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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  旭日の勢いというものは、誰人も、さえぎることはできない。草創の息吹には、潮のごとく力強い勢力がある。その流れを、永久に続けゆくための唯一の原動力は、信心しかない。
2  一九五六年(昭和三十一年)四月八日の大阪地方は、前夜から雨がやまなかった。
 いや、むしろ風さえ強くなって、朝から荒れ模様に変わっていた。大阪管区気象台は、風雨注意報を発していた。
 関西の創価学会員にとって、この日は、待ちに待った大阪・堺二支部連合総会の当日である。しかも、難波の大阪球場を会場とする野外集会である。
 前年十一月、創価学会の第十三回秋季総会が、初めての野外集会として、東京・後楽園球場で開催された。これを見た、衝天の意気に燃える関西の会員は、万難を排しても、自分たちは大阪球場で総会を決行しようと決意していた。それが、春雨ならぬ土砂降りの雨である。彼らは、落胆するよりも胸を痛め、天を恨むよりも、なんとか正午ごろには雨のやむことを祈り、待った。
 山本伸一は、前日の七日朝、自宅を出て、夜八時ごろ大阪駅に着いたが、雨である。関西本部では、翌日の晴天を願って唱題の声が響いていた。明日の天気予報は雨と知り、伸一は、愛すべき関西の同志の辛い心を思い、胸を痛めながら、直ちに晴雨両様の準備に心を砕かなければならなかった。
 彼は、三月三十一日、東京での本部幹部会を欠席してまで大阪に向かい、四月二日までの三日間、各種の会合で、大総会成功へのさまざまな問題点を検討した。彼は、大結集に不慣れな関西の会員のために、万全を期して、運営の細部にいたるまで指示し、ひとまず帰京した。さらに、連日、関西本部と連絡を取りながら、戸田城聖の一行を迎えることなど、準備事項の詳細を、速達便で書き送っていた。しかし、雨天を想定した指示は与えていなかった。
 関西の幹部は、組長、組担当員にいたるまで、この祝福すべき大総会までに、果たすべき責任を完壁に果たそうと大奮闘していた。そして晴れ晴れと、会長・戸田城聖を迎えようと、弘教拡大の激しい活動を展開していた。それというのも、四月一日の夜の組長指導会で、山本伸一から、新しい活動方針が発表されていたからである。
3  それまで、班長を中心とする班座談会を主体として活動してきたが、四月からは、それに加えて、組長の発意による組座談会の開催を、積極的に進めてよいという方針が打ち出されたのである。
 心ある組長は勇躍歓喜して、さっそく、この翌日から実行に移した人も少なくなかった。総会までに数日しかなかったが、この記念すべき大総会に、新しい入会者を一人でも多く連れて参加しようと、誰言うともなく、意気込んでの活動が、にわかに始まっていた。
 班から組へと、一段階広がった座談会の開催は、まだ入会して日の浅い組長の実力を考えると、直ちに期待すべき活動の成果が出るとは思われなかった。ところが、彼らの歓喜の実践は、予想をはるかに超えたのである。
 たとえば、大阪在住の一人の組長がいた。彼の所属する地区は神戸市にあり、彼の班も神戸市の近郊にあった。彼は、地区の会合や座談会のたびに、大阪から神戸まで出かけていった。彼の友人を座談会に誘うにも、神戸まで連れて行かなければならなかった。
 彼は、割り切れぬものを感じつつ奮闘していた。彼が、大阪で座談会を開くためには、彼が班長となるほかはない。こんな思いに行き着いた時、組座談会の開催が、思いがけなく可能となった。
 彼は、「よっしゃ!」とばかり、地区と連絡を取り、隣近所の人びとや知友を集めて、数回の座談会を開いた。彼の組は、この四月、実に二十世帯の折伏ができたのである
 組座談会は、組長たちの発心を促した。彼らは、幹部としての責任と誇りとに燃えた。大総会への二万人の結集は、着々と準備されつつあった。

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