を覚悟して、取り調べの隙をうかがって、二階から飛び降りた幹部もいた。また、投獄中に事業がつぶれるなど、たいていの者が一家の収入の道を断たれていった。
 あとに残された家族の生活も、哀れこのうえなかった。「国賊の家」と罵られ、食うにも事欠くありさまである。そのなかで、まず、妻をはじめ、家族が退転し、投獄されていた者も、妻子眷属への情から、遂に、相次ぎ退転していったのである。家族への情の涙が、信心の眼を曇らせたのだ。妻の強き信仰こそ、夫、家庭を支える土台といえよう。
 かつて、同志として、共に広宣流布を誓いながらも、弾圧の烈風にさらされるや、多くの者が御本尊を疑い、臆病にも、病める兎のように家にこもり、恐れ、怯えていた。また、大恩を受けた師である牧口常三郎を恨み、戸田城聖を憎んだ。
 「信心をして幸せになるどころか、牢獄にぶちこまれ、地獄行きじゃないか。あの牧口の野郎に騙されたんだ」
 こう罵る者たちが、跡を絶たなかった。なかには、自分が折伏した会員の家を訪ね、退転を促し、牧口や戸田を罵倒し、憎悪をかき立てて歩く者まで出る始末であった。
 戸田城聖は、出獄後、そのありさまを知ると、人の心のはかなさ、不甲斐なさに唖然とした。そして、歯ぎしりをしながら、怒りに身を震わせるのであった。
 ″臆病のゆえだ。牧口先生の弟子のなかに、まことに信仰者はいなかったのだ。御書を拝しながらも、こと法難となると、絵空事のようにしか受け止められなかったのだろう。そんな者が、何人集まろうが、広宣流布などできようはずがない。要は、広宣流布のために一切を捧げようとする、本物の信仰者をつくれるかどうかだ。臆病な羊の群れでは、また、これからも、ほんの小さな弾圧でもあれば、すぐに動揺し、崩れ去っていってしまうだろう。師子だ、一人立つ師子をつくる以外にない。そこに、これからの学会のすべてがかかってくる!″
 空襲のあとの焼け野原に立って、戸田は、ひしひしと孤独をかみしめた。彼は、恩師・牧口常三郎に代わって、広宣流布の実現に、生涯を捧げることを決意したのである。
 牧口の殉教、そして、戸田の二年間に及ぶ不退転の獄中生活は、信教の自由のための、権力との壮絶な戦いであり、学会が、日蓮大聖人の仏法の正法正義を守り抜いた永遠不滅の刻印となった。

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