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日蓮大聖人・池田大作

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波瀾  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  一九五七年(昭和三十二年)は、戸田城聖の三首の年頭の和歌で明けた。それは、元旦の勤行会で発表になったものである。
  荒海の しゃちにも似たる 若人の
    広布の集い 頼もしくぞある
  御仏の 御命のままに 折伏の
    旅路もうれし 幸の広野は
  驀進の 広布の旅は 五年いつとせ
    春を迎えて 獅子吼勇まし
 第一首は、青年部に与えたものであった。一週間前の、十二月二十三日に行われた青年部総会の雰囲気から、戸田が感得した所感を詠ったものである。
 あの愛すべき男子部員の、はつらったる姿を目にすることほど、彼を喜ばせ、安心させるものはなかった。手塩にかけて、これまでに育ててきた青年たちが、いよいよ彼の目に頼もしく映るようになったのである。しかも、その頼もしさは、荒海に跳ねる鯱のごとき強靭さである。
 ″山本伸一を見るがよい。昨年の大阪闘争で示した彼の力量を! 伸一がいる限り、青年部の育成は、もはや心配のないところまできた″と、戸田は思った。
 やがて、これらの青年たちが、鯱の大軍となって、末法濁悪の荒海で、広宣流布に挺身する時の壮大な光景が、彼の脳裏に、まざまざと描かれていたにちがいない。
 和歌は、率直な表現であったが、元旦の勤行会で読み上げられた時、戸田は、万感の思いを込めたように、異様に緊迫した表情をしていた。
 第二首、第三首は、一般の会員の日常活動を祝福しての和歌であった。創価学会の活動が、急速に展開し始めてから、わずか五年にすぎないが、地涌の誇りとでもいうべきものが、どうやら、彼らの身についてきたことを、戸田は知った。
 彼らは、さまざまな面で課題をかかえ、貧しくもあり、所願満足とは、まだまだ言いかねる状況であった。しかし、誇らかな顔は輝き、目は時に、まぶしいほどの光を放ちながら、なお柔和であった。
 それは、彼らが、まさしく菩薩行の最中にあって、日に日に浄化されつつあることの何よりの証拠であった。
 戸田城聖は、元旦の勤行会で、支部幹事以上の首都圏の幹部が勢ぞろいした姿を眺めながら、御造酒おみきの盃を頂いて機嫌がよかった。
 理事長の小西武雄が、新春を祝ってあいさつに立った。
 「戸田先生は、このようにお元気であり、私たちも健在であります。今年は、ぜひ八十万世帯を達成しようではありませんか!
 異議ないものと思います。それでは、これをもって、先生への年頭の誓いといたしたいと思います」
 戸田は、終了の題目三唱に、全学会員が一人残らず功徳を受けますようにと、深い祈りを捧げた。
2  勤行会は解散となり、首脳幹部の一行は、午後の列車で総本山に向かった。初登山のためである。
 総本山では、戸田城聖が願主となって建設される大講堂が、いよいよ着工される運びであった。規模は六階建てで、三階の七百余畳の大広間は、四階まで吹き抜けになっていた。大広間の上は屋上で、ここには、三百五十坪(約一一五七平方メートル)の庭園が造られることになっている。寺院建築としては、外観も、内部構造も、画期的なものといえた。
 着工して間もない一月十八日の午後、工事現場は、突然、色めきたった。地下二尺(約六〇センチメートル)のところで、古銭の塊が発見されたからである。
 古銭が発掘された場所は、以前、西大坊があったと言い伝えられてきた所である。回収した古銭を調べてみると、二千枚余りである。これは、大講堂建立の不思議な吉兆として、たちまち人びとの口に上った。
 古銭の種類は、中国貨幣が六十余種、朝鮮貨幣が一種、そのほか、日本貨幣も交じっていた。
 大半は、唐・宋銭である。平安時代から鎌倉時代にかけて流通したと思われるもので、開元通宝、乾元重宝などの唐銭、至和通宝などの文字が見られる北宋銭が多かった。
 また、至元通宝等の元の貨幣もあるほか、世に皇朝十二銭と称される、日本で鋳造された十二種類の銅銭の一種である万年通宝(天平時代の鋳造)も交じっていた。
 その他、明時代の貨幣として、永楽通宝が二百四十四枚、洪武通宝二十九枚も交じっているところから、後代になって、さらに加えて埋められたと推定することもできる。
 それらは、信徒の真心の供養であったのであろうか。いよいよ大講堂の建設に着工した途端、数百年来、地下に埋められていた護法の真心が、忽然として姿を現したのである。
 法主の日淳は、古銭の発掘を、何よりの吉兆として喜び、また、供養を志した創価学会員も、広宣流布のための大講堂建設という大事業に参加できる、身の福運に歓喜し、決意を新たにした。
 一月は慌ただしく過ぎ、二十八日、本部幹部会となった。折伏は、二万八千九百十二世帯と三万に迫る勢いとなった。組座談会も、いよいよ定着してきた。組織の最前線が、活性化しているためであった。
 戸田城聖は、その好調な広宣流布の伸展を喜びながら、信心の本来の姿は、楽しい信・行・学にあることを教えていった。
 「今年は、楽しく信心して、楽しく折伏をして、楽しく教学を勉強していってもらいたい。これが、今年の私の根本的な念願であります。また、そのことによって功徳を得、楽しく大講堂の造営を完遂したいと思うのであります。そして、完遂の暁には、全国から総登山をしたいと思う。皆さんの協力を願う次第であります」
3  戸田は、この直後、思いもかけないことを言いだした。
 「新聞紙上においてご承知の通り、今度、身延は内閣総理大臣の石橋湛山さんを、七階級特進させて権大僧正とし、紫の衣を贈った。これが国家において吉兆であるか凶兆であるか、深く私の心を悩ますものであります。願わくは、われわれの祈りの功力によって、凶兆にならんようにしようではないか」
 石橋湛山が、鳩山一郎の後任として自民党総裁に選出されたのは、暮れの十二月十四日である。最初、総裁候補は岸信介、石橋湛山、石井光次郎の三人であった。投票の結果は、岸二百二十三票、石橋百五十一票、石井百三十七票であったが、岸は過半数に達せず、決選投票に持ち込まれた。石井派は石橋派につき、岸は二百五十一票、石橋は二百五十八票となり、わずか七票差で石橋の勝利となった。鳩山内閣は十二月二十日総辞職し、難産の末、石橋内閣の誕生となり、石橋は一月に入ると、全国を遊説して回った。
 二月四日は、石橋が、国会で施政方針演説をすることになっていたが、彼は既に病床にあった。総理としての職務に耐えられる状況にはなく、岸外相が首相臨時代理として国会に臨み、石橋に代わって施政方針演説を行った。石橋の静養期間は延び延びとなり、二月十九日になっても、なお一週間の静養を要するという医師団の発表であった。
 野党は、首相の出席のない予算審議には、いつまでも応じられないとして、首相の進退を迫った。健康問題は、政治問題となった。二十二日の医師団の結論では、なお二カ月の静養を要すと発表され、遂に石橋は辞意を決し、二十三日、総辞職を表明したのである。
 施政方針演説もできず、多くの期待も空しく、わずか九週間の短命の内閣に終わってしまった。
 戸田城聖が一月の本部幹部会で、「心を悩ましている」と言ってから、実に二十七日目のことである。石橋のあとを、岸信介が継ぎ、二月二十五日、岸内閣が発足した。

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