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日蓮大聖人・池田大作

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大阪  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  一九五七年(昭和三十二年)七月三日、午前七時三十分――。山本伸一は、千歳空港を後にした。大阪府警察本部に出頭するためである。
 この日は、戸田城聖が、あの戦時中の法難による二年間の獄中生活を終えて、出獄した記念の日である。
 そのことに気づくと、伸一の胸は燃え盛った。
 彼は、座席に身を沈め、窓に目をやったが、外は雲に包まれ、何も見え、なかった。飛行機は、轟音を響かせながら、雲の中を上昇していった。
 学会は、間断なく飛翔を続けている。山本伸一は、その飛行機の副操縦士ともいえる存在になりつつあった。当然のことながら、飛行中は気流の変化もあれば、暗雲に包まれることもある。しかし、常に、常に、広宣流布という目的地をめざしながら、懸命に、油断なく操縦揮を操っていかなくてはならない。
 今、彼の人生の前にも、乱気流が横たわっていたといえよう。
 当時のプロペラ機での飛行は、羽田到着まで約三時間を要した。羽田で大阪行きに乗り換えである。
2  羽田に到着した伸一は、機外に出た途端、蒸し暑さに、どっと襲われた。ここ数日を北海道で過ごし、機内の冷房につつまれていた体には、東京の蒸し暑さは、瞬間、耐えがたいものがあった。
 ロビーに出ると、数人の青年部幹部が出迎えていた。彼らの心配そうな顔があった。「室長!」と言って駆け寄りはしたものの、誰もが、次の言葉を探しあぐねていた。
 戸田城聖は、控室で伸一の来るのを、伸一の妻の峯子や、弁護士の小沢清と共に待っていた。戸田は、彼の分身ともいうべき最愛の弟子を、今、羽田に迎え、そして、直ちに大阪府警に送らねばならないことに、深い苦渋に満ちた感慨をもてあましていた。彼は、ここ数日の情勢から、伸一の逮捕を予測していたのである。情けなくもあり、腹立たしくもあった。
 既に、大阪府警に出頭した、理事長で蒲田支部長の小西武雄が、前日の七月二日に逮捕されていたのだ。
 山本伸一が、「先生、ただ今、戻りました」と言って、狭い控室に入っていくと、戸田は、待ちかねたように声をかけた。
 「おお、伸一……」
 戸田は、伸一を見つめ、あとは言葉にならなかった。
 伸一は、瞬間、戸田の憔悴した姿を見て、心を突かれ、言葉も出なかった。
 戸田は、側に伸一を招いた。伸一は、手短に夕張の状況を報告した。
 「ご苦労、ご苦労。昨夜、電話で聞いたよ」
 戸田は、話の腰を折るようにこう言って、伸一の顔を、じっと見つめるのである。慈しみつつも、また悲しい眼差しであった。伸一はその視線を避けるように、目を落とした。
 その瞬間、戸田は、咳払いしてから、意を決したような強い語調で言った。
 「伸一、征って来なさい」
 戸田は、伸一の目を見すえ、ながら話を続けた。
 「われわれが、やろうとしている、日蓮大聖人の仏法を広宣流布する戦いというのは、現実社会での格闘なのだ。現実の社会に根を張れば張るほど、難は競い起こってくる。それ自体が、仏法の真実の証明であり、避けることなど断じてできない。どんな難が競い起ころうが、われわれは、戦う以外にないのだ。また、大きな苦難が待ち構えているが、伸一、征って来なさい!」
 「はい、征ってまいります」
 伸一は、こう答えたものの、ここ五日ばかりの間に、めっきりやつれた戸田を目の前に見るのが辛かった。わが師の心労を思うと、胸が痛んだ。戸田の健康が気がかりでならなかった。
 「先生、お体の具合は?」
 「うん」
 戸田は、それには答えなかった。そして、伸一をまじまじと見つめ、その肩に手をかけた。
 「伸一、心配なのは君の体だ……。絶対に死ぬな、死んではならんぞ」
 戸田の腕に力がともった。彼は、伸一の体を強く抱き締めるように引き寄せ、沈痛な声で語りかけた。
 「伸一、もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私も、すぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」
 電撃が伸一の五体を貫いた。彼は、答える言葉を失った。万感に胸はふさがり、感動は涙となって、目からほとばしり出そうになったが、彼は、じっとこらえた。
 そして、決意の眼差しを戸田に向けながら、わが心に言い聞かせた。
 ″断じて負けるものか。どんな大難が降りかかろうと、決然と闘い抜いて見せる。戸田先生の弟子らしく、私は、力の限り戦う。師のためにも、同志のためにも。それは広宣流布の、どうしても越えねばならぬ道程なのだ″
 やがて、青年部の幹部の一人が、大阪行きの飛行機の出発時間が迫っていることを告げに来た。
 すると戸田は、一冊の本を手にして、伸一に渡した。
 「いよいよ出たよ。あとで読んでくれ」
 本は、戸田が、妙悟空のペンネームで、聖教新聞に連載してきた小説『人間革命』であった。
 戸田の出獄の日である。この七月三日を記念して発刊されたのである。
 戸田は、照れたように笑った。
 伸一の頬もゆるんだ。
 戸田は、伸一と固く握手を交わし、先に控室を出た。
 妻の峯子は、着替え類を詰めてきたカバンを慌ただしく渡し、無言のまま伸一を見た。
 「ありがとう。大丈夫だ、心配ない。あとは、よろしく頼む」
 伸一は、口早に峯子に言い、青年部幹部に促されるままに、ロビーに出た。
 そこには、大勢の幹部の姿があった。どっと伸一を取り囲み、彼の手を握った。皆、同じ広宣流布の目的に生きる戸田門下生であり、同志である。
 「お元気で……」
 「ありがとう、これがあるから大丈夫だよ」
 伸一は、戸田から贈られた『人間革命』をかざして、あいさつを返した。
 彼は、小沢弁護士と共にゲートの方へ進んだ。わずかな待ち合わせ時間であったが、彼には、戸田の慈愛の泉を一身に浴びた、大いなる蘇生へのひとときであった。
 伸一を乗せた大阪行きの飛行機は、羽田を離陸した。彼は、席に着くと、『人間革命』をぱらぱらとめくっていった。新刊本の、すがすがしい匂いがする。そのうちに、伸一の目は、吸い寄せられるように、本に集中し、時のたつのも忘れて読み進んでいった。
 主人公の巌さんが警察に留置され、執拗な取り調ベにあい、遂に拘置所の独房で呻吟しなければならなくなった辺りになると、伸一は興奮を覚えた。
 時が時である。あと数時間もすれば、自分の身にも、おそらく同じ運命が待ち受けているであろうことを思うと、切実であった。
 巌さんは、法華経を獄中で読み切ることによって、彼の生涯の使命を自覚する。伸一は、戸田の獄中での生活を幾たびとなく聞かされていたが、今また、戸田の小説を読むことによって、師の苦闘が、まざまざと脳裏に浮かんできた。そして、自身にも獄中の生活が迫りつつあることを、ひしひしと感じていた。それは、これから始まる獄中での闘争に、尽きぬ勇気を沸き立たせた。
 伸一は、飛行機の席で、思わず、「よし!」と叫び、『人間革命』を閉じて、ぽんと叩いた。
 ″仏法を行ずる者に、難が降りかかることは、何も、今に始まったことではない。日蓮大聖人の御一生は、もちろんのことだが、牧口先生、戸田先生の戦時中の法難も、そうではないか。今また、新しい難が学会を襲おうとしている。それは、学会が大聖人の御遺命のままに、仏法を行じている偉大なる証明ではないか!
 伸一は、戸田から聞かされてきた学会の受難に思いをめぐらした。
 戸田は、普段は自分の獄中生活を、面白、おかしく語って聞かせることが多かったが、伸一と二人きりで対し、あの大弾圧について語る時、彼の表情は厳しかった。目は憤怒に燃えていった。一言二言が、烈火のごとき怒りをはらんでいた。時に語気は激しくなり、また、沈痛な声となり、メガネの奥が、涙でキラリと光ることもあった。
 伸一の胸には、六月初旬のある夜、戸田が、万感の思いを吐露するかのように語った指導の数々が、鮮烈に蘇ってきた。
 その日、伸一は、夕張の炭労対策の指示を仰ぎに、戸田の自宅を訪れたのである。
 戸田は、炭労への対応の基本的な考え方を、簡潔に述べると、戦時中の大弾圧を振り返りながら、広宣流布の道が、権力との壮絶な戦いであることを語っていった。
 それは、まさに伸一の身に、この日が訪れることを予見し、最愛の弟子に、生涯にわたる権力との闘争への決起を促すかのような、入魂の指導となっていった。
 「伸一君、権力というものは、一切をのみ込んでしまう津波のようなものだ。生半可な人間の信念など、ひとたまりもない。死を覚悟しなければ、立ち向かうことなど、できないよ」
 戸田城聖は、戦時中の共産主義・社会主義者への過酷な弾圧から、多くの転向者が生まれたことを述べたあと、学会に加えられた軍部政府の圧迫を詳細に語った。
 一九四三年(昭和十八年)六月、天照大神の神札を祭るように、軍部政府から強要された総本山が、牧口常三郎をはじめ、学会幹部に登山を命じたことに話が及ぶと、戸田の声は震えた。
 「あの日、牧口先生と共に、私たちは、急いで総本山に向かった。先生は、来るべき時が来たことを感じておられた。列車の中で、じっと目を閉じ、やがて、目を開けると、意を決したように私に言われた。
 『戸田君、起たねばならぬ時が来たぞ。日本の国が犯した謗法の、いかに大なるかを諌める好機の到来ではないか。日本を、みすみす滅ぼすわけにはいかぬ!』
 『先生、戦いましょう。不肖、この戸田も、先生の弟子として、命を賭す覚倍はできております』
 先生は、大きく頷かれ、口もとに笑みを浮かべられた。
 私は、謗法厳誠の御精神のうえから、総本山を挙げて、神札を固く拒否されるものと思っていた。しかし……」
 ここまで話すと、戸田は、声を詰まらせたが、ややあって、彼方を仰ぎ見るように顔を上げると、言葉をついだ。
 「日恭猊下、日亨御隠尊猊下の前で、宗門の庶務部長から、こう言い渡されたのだ。
 『学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか』
 私は、一瞬、わが耳を疑った。
 先生は、深く頭を垂れて聞いておられた。そして、最後に威儀を正して、決然と、こう言われた。
 『承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません』
 その言葉は、今も私の耳朶に焼き付いている。この一言が、学会の命運を分け、殉難の道へ、死身弘法の大聖人門下の誉れある正道へと、学会を導いたのだ」
 師と弟子との、厳粛な語らいであった。戸田の語気は鋭く、声には重厚な響きがあった。彼は、伸一の眼を見すえながら、一気に話し続けた。
 「程なく、牧口先生も、私も、特高警察に逮捕され、宗門からは、学会は登山を禁じられた。日蓮大聖人の御遺命を守り、神札を受けなかったがためにだ。権力の威嚇が、どれほどの恐怖となるか、このことからもわかるだろう。しかし、先生は、その権力に敢然と立ち向かわれ、獄死された。
 先生なくば、学会なくば、大聖人の御精神は、富士の清流は、途絶えたのだ。これはどうしようもない事実だ。学会が、仏意仏勅の団体なるゆえんもここにある」
 戸田城聖は、何ゆえ広宣流布の途上に法難が競い起こるかを語っていった。
3  ――日蓮大聖人の仏法は、人間生命の尊厳無比なることを説き、人びとを苦悩から解放する、幸福のための、人間のための宗教である。それに対して、権力は、力をもって民衆を隷属させ、支配しようとする。
 この人間支配への飽くなき欲望が、「権力の魔性」である。
 そして、民衆を支配する手段として宗教を利用し、人びとを帰伏させようとしてきた。
 権力に屈服し、協力する宗教を、手厚く保護する一方、それに従わぬ宗教には弾圧を加え、あるいは懐柔策を弄して、自在に操ろうとした。また、宗教の側も保身のために、競って権力に迎合したのである。
 しかし、日蓮大聖人は、権力と真っ向から対決された。民衆の幸福を実現しようとする教えと、民衆を隷属化させようとする権力とは、原理的に相容れざるものであるからだ。
 権力者から見れば、権力に屈せぬ宗教の流布は、権力の支配する王国のなかに、その力の及ぼぬ別の精神世界をつくるに等しい。これほど危険な存在はない。それだけに、怨念と嫉妬から憎悪をむき出しにし、排除にかかる。経文で説く「猶多怨嫉」(法華経三六三ページ)である。そこに、広宣流布の道程は、権力との熾烈な攻防戦とならざるを得まい理由もある。
 しかし、大聖人は、時の権力など、決して恐れなかったし、屈しなかった。「わづかの小島のぬしら主等をど威嚇さんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」と、悠然と言い放たれている。
 日本の仏教界は、ことごとく、今日に至るまでに、権力の掌中に落ちたといってよい。ことに江戸時代に徳川幕府によって檀家制度が施行されるにいたり、寺院は、幕府の行政機構の一機関として、「戸籍係」の役割を担わされ、完全に権力のもとに組み込まれていった。そして、聖職者自らが、政治権力の威光を借りて、意のままに信徒を操る権力となっていったのである。
 権力に依存した宗教は、当然、民衆のために現実社会を改革し、創造していく力とはなり得ない。心の慰めか、現実を逃避し、来世の安穏を願うだけの「死せる宗教」と化した。
 こうして培われた宗教の、保守、保身の体質は、明治以降も変わらなかった。戦時中の既成仏教諸宗の、軍部への迎合は、当然といえば当然のことといえる。
 そのなかで、学会は、日蓮大聖人の御精神に違わず、「生きた宗教」として、軍部の政治権力に抗して敢然と戦った。あの大弾圧を呼び起こしたのも、これまた当然の帰結である。

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