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日蓮大聖人・池田大作

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脈動  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  夜更けの、創価学会本部の一階応接室で、三人の男が額を寄せ合って、何事か協議を続けていた。三人とも、かなり深刻な表情を、いつまでたっても崩さなかった。
 二階の広間では、先ほど教授会が終わっていた。戸田の、明快にして、しかも深遠な講義が引き起こす、いつもの消えやらぬ興奮をいだきながら、教授たちが、それぞれ散会したあとだった。辺りには、もはや人影はない。本部内の電話のベルも鳴らず、人気が消えて、急に閑散としたわびしさが、どこからともなく忍び寄ってきていた。
 二階の一隅の会長室から、戸田の咳払いが、ドア越しに、かすかに遠く聞こえていた。真冬、二月一日の夜更けの一刻である。
 三人の男というのは、山本伸一と富井林策、上田藤次郎であった。富井は、東京都練馬区に住む地区部長であった。また上田は、千葉県船橋市在住の支部幹事である。協議の主題は、関西の中心となる大阪の組織を、いかに強化するかであった。真剣な討議が続いた。
 当時の大阪支部、堺支部の両支部の組織は、合わせて四十二地区を数え、これらの地区は、大阪府をはじめとし、京都府、和歌山県などの近畿各県から、中国、四国にわたって存在していた。そして、それぞれの地区の各班は、各地域に重なり合って伸びており、その活動範囲は、中部地方や九州方面にまで広範囲にわたっている。
 まことに西日本を席巻しようとする大組織で、活力あふれるものであったが、組織としては、散漫の誹りを免れなかった。関西に、広布拡大のための最も効果的な組織を、いかに樹立するかが、大きなテーマとなっていたのである。
 山本伸一は、戸田の決裁を得て、富井林策を前年の歳末に大阪に向かわせ、現地幹部との密接な協議のうえに、適切な組織態勢の立案を命じていた。富井は、一月にも大阪に行き、伸一の指示のままに、一応の試案を得て帰京したばかりのところだった。
 富井は、それまで一度も、大阪の地を踏んだことさえなかった。まして大阪の首脳幹部とも、ほとんど面識さえなく戸惑ったが、それだけ先入観はなく、白紙の公平さもあったわけで、大阪の地図を広げながら、一見、乱暴とも思われる大胆な発想も飛び出した。
 彼は、三十一歳で、入会以来、二年数カ月しかたたず、未熟といえば未熟といえた。しかし、持って生まれた正直で素直な性格は、骨身を惜しまぬ純真さとして現れ、誰からも好かれ、ある程度の信頼を寄せられていた。
 終戦による復員から、ここ十年の青年時代に、数々の辛酸をつぶさになめてきた。それだけに、彼は、信仰による急速な蘇生のありがたさを、誰よりも身に染みて感じていた。
 彼は、大阪への派遣を、山本伸一から言い渡された時、即座に快諾し、雀躍した。しかし、その戦いは回天の難事ともいうべきもので、そこに多大な辛労が待っているとは、いささかも気づかなかった。まして、確実な勝利を期す、山本伸一の今の秘められた胸中など、とても、うかがい知る由もなかった。
 伸一は、間もなく活動の指揮の一端を託さなければならない富井と上田の二人に、いかに想像外の飛躍を要するかについて、あらゆる面から懇切に語った。だが、二人は、ただ深く頷くだけで、事の容易ならぬ重大さを、さっぱりのみ込むことができないでいた。
 上田藤次郎は、ふと話の途中でつぶやいた。
 「春木の征ちゃんは、大阪支部長であるだけでなく、七月の参院選にも出る。大変なことになりましたなぁ」
 上田は、春木征一郎の親しい友人で、かつて同じくプロ野球の選手をしていた。投手であった春木と、捕手としてコンビを組んだこともある。彼の入会は、春木の紹介によるものであった。彼は、関西に、これから広宣流布の一大拠点を築く大阪支部長としての春木の戦い、さらに、七月の参議院議員選挙の候補者としての激戦を思い、まず友の身を案じていたのである。
 伸一は、上田の言葉に唖然とした。
 ″まるで他人事だ。これでは、どうしょうもない! 今、いくら熟議を重ねたところで、私の決意を、そのまま彼らに悟らせることはできない。実践のなかで、みずから悟らせるしか方法はない。今、彼らに言おうとしていることも、やがて激しく苦しい実践のなかで体得するだろう″
 思い直して、伸一は言った。
 「一つだけ約束してほしいことがある。今、何もわからなくていいから、一切合財、このたびの戦いだけは、私の指示通りに、徹底して実践してもらいたいんです。いいですか!」
 伸一の厳しい語調に、二人は口をそろえた。
 「はい!」
 「これから約半年、長期の派遣でご苦労だが、今回は、私の手足となってもらって、縦横無尽に、大阪で動いてもらいたい。長期の派遣であることは、奥さんに、よく納得してもらいなさい。その代わり、一世一代の闘争の歴史が、君たちに思い出を刻むだろう。不可能を可能にするからだ。まぁ、いい。冥の照覧だけは、絶対に信じ抜いていくことです。私は、君たちの急速な成長を心から祈っている」
 「はい、よろしく、お願いいたします」
 話は一転して、新しい組織編成に戻った。
 試案は、大阪市内を真二つに分け、大阪市以外の広い大阪府下を三つに分けて、全体を五管区に区分し、指導の迅速な徹底と、前線まで十分に目の届く態勢の樹立を考慮したものであった。
 地理的なさまざまな条件と、学会員の分布の濃淡とを考慮したが、この二つが相矛盾する場合も生じ、現地幹部との意見調整は、なかなか厄介なことであった。
 まして、五つの管区内に住む人材の適、不適となると、問題は、さらにややこしい様相となって、収拾がつきかねた。富井林策は、現地幹部との数回の協議を重ねたものの、最終決定にいたらず、試案の草案そのままで、山本伸一に提出しなければならなかった。そして、今、伸一の最終決定に委ねたのである。
 「私は、まだ大阪の事情が、よくわかりません。地域と人材の配分となると、これでいいのか、なんとも申しかねます」
 正直な富井は、組織の編成試案に目を落としながら、派遣員としての面目なさに、身を縮めるより仕方がなかった。
 「この区分は、よくできている。これでやっていこう。しかし、これに配属する幹部の配分となると、まだまだ検討の余地が、ずいぶんあるようだ」
 伸一は、編成表の名簿を、さっと見ながら言った。
 大阪の幹部は、皆、彼の手塩にかけてきた人たちである。その人柄も、性格の癖も、境遇も、彼の掌のなかにあるといってよかった。
 彼ほど大阪の組織の的確な人選ができる人は、現在の学会のなかで、ほかにいるはずもなかった。彼は、てきぱきと、ある人を変更して別の人に替え、変更した人を他の方面につけ替えたりしたが、試案のまま通した部分もあった。
 「この第一管区の責任者は、富井君、君にやっていただこう、いいね。第二管区は上田君、君が引き受けてくれるね。あとは内定の候補者として、第三管区は……」
 派遣責任者五人は、たちまち決まった。
 「これに、派遣者として青年部の幹部を、各管区に二、三人ずつ付けよう。派遣の陣容は、これでいいとして、これに対応する大阪方の責任幹部は、この試案のままではまずい。まず富井君と組むのは、満井勝利さんが適任中の適任だろう。上田君のところは、元気な龍岡巌さんがよい。さて、第三管区は、誰がよいかなあ……」
 伸一の決定に、富井も、上田も、意外な顔をした。満井といえば、五十年配の、恰幅のよい、磊落で実直そうな支部幹事である。
 龍岡支部幹事は、これと反対に、猪突猛進型の壮年である。当時の大阪の九人の支部幹事のなかには、この二人よりも信仰経歴も長く、老練と思われる人も、進取的な気性の人もいた。それを差し置いて、勝敗を決する最重要の大阪市内二管区に、伸一が、この二人を充当したことに、いささかの不審を、富井も上田も、いだいたのである。
 伸一は、二人の不審顔を察知すると、二人を交互に見ながら言った。
 「君たちも、よく覚えておきなさい。組織といっても、人が大事なんです。組織活動というものは、着実に進まなければ意味がない。着実ということは、保守的であってもいけないし、さりとて、急進的であっても駄目です。しかし、物事の全体をとらえて、真に着実に推進できる人というのは、めったにいない。
 今の大阪は、見た通り、どちらかに偏った人が多い。だが、組織は着実に運営しなければならない。そこで、将軍学ともいうべきものの一つが、ここに必要となってくる。
 人事を過つことは、組織を殺すことです。たとえば、地区をよく見た時、困った班などに、その実例をいくらでも見ているではないか。指導者の価値は、その人事で決まるといってよいぐらいだ。それほど大事なんです。
 私は、君たちのことを、骨の髄までわかっているつもりだ。
 富井君、君は夢中になると、若さに任せて、とんでもないところまで突っ走る危険がある。そこで、年配者で沈着な満井さんと組めば、組織は着実な活動体となることができるだろう。
 上田君は温厚だが、それだけテンポの遅い弱点がある。それで猛進型の龍岡さんと組めば、両方の弱点を補いつつ、着実にして有効な活動を進めることができよう。
 この決定にも、私の、よくよくの祈りがあるんです。
 つまり、保守と革新との絶妙の組み合わせです。単なる思いつきなんかではない。私は、戸田先生から厳しく訓練されて、ここまできた。先生は、大将軍中の大将軍です。人事のことも、先生から、いつとはなしに学んだことです。
 弱点のない人間はないように、また長所のない人問もない。その厄介な人間に思う存分の働きをさせるためには、組織体のなかで、絶妙のコンビを組むより方法がない。
 こうすれば、人それぞれの弱点というものは、すべて長所に一変するんです。私の言うことは、問違っていないだろう。勝つためには、まず、人事で勝たなければならない」
 富井も上田も、返す言葉もなかった。伸一の思慮の深さの一端に、初めて触れた思いがした。そして、ただただ感嘆して、心から頭が下がる思いがした。二人は、一人の人を大事にするということは、その人が存分に働ける環境までつくって生かすことだとは、少しも気づかなかった。
 満井勝利も龍岡巌も、このように山本伸一から見られていたとは、彼ら自身、全く気づいていなかった。
2  満井は、二十四貫(約九〇キロ)の巨体で、大阪の地を駆け回り、冬でも汗をかく汗かきで、腰には、いつもタオルを下げ、それで顔や首筋を拭かなければならなかった。五十代という年齢と巨体の恰幅で、貫禄は見るからに満点である。だが、彼自身は、それをいささかも意識せず、戸田城聖や先輩の前では、少年のようにかしこまって、素直な姿勢を崩さなかった。生来、大らかな彼は、支部や地区の人びとに対しては、極めて鷹揚で思いやりが深く、彼の活動が、おのずと衆望が集まり、大きな成果を収めてきていた。
 彼の、これまでの半生は変転を極めていた。九州の大分に生まれ、旧制中学校では、野球の選手として活躍したが、ある年、親友の投手が落第してしまった。落第を恥じた友人は、東京へ遁走することを彼に打ち明け、「誰にも言ってくれるな、見逃してくれ」と頼んだ。窮境の友人の、たっての頼みに、彼は二つ返事で引き受けた。
 友人の失綜は、学校の問題となった。校長や教頭は、親友の彼を詰問したが、彼は、最後まで友との信義を守り、口を割らなかった。これがもとで、彼も学校を追われ、京都の親戚の家に預けられることになった。
 彼が、大分を発つ時、彼の心情を知る二人の教師が、駅まで見送りに来てくれたという。別れに際しての教師の励ましは、「成功するまで大分の地を踏むな」という言葉であった。彼は、心に期した。
 ″よし、成功するまでは絶対に故郷の地を踏むまい。五十までには、必ず成功してみせる″
 関西で中学を卒業した満井勝利は、映画俳優を志し、撮影所の門を叩いた。日ならずして採用通知が来たが、同じ日に電鉄会社からも採用通知が来た。世話になっていた叔母の猛烈な反対で、俳優の道をひとまず諦め、電鉄会社に入社した。
 以来十二年の社員生活で、多くのことを学んだが、いつか悪友の仲間に入り、競馬などで借金をつくり、生活は乱れてしまった。この時、心の底の大志が蘇り、これまでの環境と決別して再起するために、会社を辞めてしまった。そして、成功の早道と信じて、株の世界に、いきなり飛び込んだ。
 右も左も知らぬ証券会社の外交員となったわけだが、この商売は甘くなかった。窮之生活をつぶさに味わいながら、懸命に勉強し、努力した。小便が赤なるほどの労苦の連続であったが、やがて、一、二を争う優秀な外交員となった。信用も厚く、一九四一年(昭和十六年)のころには、信用組合の役員に請われて、浮沈の激しい北浜の世界から足を洗ったのである。
 満井は、戦中、戦後を通じて、二、三の会社の首脳幹部として手腕を振るうまでになったが、ある工業会社への融資で、友人の金、百数十万円を注ぎ込んだ。ところが、この会社が倒産した。計画的倒産であった。これで、彼の信用も一挙に失墜してしまった。
 この時、ちょうど五十歳になろうとしていた。それだけに衝撃は大きく、前途暗澹たる、わが人生を思わないわけにはいかなかった。再起の気力を、全く失ったのである。
 五三年(同二十八年)二月、彼が天六辺りを孤影悄然と歩いていた時、ある知人と、ばったり会った。知人は、四年前、彼が若干の金を都合して貸し与えた人であった。
 「ええところで、会うたなあ。ちょっと、話聞いてくれまへんか」
 債務者は、先に立って、彼を喫茶店に案内した。
 「借金は忘れてまへんけど、もうちょっと待っておくれやす」
 満井は、一瞬、がっかりしたが、知人の話というのは信心の話であった。初めて聞く創価学会という言葉は、彼には耳新しかった。
 「わても十日ほど前から始めたばかりゃが、どんな願いをかけてもええんですわ。それがみんな叶う。この信心以外は、みんな駄目で、願いは叶わんちゅうのですわ」
 唯一の正しい宗教だというのが、満井には、なぜか魅力に思えた。気の早い彼は、あっさり言った。
 「よっしゃ、いっぺん、やってみよ、やろ!」
 「へえ、やりまんのか。そやったら、いっぺん、偉い人の話を聞いてくれまへんか」
 「そんならやめた。偉い人の話を聞かなあかんのやったら、やめとく。やる言うてんやから、それでええやないか」
 「そう、そうですわな。それでよろしおますわな」
 こうして、入会した満井は、翌日から、会う人ごとに、「あんた信心せえへんか」と折伏を始めた。
 彼は、五十歳までの念願であった、錦を飾って故郷の土を踏むことはできなかったが、生命の錦ともいうべき御本尊を、それとは知らず受持できたのである。
 四カ月たった時、初信の功徳であろうか、思いがけなく「産業経済新聞」の専売所の話が、据え膳のように彼の目前に現れた。
 彼は、確かな実証を知った。折伏に力が入ったことは、言うまでもない。日ならずして、一躍、班長の任命があった時、彼は、それを即座に断った。とても自信がない。大勢の人の前で話をすることが苦手であった。
 任命した春木支部長は、一瞬、困惑の表情で沈黙した。
 満井は、なぜか苦しくなっていった。
 「しゃべらんでも、よろしおまっか」
 「ああ、それでいい。黙って座って、周りの人にやらせなさい。そして、その通りに、まねすればいいですよ」
 春木の言葉に、満井は安心したのである。
 座談会では、彼は、最後に一言、こう言うのが常であった。
 「あんたやりまっか。やらない、ああそうでっか。……あんたは? やりまっか、おめでとう」
 至極、あっさりした言い方であったが、彼の班の成果は、見る見る上昇して、支部のなかで、たちまち頭角を現した。
 満井勝利は、不思議な男となった。支部の幹部は、彼の班の成果を不思議に思い、目を見張ったが、たねは、まれに見る彼の人柄にあることを知らなければならなかった。
 彼が、初めて戸田城聖に面接した時、一瞬にして、戸田は、満井の円満な人柄を愛するようになった。彼の前半生の苦闘を知るにつけ、戸田の指導は懇切を極めた。
 その後、戸田は、彼に幾たび会っても、呼びかける言葉はいつも決まっていた。
 「どうだい、サンケイ、商売の方はどうだ?」
 戸田が呼びかける「サンケイ」は、彼の愛称となった。
3  満井勝利と対照的なのが、龍岡巌である。このころ、彼は三十代前半で、小太りの短躯は、バイタリティーにあふれ、精悍であった。「豆タンク」という、あだ名の由来するところである。
 彼は、奈良県の吉野で生まれ育った。大阪に出て学校を終えると、父親の経営する工場で加工業に従事した。一九四二年(昭和十七年)一月、徴兵され、軍曹として中国で終戦を迎えた。四六年(同二十一年)に、中国から博多に引き揚げた時、博多の焼け跡に驚いたが、大阪に舞い戻って、さらに驚愕した。彼の家も焼失して、一面の焼け野原となっている。両親の疎開先の吉野に落ち着いて、二、三カ月、農業に従事したものの、持ち前のファイトは、彼を大阪に走らせた。五月五日のことである。
 知人の会社に厄介になり、十二月に独立した。粗末な小屋のような工場であったが、敗戦のショックで、人びとが虚脱状態にあった時、彼は、いち早く焼け跡から立ち上がった。彼の、脇目もふらぬ奮闘は、たちまち事業を拡大し、四八年(同二十三年)には、大淀区内に、住居とプラスチック製品工場を新築した。さらに、大手電器メーカーとも契約し、五三年(同二十八年)ごろには、従業員二百人にも及ぶ会社にまで成長させることができた。すべて浪花商人のど根性である。
 事業の急速な拡大は、多くの危険をはらんでいるものである。売掛金の未回収、不渡り手形なども増加し、経営は危機にさらされた。こんな時、取引先の営業マンから折伏され、『折伏教典』なども借りて読み、初めて座談会に顔を出した。
 五四年(同二十九年)四月のことであった。
 座談会の終盤は、質問会となった。龍岡巌は、真っ先に手をあげた。
 「信心したら病気が治るというと、医者もいらんことになる。そんなことは、ちょっと信じられまへんなぁ」
 この夜の中心者は、春木支部長であった。
 彼は、食ってかかるような龍岡の矛先を、実践の楯で受けた。二人の目と目は、真剣そのものに光っている。
 春木は、紅潮した顔で力強く言った。
 「あなたが一年間やって、なんの結果も出なかったら、私の財産を全部あげましょう」
 「一筆書いてもらいまひょか」
 春木は、おもむろに参加者に向かって言った。
 「私が言ったことを、間違いないと証明できると思う人は、手をあげてください」
 ほとんどの参加者が手をあげた。その場の勝負は明らかだった。
 龍岡は、急き込んで言った。
 「ほな、どないしたら、よろしおますか」
 「今までの信仰を捨てて、御本尊を朝晩拝むだけです」
 「ほんまですな。ほんなら一年間やってみますわ」
 龍岡は、入会を決意して、家に帰ると、さまざまな宗教を遍歴してきた妻の猛烈な反対にあった。
 家庭の破壊を予測しなければならなくなった彼は、それを押してまで入会する義理もないと、理屈をつけて思いとどまった。
 しかし、座談会の話は、彼の心をとらえて離さなかった。
 ″本当に、この信心は功徳があるのだろうか。嘘か本当か、その証拠をつかみたいものだ。そうだ。俺の代わりに、誰かに信心させてみればわかることだ″
 彼は、知人の娘が結核で苦しんでいるのを思い出し、折伏して、知り合いの学会員に紹介した。入会した彼女は、二週間ほどたったころから、他人が見てもわかるほど快方に向かい始めた。
 それを見て彼は驚いたが、″一人だけでは偶然かもしれない。もう一人、試してみよう″と彼の家に出入りして、茶の行商をしていた友人に信心の話をしてみた。
 売れ行き不振で苦しい境涯にあった友人は、素直に入会した。なぜか、日ならずして茶が飛ぶように売れ始めた。新茶が出回る時季ではあったが、その売れ行きを見て、龍岡は目を見張った。
 証拠が二つそろった。彼は、信心の功徳は本当だと考えざるを得なかった。
 龍岡は入会した。
 それから程なく、妻が、突如、虫垂炎で入院した。痛みに苦しみ、妻は、ワラにもすがる思いで、題目を唱え始めた。彼女の手術は成功した。
 「豆タンク」は、自らも現証をつかみたくて、懸命に信心に励んだ。
 入会直後、彼は、戸田城聖の話を聞く機会があった。その感激で、学会活動にも力が入った。
 彼が最初に体験をつかんだのは、あれほど苦しんでいた手形の決済が、難なくついたことであった。また、長年の悩みであった持病の座骨神経痛も、痔も、いつの間にか治ってしまっていた。
 ″この信心は、すごい力がある。間違いない信心や!″
 確信を深めた彼が、猛然と折伏に励んだことは言うまでもない。
 彼一人で、月に十世帯、二十世帯と弘教を実らせた。
 折伏成果に悩んでいた、ある班長は、彼に折伏の秘訣について教えを請いに来たほどである。
 入会から半年たった十一月一日、春木支部長から、いきなり彼に電話がかかった。
 ――十一月三日、東京で開催される創価学会秋季総会に出席せよ、というのである。
 彼は、喜んで同行を約し、二日夜の夜行列車「月光」のなかで、春木と落ち合った。車中、龍岡は、地区部長として頑張るように、春木から言われたのである。
 彼は、東京で面接を受け、この十一月、梅田地区の地区部長に任命された。
 新進の地区部長の行動半径は広く、大阪全域はもとより、中国、四国、九州へと、弘教の足は、地区員と共に、とどまることを知らなかった。
 そして、さらに半年余りが過ぎた時、「豆タンク」は、大阪支部の新鋭支部幹事となっていた。彼の事業も、危機を脱して好転した。彼は、日蓮大聖人の仏法の絶対の確かさを、短日月のうちに、心の奥深く刻んだ。

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