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日蓮大聖人・池田大作

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展望  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  梅雨の彼方に、いよいよ灼熱の夏が見えてきていた。
 七月九日――午前八時から、参議院議員選挙の、東京地方区と大阪地方区の開票が始まった。
 前夜から開票が始まった各県の地方区は、このころまでに当選が判明したのは約半数で、自民二十一、社会十一、緑風会は議席を獲得できずにいた。
 全国区は、まだ、なんの発表もなかった。
 会員の関心は、東京と大阪の、地方区に集中していた。熱心に活動した人びとは、ラジオの前に釘付けになって、刻々の報道に一喜一憂した。
 大阪の春木征一郎は、第三位を堅持し、票は着実に積み重なっていった。
 東京の清原かつは、当選圏に入ったかと思うと、また圏外に落ち、不安定のまま、時は刻々と過ぎた。全国区の開票状況も気になることであったが、集計は遅れ、当落の見当は、まだつきかねていた。
 関西本部の三階にも、固唾をのむ人びとがいた。悔いなく戦い切った人びとの胸には、栄光の確信はあったものの、勝利を現実に握るまでの不安に、さいなまれていた。
 定数三の第三位にいることが、不安の種である。ラジオは、正午の時報を告げた。
 すると間もなく、大阪府の目下の数字が発表され、春木征一郎が、第三位のまま「当選確実」というアナウンサーの声が響いた。
 途端に、「わーっ」という歓声があがった。待望の「不可能を可能にした」瞬間である。
 人びとは、「やった!」と跳び上がり、続いて「バンザイ、バンザイ!」という絶叫が響いた。なかには、抱き合いながら、喜びのあまり涙を流す人もいた。
 多くの同志たちは、この興奮の渦中にあった。互いに、「おめでとう!」「おめでとう!」「よかった」「よかった」と言いながら、握手を交わし合っていた。
2  山本伸一は、一人、別室に入って、思いをめぐらした。彼の胸中は、喜びよりも、東京の模様が心配でならなかった。また、戸田会長の苦悩と激務を思い、健康をひたすら心配していたのである。
 やがて、選挙事務所から春木征一郎があいさつに訪れた。歓呼の拍手と、万歳が続いた。その喜びは、それまでの、重なる苦闘と、忍耐と、苦渋のすべてを、一瞬にして過去に押し流し、勝利の栄光が、一人ひとりの顔に輝いて見えた。
 伸一は、まことに冷静であった。彼は、三階仏間の御本尊の前に端座し、春木をはじめとする会員が、これに続いた。不可能が可能になった勝利の報告を、題目三唱に込めて、力強く唱和した。伸一は、春木にあいさつするように促した。
 日焼けした長身の春木征一郎は立ち、しわがれた声で言った。
 「皆さん、まことに、ありがとうございました。厚く感謝いたします。第一位になれず、残念だったという方がありますが、入学試験に一番で合格しても、卒業のときビリでは、なんにもなりません。私も、これから大いに勉強して、最後には一位になるよう頑張りますから、よろしくお願いいたします」
 伸一は、関西の同志の大勝利を祝福し、心から皆の労をねぎらいながら語った。
 「これからが大事なんです。今後、立正安国のために、長い旅路を続けなければなりません。勝っておごらず、負けても卑屈になることはありません。どこまでいっても、私たちには信心しかない。一時の勝敗ではなく、根本の信心の核をつくり、苦楽を共にしつつ、何ものにも崩れない創価学会を、築き上げていくことです。これが真実の勝利なんです。
 今回、やっと関西勝利の伝統を、初めて築いたところです。どこまでも御本尊を信じ切って前進すること以外に、私たちの道はありません。
 広宣流布の遠征のなかにあって、輝かしい伝統を守って、常勝関西の歴史を築いてまいろうではありませんか!」
 さらに幹部が立ち、喜びのあいさつが続いていった。
 沸き立つ興奮のなかで、伸一は、腕時計を見ていた。やがて、そっと席を立ち、別室で身支度を整えた。
 関西本部の管理者が入ってきた。彼は、管理者に、あらたまってあいさつした。
 「長い間、お世話になりました。よかったね。ありがとう」
 「いいえ、いいえ、室長……」
 「これから東京へ帰ります。皆、喜んでいるね、よかった。……日露戦争の乃木将軍は、一将功成って万骨を枯らしたが、私は、一将功成らずとも、関西の同志が、一人残らず幸福になってくれれば、それでいいんです」
 伸一の言葉は、一人、つぶやくように、しみじみとしたものだった。管理者は感極まって、応えることもできなかった。
 伸一は、二、三人の友人に見送られて空港に行き、久方ぶりの東京へと飛び立った。一人、機上の人となった伸一は、八日早朝の、戸田城聖からの電話が、なおも気にかかってならなかった。
 「東京は、どうも負け戦になりそうだ」
 そう語った戸田の苦衷が、ひしひしと胸に迫ってくるのであった。
3  航空機は、厚い雲の層を破って、やがて雲海の上に出た。果てもない蒼穹の下に浮かぶ真っ白な雲は、生き物のように、さまざまな格好をしていて、それがまた、徐々に崩れて、新たな姿態をつくりつつあった。雲海は、地上の世界を全くさえぎって、さっきまで続いた、ここ半年の苦闘の種々を、遠い過去の足跡として思い浮かばせた。
 伸一は、それらの苦闘が実を結んだ結果に身を委ねて、他人事のように客観視する余裕を得たのである。
 ″苦しいといえば、あれほど苦しい戦いもない。楽しいといえば、あれほど楽しい戦いもない。苦楽というものは、本来、一つのものなのかもしれない。しかし、そういえるのも、勝利の栄光があったからではないか。もし、敗れたとしたならば、苦しさだけが残るのではないだろうか″
 彼は、慄然とした。彼の一念は、やがて、東京の戸田のことだけを考えていた。
 雲海の着想は、未来へと向かった。
 ――広宣流布の、長い旅程のなかにあって、あのような油断ならぬ苦闘から、わが友らは、永久に免れることがないのだろうか。会員は、今後、ますます激増する。広宣流布の時が熟しているからだが、その旅程のなかで、選挙のたびに、同志の支援活動も続くだろう。
 すると世間は、創価学会が、何か″政治的野心でもあって活動している″と思うだろう。学会を、政治集団と誤解して、権力もさまざまな干渉をしてくる。
 創価学会は、あくまでも、人類の永遠の幸福を願つての、広宣流布という希有の使命を担った団体でなければならぬ。とともに、日本における立正安国を実現するには、政治とのかかわりを無視して進むわけには、いかない段階なのかもしれない。
 現実の社会にあって、政治の占める比重は極めて大きい。現実社会にかかわっていく以上、政治的側面が、当初、どうしてもクローズアップされてしまうことも事実である。そのため、社会から、政治的集団のように見られることも、免れないであろう。
 この尊い純粋なる信仰の団体が、政治的団体のように見られることは、残念でならない。また、信仰を利用し、政治家の地位を狙う者も出てくるであろう。これもまた、排除していく必要がある。
 大阪での戦いは、勝った。東京は、敗色濃厚である。ともに壮烈な戦いであった。その死闘ともいうべき戦いのなかで垣間見たものは、権力というもののもつ、底知れない魔性であった。
 立正安国の実現をめざす以上、その魔性との対決を、もはや避けることはできない。かといって、進むには、政治の泥沼に、足を踏み入れなければならないだろう。すると、学会の、広大にして偉大な使命を、矮小化することになる危険性がありはしまいか。このたびのような選挙活動は、どうしても通らなければならない、関所ということになるのだろうか。
 だが、選挙がどうあれ、根本の信心というものを、忘れることがあってはならない。政治だけを目的とするのであれば、こんな苦しみはないはずだ。そこに、立正安国の建設を、現実社会で進めなければならない創価学会固有の苦悩があり、未聞の作業がある。これには、それ相応の覚悟がなくてはならないはずだ。この避けがたい問題に、いかに対処すべきか。
 ともあれ、立正安国とは、生命尊厳の哲理を根底に、人びとが幸福に生きる平和世界を、築き上げていくことだ。
 そのためには、政治、教育、文化、学術、平和運動など、あらゆる分野の建設に取り組まなければならない。しかし、社会は、政治にことさらスポットを当て、あたかも、学会が政治集団であるかのように、歪めて見るかもしれない――。
 伸一は、雲海のなかから、突然、湧き出たような疑問を、反芻しつつ沈思した。
 彼は、ふと雲海の裂け目の下に、美しい海岸線が連なるのを見た。
 ″この山河には、なんの矛盾もないように見えるが、そこに棲息する人間社会は、何ゆえに矛盾に矛盾が重なり、混沌たる様相を呈するのだろうか″と思った。今の彼に解けぬ矛盾は、あまりにも大きく、また重大に思われた。
 ″勝利の直後の、この雲海の着想を、わが師・戸田城聖先生に、お尋ねしたら、師はなんと言われるであろうか″
 彼の心は、東京へ、本部へ、戸田の膝下へと急いだ。
 航空機の飛行は、今の彼には、ひどくのろく思われた。勝利の後の思索は、栄光の陶酔を彼に許さず、彼の覚めた心をさいなんでいた。

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