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日蓮大聖人・池田大作

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一念  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  一九五六年(昭和三十一年)一月四日の大阪は、朝から冷たい雨が降っていた。
 寒い冬の一日であった。昼過ぎから小降りになり、夕刻には雨はやんだが、曇天であった。
 山本伸一は、この日、朝九時の特急「つぼめ」で東京を発ち、夕刻には関西本部に着いた。彼は、そのまま玄関に入ることはなく、しばらく街路に立って、この三階建ての建物を、しげしげと眺めた。
 ″古い建物だが、東京の本部より広いようだな″と思った。
 前年の秋、ある音楽学校の校舎であったこの建物を買い取り、大修理を加え、暮れの十二月十三日に、関西本部の落成式が挙行された。
 この席で、戸田城聖は、関西本部安置の新しい御本尊を前にして、関西の未来に、揺るぎない基盤が築かれたことを宣言し、次のように話を続けた。
 「あなた方が、これから大阪の本拠を守ってくれる。まことに、ありがたいと思っております。心からお願いいたします。
 私は、どんな金持ちにも、へつらいません。どんな位の高い人にも、頭を下げません。また、へつらえません。
 よく世間では、名声や資産で評価しますが、仏法は、そうではない。金があるからといったって、金などは、自分の使うだけあれば、いらないものです。金があったって、使いようがない。
 今日も、ある人に話をしたんですが、『私は、金が欲しいとは思いません。また、御法のためなら、生命もいりません』と言いました。私が、心から頭を下げ、尊敬するのは、広宣流布のために、真剣に戦う皆さんです」
 彼は、並みいる関西の学会員に、″儲かりまっか″の世法に流されることなく、あくまでも、純一無二な信心を貫くことを力説した。それによって、功徳を積むことができるからである。
 戸田は、鋭くも温かい眼差しを参加者に投げて、こう話を結んだ。
 「だから、大阪の皆さんは、強盛な信心に励んで、功徳を十分にもらいなさい。病気も治ればよいし、金も十分に儲けなさい。信心を全うして、幸福者になってください。それが、私に対するお礼だと思ってください」
 山本伸一は、この日の落成式に参加できなかった。十二月十三日は火曜日で、彼は東京にいた。彼は、学会本部にあって渉外部長であり、青年部の室長であり、文京支部の支部長代理であった。その幾つもの重責を担いながら、なおかつ大東商工の日々の勤務を怠ることはできなかった。まして、このころには破防法問題で、M新聞相手に、厄介な交渉を一手に引き受けていた。
 今、彼は、関西本部となったとの建物を、初めて目にするのである。一九五二年(昭和二十七年)、夏季地方指導の折、初めて大阪の地を踏んで以来、支部の総会や、青年部の大きな会合のたびに、戸田城聖と共に幾たびとなく訪れた。そして、五四年(同二十九年)の九月から、第五期教学部員候補の講義担当者となってからは、毎月、定期的に来阪し、求道心が厚く、信心の若い大阪の学会員に、教学と信心の熱烈な奔流を注いできたのである。
 そして、今、これから挑まなければならない、この五六年(同三十一年)の大闘争を、彼の胸ひとつに秘めての来阪であった。
 伸一が全精魂を傾けていた「大闘争」とは、関西に広宣流布の常勝の大拠点を築き上げることであり、幸福と平和の、崩れざる民衆城を打ち立てることであった。
 そして、そのためには、まず、関西の中心となる大阪を、東京に匹敵する強大な組織に仕上げることが、不可欠であった。
 しかし、当時、東京は、九万余世帯の陣容があったのに対し、大阪は、三万余世帯にすぎなかった。
 だが、それは、戸田が、生涯の誓願とした七十五万世帯達成への、全国構想を完成させるためにも、学会の崩れざる未来の基盤とするためにも、断じて成し遂げねばならない一大目標であったのである。
 関西本部の玄関に出迎えていた数人の幹部と、山本伸一は、館内をくまなく一巡し始めた。
 廊下は狭く、天井は低く、建て増しに建て増しした建物で、小部屋が意外と多かった。もともと音楽学校の校舎として使用されていただけに、ステージ付きの講堂と、五十数室からなっていたものを、大改築したためである。
 一階には、事務所と百二十畳の大広間、管理者室や車庫などがあった。二階には、小さな会議室が六部屋あり、一般面接や統監事務などの部屋とされ、そのほかに数部屋の和室があった。三階は六十五畳の仏間と会長室のほか、応接室、和室二聞などに改造されていた。このほかに地下室もあった。
2  伸一は、三階の仏間まで来ると、御本尊の前に端座した。そして、待機していた二、三十人の首脳幹部と共に勤行を始めた。緊迫したなかにも、いささかの無理も感じさせない豊かな、朗々たる音調は、厳寒の仏間いっぱいに満ち、たちまち部屋の空気を、すがすがしく一変させた。
 唱和する幹部たちも、思わず姿勢を正し、伸一の深い祈りに、いつか呼吸を合わせていた。もはや寒さも感じなかった。唱題に移るころには、純一な、強い、深い祈りが、ありありと見られたのである。
 勤行を終えた伸一は、瞬間、じっと御本尊から目を離さなかった。そして、次の瞬間、一同の方に向き直ると、感に堪えない烈々とした語調で言った。
 「この御本尊様は、すごい御本尊様です」
 彼は、また目を御本尊に移しながら、一語一語、区切りながら続けた。
 「大法興隆所願成就――まさしく関西に大法が興隆して、一切の願いが成就すると認められている。すごい御本尊様です。これで、今度の関西の戦いは勝った!」
 居並ぶ幹部は、彼の気迫にのまれて、御本尊に、今さらのように目を注いだ。確かに、向かって右に、「大法興隆所願成就」とある。そして左には、「授与之創価学会関西本部安置 願主戸田城聖」とある。
 この時、大阪支部長の春木征一郎は、ふと、東京・信濃町の学会本部の御本尊を思い浮かべた。
 ″向かって右に「大法弘通慈折広宣流布大願成就」、左に「創価学会常住」とお認めである。学会本部常住の御本尊は、未来にわたる広宣流布の大願成就が示されている。関西本部安置の御本尊は、関西における日蓮大聖人の仏法の興隆と、あらゆる願いの成就が示されている。関西の会員にとっては、まことにありがたい御本尊だ。さぁ、御本尊への純一無垢の祈りだ、祈りだ!″
 春木は、そう気づいたものの、それが直ちに、このたびの関西の戦いの勝利につながるとは思えなかった。
 彼は、大阪支部長として、大阪の実情を誰よりもよく知っている。
 ″このまま躍進したとしても、東京に伍する広宣流布の基盤をつくることは、とうてい無理であろう″
 「これで、今度の関西の戦いは勝った!」という、山本伸一の言葉を耳にした時、春木征一郎をはじめとする関西の首脳幹部たちは、電撃に打たれた思いであった。皆、ごくりと唾をのみ込んで、伸一の顔に視線を集中した。
 「皆さんは、安心して戦ってください。戸田会長に代わって、このたびの戦いの指揮は、私が執らせてもらいます!」
 言葉は穏やかであったが、彼の決然たる決意のほどは、彼の顔の表情に、まぶしいまでに表れていた。
 山本伸一が来阪して、勤行の直後、「勝った!」と宣言したことは、この瞬間の、単なる思いつきの決意などでは断じてなかった。この一言が、彼の口から、今日、発せられるまでには、前年の秋以来、それこそ彼の胸のなかで人知れず、一念に億劫の辛労を既に尽くしつつあったのである。
3  この一九五六年(昭和三十一年)の七月には、第四回参議院議員選挙が予定されていた。創価学会のなかで、この選挙が検討課題となったのは、前年四月三十日の統一地方選挙が、大勝利で終わった直後であった。以来、幾たびか戸田城聖のもとで、学会として、どう臨むかについて、検討が重ねられてきたが、なかなか最後の決定をみなかった。
 全国区三人、地方区二人を候補者として推薦し、支援することが内定したのは、十月初旬であった。
 このなかで、大阪地方区の支援活動の責任者には、山本伸一が、戸田から指名された。候補者は、春木征一郎との内定である。
 春木は、関西の地で、プロ野球の名選手の一人として活躍しつつ、創価学会の活動を始め、やがて信心に全力投球し、関西の広宣流布の基盤を築いた。
 その春木が、候補者に内定したことは、妥当な人選といえたが、支援する学会の組織は、いまだ脆弱であった。まだ学会世帯が、約三万では、選挙の勝利は、とうてい望めそうにはなかった。当選ラインは、二十万票以上といわれていた。無謀というほかない。
 全国区の三人には、それぞれ十万前後の世帯数を割り当てることができる。東京の地方区も、九万を超える東京都在住の学会世帯がある。しかも信心経歴の長い、歴戦の幹部がそろっている。大阪地方区だけが、戦わずして、既に、はなはだしい劣勢に置かれていた。三万ほどの世帯は、いずれも入会の日なお浅く、幹部の育成も、やっと始まったばかりのところだった。
 戸田城聖の目には、当時の大阪の厳しい実態が、はっきりと映っていた。それを知りつつ、なおあえて断行し、その大阪の支援活動を山本伸一に託したのである。
 もしも、山本伸一の存在が、戸田の胸のなかで、年月とともに大きくなっていなかったとしたら、彼は、この指名を口にすることさえなかったであろう。
 彼はこの支援活動の指揮を、どうしても山本伸一に執らせたかった。掌中の珠である伸一に、あえて未来への開拓の苦難の道を進ませ、その健気なる勇姿と、地涌の底力とを、彼の没後のために確かめておきたかったのである。戸田は、広宣流布の高遠な未来の一切を、山本伸一という二十八歳の青年にかけていた。
 山本伸一は、ここ十年近い歳月、戸田の内意に応えなかったことは、ただの一度もなかった。戸田と共に、一九五〇年(昭和二十五年)から五一年(同二十六年)の、苦闘と苦難の極点に達したさなかにあっても、伸一は、身をもって応えた。彼は、これまで、無理難題と思える数々の要望のすべてに、多くの障害を排除する先兵となって、血路を開いてきた。
 関西での戦いに対する、戸田の期待にも、伸一は、ためらうことなく即座に応じた。
 しかし、遠大な目標と現実との間には、あまりにも懸隔がありすぎることに、気づかざるを得なかった。

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