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日蓮大聖人・池田大作

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夕張  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  一九五六年(昭和三十一年)七月の参議院議員選挙で、創価学会推薦の全国区候補である関久男が、夕張市内で二千五百余票を獲得した。夕張炭鉱労働組合は、組合推薦の候補の票が、それだけ食われたものとして、学会を憎み始めた。
 以来、学会員は、組合の統制を乱すという理由で、組合幹部から、陰に陽に排斥され始めたのである。
 当時、炭労は全盛期にあり、絶大な勢力を誇っていた。会社と組合との契約はユニオンショップ制で、組合員の資格を失うことは、即会社からの解雇に通じた。夕張の学会員の多くは、炭鉱で働く組合員であった。
 また、夕張に住む大多数の人は、何かしら炭鉱にかかわる仕事をしていた。組合員ではない学会員も、炭労ににらまれることは、生活の糧を失うことにつながりかねなかった。
 しかし、いかに炭労といえども、個々人の選挙権の行使まで、統制することはできないはずである。それは、各人の選挙権の侵害になることは、言うまでもない。ところが炭労は、学会は労働者の団結を破壊しているとして、会員に、にわかに圧迫を加え始めたのである。
 炭労組合には、労働金庫という、組合員に小口の貸し出しをする金融機関があった。組合員の学会員は、東京での学会の会合や、宗門の総本山大石寺に行く時など、臨時の費用が必要になると、この低利の労働金庫をよく利用していた。
 労働金庫を利用するには、組合の厚生委員の承認が必要であったが、組合幹部の厚生委員のなかには、「会社を休んで、どこかへ行く費用なら貸せない。創価学会をやめたら貸そう」と公言する者まで出ていた。
 また、組合には、月一回、その地域の組合世帯で行う″常会″があった。この″常会″で、″炭住″と呼ばれていた長屋の、屋根の修理や畳替えなどを申請すると、「組合の統制を乱すような、創価学会員の住居は面倒を見ない。信仰をやめるというなら話は別だ」と言いだす組合幹部もいた。
 組合の厚生委員たちは、学会活動を活発に続ける夕張の学会幹部が、よほど気になるらしく、日常生活の細部にまでわたって、調査をしていた。さらに組合は、学会員の勤務状態も調査した。調査結果は、彼らの予想に反して、学会員の勤務状態は、すこぶる良好であると出たのである。
 しかし、組合は、このころから、さらに陰湿な手段を弄して、学会員に圧力を加えるようになった。
 炭鉱住宅街の電柱や、家の壁にビラを貼ったり、有線放送を使って、″インチキ宗教が流行している。今に皆の家を訪問するかもしれないから、用心しなさい″などと、各戸に呼びかける始末であった。老獪にも、創価学会の名は出さなかったが、学会を指すことは明らかだった。
 学会員が、組合から締め出されるような風潮は、大人の世界から子どもの世界にまで及んだのである。狭い炭住街のことである。子どもたちは、大勢集まって遊ぶのが常であった。″ハーモニカ長屋″の、どこかの大人たちが、菓子を子どもたちに配るような時、学会員の子どもは、わざとのけ者にされ、仲間外れにされることも、しばしばあった。
 「お母さん、どうして、ぼくにだけお菓子をくれないんだろう?」
 一日働いて帰った母親に、留守番をしていた子どもは、悲しげに聞くのである。母は、怒りに燃えたが、心に唱題しつつ、耐えねばならなかった。
 「お菓子なんか、なんです。もらわなくたって、元気に遊べばいいじゃないの!」
 子どもは敏感である。母が耐えていることを感じ取り、子どもたちもまた、耐えるのだった。
 学会員には、何があっても動じない、信仰への確信があった。それは、驚くべき体験を重ねていたからだ。
 落盤事故に遭い、生存が絶望視されていたなかで、崩れた岩や柱が重なって、体の周りに空間ができ、圧死を免れた人もいた。落盤の衝撃をもろに受け、意識を失ったが、病院で検査を受けると、全身、どの骨も異常がなかったという人もいた。爆発事故の時に、入坑しなかったことから、命拾いした人もいた。
 坑内の仕事は、死と隣り合わせであった。それだけに、九死に一生を得た、迫力ある体験が少なくなかった。
 また、炭鉱という厳しい労働条件のせいか、どこの家にも、怪我人や病人が絶えなかった。しかし、再起不能と思われた人が、怪我を克服したり、重い病をかかえていた人が、健康になっていったという体験も続出した。
 こうした体験を重ねるごとに、学会員は、″これが功徳なのだ!″と、しみじみ思い、信仰への確信を深めていったのである。
 これらの体験は、狭い谷間の炭住街に、瞬く間に広がり、噂になっていった。
 仏法に関心をいだいた多くの友人が、話を聞きに訪れ、座談会は、いつも盛況を極め、入会者は、増加の一途をたどっていったのである。
2  夕張の創価学会員は、組合からの有形無形の圧迫を、誰言うともなく「三障四魔」として、とらえていた。そして、それゆえに、負けてなるものかと、いや増して弘教活動に励んでいった。
 夕張の同志は、数々の弾圧を、自らの信心の正しさの証明として、御書にある「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」との一節を互いに拝し合い、いよいよ発心を誓い合ったのである。
 こうした事態が続くなかで、北海道の炭鉱で最大であった夕張炭労は、組合の中央機関に訴え、全国の組合までも動かすにいたったようだ。そして、一九五七年(昭和三十二年)五月十九日の炭労定期大会で、「新興宗教団体への対策」が、行動方針として修正付加されたのである。それは、「階級的団結を破壊するあらゆる宗教運動には、組織をあげて断固対決して闘う」との一項であった。
 この直後から、夕張炭労では、「組合の統制に従わない組合員は、いずれ、組合を除名され、同時に会社から解雇されるであろう」と、まことしやかにささやかれ始めたのである。労働協約の、ユニオンショップ制を振りかざしての脅しであった。
 そうなれば、学会員にとって、まさに死活問題である。″そのようなことが、公然と行われることは、まさかあるまい″とは思うものの、日ごとに募る嫌がらせを考えると、何が起こっても不思議ではなかった。家族のことを思うにつけ、暗澹たる思いに沈む人もいたのである。
 学会の青年たちは、集っては激怒していたが、さて対抗策として何をなすべきかとなると、誰にも、即座に名案は思い浮かばなかった。寄っては散じ、散じては寄っているうちに、一つの抗議の方策が、徐々に形をなしていった。
 労働者である彼らは、まず、抗議デモを計画したのである。また、彼らは創価学会男子青年部員であるところから、″部隊旗を先頭に立てて、夕張の市街をデモ行進しよう″と考えたのである。そして、″学会員を奮起させ、組合の連中にも青年部の威力を示そう″と、ひそかに一決した。
 夕張の青年たちは、文京支部に所属するメンバーであった。部隊旗を先頭にといっても、旗は東京にある。東京まで行って借りてくるわけにもいかない。
 一時、中止という考えも浮かんだが、さすがに決意は固かった。そこで、日章旗を使用することになった。それも、スポーツ大会などで選手が行進する時、先頭のメンバー数人が、大きな旗の隅をそれぞれもって行進する、あの形式をまねることにした。
 六月六日正午、夕張の男子青年部員約百五十人は、本町二丁目の十字街に結集した。そして、四列縦隊の隊伍を組み、日章旗の四隅を持つ四人の青年を先頭にして、整然と夕張市街を行進し始めたのである。
 まず、商店街を二丁目から上一丁目へ抜け、炭鉱病院前へと、学会歌を高唱しながらの行進は、極めて高度の緊張を、ともなっていた。こわばった表情で、一種の悲情感も漂い、幾つもの鋭い眼差しが、キラキラと光っていた。道ゆく人や、沿道の家から飛び出したり、窓を開けてこのデモを見る人びとは、一様に怪訝な面持ちで、″なんのデモなのだろう″といぶかった。
 青年たちは、″今、「天下の炭労」に挑戦しているのだ″という正義感に燃えたぎっていた。時ならぬデモに、沿道の人びとは、路上に集まって来た。そのなかには、多くの学会員の家族もいて、青年たちに声援を送ったり、青年たちの歌声に唱和する人もいた。
 街の人びとは、この光景を随所で見て、このデモが、創価学会青年部の、炭労に対する抗議デモであることを初めて知った。
 「泣く子も黙る天下の炭労に、創価学会がデモをかけたぞ!」
 街の人びとは、意外な突発事に、一種の驚きの表情でささやきながら、この行進を見送った。しかし、ここ数カ月、炭労側の陰に陽にわたる圧迫を、ただ耐え忍んできた学会員の家族にとっては、喝采すべき、まことに胸のすくような痛快事であった。
 デモ行進が進むにつれて、青年たちは、ますます意気軒昂となって頬を燃やし、学会歌を高らかに斉唱して歩みを進めた。
 細長い夕張市街を、下一丁目から昭和通りに抜け、本町駅前広場を一周し、四丁目、栄橋三丁目を通って、また本町二丁目の十字街へと戻ってきた。
 夕張炭労事務所までは行かなかったが、人出の多い繁華街を、約一時間、示威行進したことになる。
 万一の妨害を考えて緊張していた青年たちは、なんの邪魔をされることもなく、無事に行進が終わってみると、一時に、どっと疲労が出た。
 しかし、間もなく、笑い声が弾み、一仕事終えた安堵の表情のなかに、誇らかな満足が、どの顔にも輝いた。彼らは、彼ら自身の力で、青年部として、独自に、勇壮に戦うことができたのである。
 心地よい歓喜が、五体を巡っていた。メンバーは、街の人びとが、驚愕した顔で見ていたことなどを語り合いながら、三々五々、解散していった。
3  反響は、たちまち現れた。夕張炭労は、翌六月七日、炭坑の入り口に、一通の通達を出した。″坑口発表″である。
 北炭二鉱に働く、夕張の創価学会の幹部六名に特に指定して、″「対決」を要することがあるので、出坑後(午後四時ごろ)、坑口の見張小屋の事務所に集合せよ″との通達である。
 六人のなかには、夕張の創価学会の一粒種で、当時の中心者の一人でもある荒川正造がいた。彼の学会での役職は、文京支部幹事であった。彼は、五人の幹部とともに見張小屋に赴くと、あらかじめ連絡しておいた、もう一人の文京支部幹事・三林秋太郎も来ていた。三林は、夕張のダンスホールの経営者であった。
 七人の創価学会幹部は、炭労組合の二人の幹部と対峠して席に着いた。最初から、空気は険悪であった。一言、二言、言葉を交わしたと思うと、組合幹部は、居丈高になって、いきなり大声でわめいた。
 「組合の統制を乱すような者は、即刻、組合を辞めてもらいたい。どうなんだ!」
 「なにっ! いったい、いつ、どこで、誰が統制を乱した?」
 「しらばつくれるな。胸に手を当てて、よく考えてみろ!」
 荒くれ男の集まる炭鉱の事務所である。暴力沙汰にも発展しかねない空気は、十分にあったが、さすがに、それぞれの団体を代表する幹部であった。形相は、時に瞋恚しんにの炎に燃え立ったが、腕力に訴えることは思いとどまった。それに、炭鉱労働者ではない三林秋太郎が加わっていたことも、救いであった。
 「感情的になっては、いくら話し合っても、話はつかんでしょう。ひとつ冷静にいこうじゃないですか」
 蝶ネクタイの、この場に不似合いな三林の発言に、一同は、われに返ったものの、話は水掛け論であった。組合側は、統制違反を繰り返したが、それが、前年の参議院議員選挙の時の、票の行方に関したことだとは、あからさまには言えなかった。
 また、学会側は、前日のデモ行進も、炭鉱に関係のない青年も多くいたし、学会独自の行動であって、組合に干渉されるような筋合いはない、と主張した。そして、これまで労使紛争の時など、学会員は、常に組合員として、共に戦ってきたではないかと反論した。
 議論は、どこまでも平行線をたどった。
 それもそのはずである。元来、労働団体と宗教団体とが、対決しなければならない要因は、根本的には何もないのである。しかし、夕張の創価学会の意気天を衝く勢いを恐れて、夕張炭労は神経質になり、警戒を一段と強めていったのである。
 この夕張青年部の炭労への抗議デモは、地元夕張の騒ぎだけには終わらなかった。テレビの全国ネットで、ニュースとして放映されたのである。これによって東京の創価学会本部も知ったし、文京支部の男子部の幹部は、驚き、かつあきれてしまった。
 ″夕張のメンバーは、なんという跳ね上がったことをしてくれたんだ。このままだと、勝手に何をやらかすか、わかったものではない″
 彼らは、大きな不安と、幹部の責任を強く感じた。文京支部の男子部幹部の一人である黒木昭は、直ちに東京を発って、夕張に直行した。車中、彼は、夕張の青年たちに思いを馳せながら、″なんという無茶をしてくれたか″と憤慨したり、また一方では、″なんという、かわいい青年たちであろう。彼らだけで、よくやったものだ!″と、心の底で賞讃したりしていた。
 忽然として姿を見せた黒木昭に、夕張の青年たちは、何事が起きたのかと思ったが、元気よくあいさつした。
 「どうなさった? 黒木さんが急に、お見えなさるなんて。何か起きたんですか?」
 黒木は、不機嫌な顔で、むっつり黙ったまま、独特な上目づかいで青年たちを睨んでいた。
 「実は、つい先日、みんなでデモをやりましたわ。炭労の連中は、びっくりしくさって……」
 一人の青年が、こう言いかけた時、黒木は、急に大声を張り上げた。
 「何もかも、ちゃんとわかっている。いったい、誰に指導を受けてやったんだ!」
 「…………」
 「支部の指導も受けずに、あんな勝手なデモをやるとは、君たちは、いったい、どういう了見なんだ! 無茶もいいところだ。あきれ果てたよ」
 黒木の声は、怒声に近く、目をむき、全身を震わせての叱咤だった。
 のんきなヤマの青年たちは、たちまち縮みあがって、なすところなく、うなだれた。黒木は、「黒豹」という、あだ名がついていた。色は浅黒く、髪の毛はやや縮れ、長身で腕力もありそうな、ボクサー風の偉丈夫である。これが全身全霊で怒鳴るのだから、青年たちが震えあがったのも無理もない。
 しかし、猪突の黒木も、根は優しい青年であった。怒るだけ怒ってしまうと、拍子抜けしたように、急に穏やかになった。
 「東京の方では、戸田先生をはじめ、みんな、君たちのことを心配しているんだよ。君たちは、悪行を働いたわけではない。夕張の学会員を、青年部の力で守ろうと思い立ってやったことは、ぼくも認める。しかし、夕張だけの創価学会ではない。君たちの行動が、日本の創価学会に、どういう影響を及ぼすかを考えるのでなくては、青年部の幹部としては失格だよ」
 黒木は、まるで自らを戒めるような口調になった。元来、黒木の性格は、夕張の青年たちが、今回、やったようなことを、いちばんやりかねない男であったからである。

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