Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

実証  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  一九五五年(昭和三十年)八月の、激しい全国的な折伏旋風の成果は、わずか一カ月で、現有世帯数の実に一三パーセントを超えていた。この上げ潮は、渦中にあった学会員に、鮮烈な自覚と自信とを与えた。自発的な折伏意欲は、一人ひとりの信心の様相を変え、その息吹が、日常のあらゆる学会活動にみなぎり始めたのである。
 九月十一日の日曜は、台風襲来の時季とされる「二百二十日」にあたっていたが、からりとした秋晴れの空であった。この日、「若人の祭典」が青年部の主催で、東京・世田谷区の日大グラウンドで華々しく催された。前年の祭典よりも、はるかに盛大で、青年たちは、はつらつと、さまざまな競技に闘魂を遺憾なく発揮した。
 戸田城聖は、双眼鏡を目に当てながら、一人ひとりの青年たちの表情を追った。彼らの表情のなかに、学会魂ともいうべき青年の熱と力とが、ようやく兆し始めたことを認めて、なんともいえぬ笑顔で見守っていた。そして、これら愛すべき青年たちの二十年、三十年先の姿が、彼の脳裏には、しきりに去来していた。
 かくも多くの、見事な青年が出現したことは、七百年来、かつてなかったことである。大聖人が、「時を待つ可きのみ」と言われた、その「時」が、まさしく彼の眼前に迫りつつあった。
 ″恩師・牧口先生に、ひと目、お見せすることができたら、どんなに、この光景を喜ばれたことだろう……″
 その思いが、ふと戸田の頭をかすめた時、棒倒しの勝負のついたグラウンドの喚声を耳にして、彼は、われに返った。そして、首都圏の青年たちばかりでなく、各地の青年たちにも、このような「若人の祭典」を開催する機会を与えるようにしなくてはならぬと、側にいた首脳幹部に話しかけた。
 「まず関西だな。早い機会に関西で、できないだろうか。春木は、いないか」
 大阪支部長の春木が呼ばれた。
 「春木君、関西でもやろうじゃないか。どうだ?」
 春木は、「はあ」と答えたものの、口ごもった。
 「関西の青年のために、支部長ともなれば、祭典を見て、そのぐらいのことは、すぐ考えつかなければならんのだよ。頭の回転が遅いな」
 「はい、考えております。来春には、先生をお迎えして、大阪の球場で大結集をしたいと考えていました。しかし、祭典までは、考えませんでしたが……」
 春木の正直さに、戸田は朗らかに笑った。
 「相変わらずだな、春木君は。なんでも伸一に相談しなさい。そうしないと、祭典ひとつ、うまくいかないからな。これからの関西は、大きな、しっかりした構想がなければ後れを取るよ。しっかりしなさい。大結集も結構、祭典も結構じゃないか」
 戸田の全国構想のなかで、関西は一大拠点であった。この拠点の急速な構築が、このころには、既に彼の頭から離れなくなっていた。彼にとって、青年部の競技大会ひとつにも、布石の構想が湧いたのである。
 青年たちは、この日一日の解放感に浸りながら、ただ、もう日常の苦渋を忘れて、歓喜の声を秋空にあげていた。
 九月十八日には、築地支部第四回総会が、同二十四日には小岩支部第二回総会が、いずれも戸田の出席のもとに、東京・神田駿河台の中央大学講堂で開催された。
 このうち小岩支部の総会では、戸田は、地涌の菩薩としての本源的な自覚を参加者に促した。
 「広宣流布の時には、四菩薩をはじめとして、その他の菩薩が出られることになっております。また、もったいなくも日目上人様をはじめとして、大田金吾殿、四条金吾殿など、大聖人御在世当時に活躍した方々が、今度の広宣流布に遅れることなく、全部、出ておいでになることと、絶対に信じて疑わぬものであります。
 もし出てこなければ、大聖人とのお約束を破ったことになり、申し訳ないことになります。阿仏房や千日尼にせよ、みな、皆さんのなかに必ずおられる。今は頼りないような顔をしているが、これは仮の姿であって、四条金吾殿も、あなた方のなかにおられるんですよ。大聖人様の眷属が集まって広宣流布ができなかったら、なんのかんばせあって、霊鷲山にまみえん。地涌の菩薩の皆さん、やろうじゃないか!」
 戸田は、日蓮大聖人の御在世当時、幾多の法難を乗り越え、令法久住、妙法流布の大法戦に、その名を残す弟子門下の名を次々とあげた。そして、それらの人びとが、今、広宣流布の「時」に、それぞれの使命を果たすべく、生まれ、集い来っているのだと語った。
 彼は、今、ここに集い合った一人ひとりが、広宣流布の尊き使命を担い立つ、久遠からの深き縁に結ばれた、誉れある地涌の勇者であることを、確認しておきたかったのである。
 彼自らが、地涌の菩薩の使命に立った、師子吼であった。照明は、紅潮した彼の頬を、まぶしく照らした。
 このころ、学会の急速な拡大にともない、入信の儀式を行うために、数カ所の地方寺院の建設や、登山会のために、総本山の宿坊の増設が急務となっていた。
 また、地方拠点の会館も考えなければならなかった。なかでも、関西に一大拠点をつくるためには、関西本部となる会館を、大阪に設置しなければならない。そのためには、資金が必要であった。
 九月三十日、九月度本部幹部会の席上、小西理事長は、これら建設募金の件を諮って、参加者の賛成を得ると、必要な募金額を発表した。一世帯平均二百円の割である。全員の賛同の拍手で決定された。
 戸田は、これだけの建設資金が、全会員の総意によって調えられるようになった現在、ここ十年の、彼一人の苦闘を思い返さずにはいられなかった。
 彼は、最後に壇上から呼びかけた。
 「日蓮正宗は、ほとんど滅びかけていた。地方の寺院は、どこへ行っても破れ畳であり、総本山は農地改革によって、今までの年一千俵の小作米が入つてこなくなり、まさに窮之の極にあったのであります。
 学会もまた、同じでありました。私は、その罪は戸田にありと感じ、まず、日蓮正宗を興隆しなければならないと努めてまいりました」
 ここで戸田が、「その罪は戸田にあり」としたのは、広宣流布の一切は、自分の責任であると、受け止めていたからである。それが、彼の生涯を貫く一大使命感であった。
 この使命の自覚は、獄中での悟達に由来することはもちろんだが、悟達から、そのまま、苦難の実践活動に直進できるかどうかは、別の次元の問題である。
 つまり、人は、なんでも思うことはできる。次から次へと思うことによって、使命感の陶酔で終わる人の、いかに多いかを見れば、戸田の十年にわたる実践活動こそ、一人の人間における、偉大なる人間革命であったといわなければならない。当時、この地球上には、広宣流布のすべてを担い立ち、その停滞を自分の責任と考える人は、戸田以外に一人もいなかった。悟達は、そのまま実践であった。ここに、戸田の示した人間革命の道があり、優れた偉大な独創性の淵源があったのである。
 「幸いにも、皆さんのご協力を得まして、奉安殿ができ、宿坊ができ、地方に寺院が建ち、今や、日蓮正宗は日の出の勢いになってまいりました。これは、皆さんの信心より出たものと、厚く御礼を申し上げます」
 彼は、あくまでも謙虚であった。
 九月、二万九百八世帯の本尊流布を達成した幹部たちは、戸田の言葉に、戦後十年にして、日蓮大聖人の仏法が、いよいよ観念ではなく、現実に人類社会を救い得る存在として、創価学会という姿をもって現出したことを悟った。
 参加者は、その姿が、月々に色濃く、またどこまでも巨大になっていくにちがいないとの、抑えようもない確信をいだいて、豊島公会堂から、それぞれ散っていった。
2  その翌日の、十月一日のことである。ラジオの電波は、新潟市の大火を早朝から報道し始めた。しかも、なお延焼中で、火勢は台風二十二号の強風にあおられて、衰える気配もないというのである。
 新潟といえば、戸田が、つい二カ月前の八月に、地区総会のために初めて赴いたところである。戸田は、新潟の会員の世帯数を調べさせた。新潟県では約二千世帯、そのうち約千世帯が、市内に在住する会員であることが判明した。全市に散在する千世帯、それが大火の炎にさらされている。当然、罹災者も相当数に達するものと思われた。電話は途絶していて通じない。情報を待っているしかない。戸田は、先々月、初めて会った新潟の学会員たちの純朴な面影を、しきりと思い浮かべながら、ともかく一人の怪我人もないことを心に祈っていた。
 新潟地区は、向島支部の所属である。支部の幹部数人は、本部と連絡してから、急速、新潟に向かった。一方、正午近くに、新潟地区から第一報が本部に入った。
 ――鎮火したが、今のところ、学会員の罹災者は皆無らしい、というのである。信じられぬことであった。県警察本部の発表では、焼失家屋は千戸を超しているという。
 夜に入って、支部の幹部も現地に到着し、詳細な報告が、次々と本部にもたらされた。
 この大火による焼失戸数は九百七十二戸、罹災者は五千九百一人に上った。当時、新潟市の総世帯数は、五万五千五百二世帯、人口は二十六万五千七百十九人であった。約二パーセントの被害であるが、焼失区域は市の中枢部である繁華街の七万八千坪(約二六ヘクタール)である。市民にとっては、一大事件であり、衝撃は大きかった。
 一日夜、全市は停電している。古町通九番町の長部地区部長宅に、闇夜の焦げ臭い市街を探りながら、地区員が、一人、二人と集まってきた。やがて、地区部長の家は人であふれた。地区部長は、この日、総本山に登山していて留守であったが、各方面から集まった人びとの話を集計してみると、信じられない結果が出た。
 ロウソクに照らされた一同の顔は、瞬間、「あっ」と驚きの表情のまま、硬く息をのんでしまった。
 各班から届いた報告を総合してみると、市の目抜き通りは全滅といってよかったが、その周辺の学会員たちの密集地帯は、全く火災を免れていると判明したのだ。
 純真な信心を貫いて戦っていた地区員に、被害はほとんどなかったのである。
 多くの人は、地区講義で知った法華経の一節を思い出していた。
 「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず
 今さらながら、しみじみと、この経文をかみしめるのであった。
 こもごもに語る地区員の、尽きぬ話で判明したことは、学会員の家の多くは、広い延焼地域の外周にあったということである。彼らは、懸命な防火活動もしたが、不思議なことに、類焼するかに思われた時、風向きが変わり、炎は彼らの家を避けていったというのだ。
 炎は、柾谷ま さ や小路から上大川前通を、猛烈な勢いでなめていった。その外周には、学会員の家が点在していた。火炎は、当然、隣接する、これらの家を、のみ込むかに見えた。
 ところが、火は、ここでとどまっている。そして礎町いしずえちょう通の建物に飛び火し、さらに付近のガソリンスタンドに移り、新たな延焼は、川幅の広い信濃川の川岸で、やっと終わったのであった。この間、八時間にわたる大火災となった。
 平均風速二二メートル、瞬間風速三三メートルの強風のなかで、火は、縫うようにして燃え広がっていったが、まことに巧みに、学会員の家々を避けて通ったといわなければならない。
 地区員たちは、無事であったことの喜びもさることながら、あまりの不思議さに、顔を見合わせるばかりであった。この日一日、未明からの不安と恐怖にさらされ続けた人びとは、今、安堵に胸をさすり、悪夢から覚めたものの、なお興奮は静まらなかった。そして、ふつふつと湧き上がる、御本尊への尽きぬ感謝を、どうすることもできなかった。
3  市民が、未明のサイレンを聞いた時、台風二十二号の中心は、日本海を縦断し、佐渡沖を通過しつつあった。雨量は少なく、風が強く、新潟市にも、ほとんど降雨はなかった。前日の三十日の午前十時三十分には、火災警報が既に発令されている。火災発生時の一日午前三時の気象状況は、風速二〇・二メートル、気温二四・八度、風向西南西、天候曇りで、新潟地方は異常乾燥をともなうフェーン現象を呈していた。最悪の気象状況である。
 湿った空気が山岳に激しく吹きつけると、空気(風)は昇るにつれて冷え、湿り気は凝集して氷や水の雫となる。そして、水分をなくした空気は、山岳の尾根を越えて平野へ吹き降りる時、加圧されるにつれて温度が上昇する。これがフェーン現象である。
 台風が日本海を通る時、高気圧のある太平洋側からの風が吹き、中部山岳地帯を挟んで、決まって起こる現象である。この時、太平洋側よりも、日本海側の方が一〇度近く温度が高くなるのが普通であった。
 ちょうど新潟の大火の時は、瞬間風速三三メートルの暴風のほかに、乾燥した暖かい風が吹きつけていたわけである。火災に関しても最悪の状態に陥っていたといわなければならない。
 このフェーン現象のために、新潟市は、しばしば大火災に見舞われてきた。古い記録を見ると、一九〇八年(明治四十一年)三月八日には、古町通八番町で発火し、千二百戸が焼失。さらにこの年には、九月四日、古町通四番町から出火して、二千百余戸が焼失している。さらに湖ると、一八八〇年(同十三年)八月七日、上大川前通六番町から出火した火は、県庁、警察署をはじめとして、六千百余戸を焼き尽くしている。
 とのほかにも、何度か大火はあったが、一九二三年(大正十二年)四月十二日の四百九十戸焼失以来、これほどの大火はなく、戦災も幸い免れてきた。しかし、三十三年目に、今度の大火の災いを受けたのである。
 このような土地柄だけに、市民は火事について用心深かった。眠れないままに、雨戸を激しく叩く風の音に怯えながら、家の中の火元を点検したりして、台風の過ぎ去るのを、じっと待っていたにちがいない。
 サイレンの不気味な響きである。ほとんどの市民は、起き上がって身支度を整え、火元はどこだろうと外に飛び出した。
 風は強い。暗黒の空に上がった火の手から、医学町通一番町の県教育庁が火元であることが、たちまち口づてによって判明した。午前三時を過ぎたところである。
 夜空は、見る見る赤く、明るくなった。隣接するアメリカ文化センターに延焼し、炎は、さらに勢いを増した。消防署員が、ある地域で消火活動に全力をあげていると、強風に乗った火の粉が空高く舞い上がり、どんどん風下の地点に舞い下りて火元となった。飛び飛びに火災を発生させていったのである。消火活動は追いつけない。
 後に調査によって判明したところによると、この夜の、飛び火による二次的な火元とみられる箇所は、実に四十八カ所を数えるのである。
 西南西の強風が、瞬く間に火の粉を各所に撒き散らし、三、四十分後には、火元から六百メートルほど離れた、デパート、市役所、郵便局在どが並ぶ繁華街で、猛烈な火の手をあげていた。
 消防隊は、各所に分散して火炎を追いかけなければならなかった。住民の懸命な火叩きや、バケツリレーで、延焼が食い止められたところもあり、空地でやっと止まったところもあった。しかし、火勢の方向は北東から東に転じ、さらに、東南に転じて燃え広がった。
 地区員のなかには、ラジオで、これら延焼の推移に耳を澄ましていた人もいる。
 ラジオ新潟(RNK)が、火事についての情報を放送し始めたのは、出火直後であった。この夜、ラジオ新潟は、日本海を通過中の台風情報を伝えるために、放送時間を延長しており、火災発生の時は、時間調整のための音楽を流していた。
 この音楽が、突然、中断し、火災発生のニュースが流れたのである。ラジオ新潟は、この第一報の後、午前四時過ぎから、火災の実況放送を行い、刻々と延焼の状況が市民に知らされた。
 ラジオ新潟の本社スタジオは、大和デパートの七階にあった。市街を一望できる屋上にマイクが特設され、実況放送を担当するアナウンサーは、強風で吹き飛ばされないように、体を鉄柵にコードで縛り付けた。瞬間風速は、三三メートルを超えていた。
 「風が、ひとしきり強くなりましたので、マイクが、直接、風を受けまして、ラジオをお聴きの皆さんには、さぞお聴き苦しいところがあると思いますが、実況を続けることにいたします。
 火の手は、ただ今の情報によりますと、鍛冶小路を越したとのことでございます。鍛冶か じ小路から小林デパートに向かって、なお、その魔の手をゆるめないそうでございます。
 新潟日報社の新館には、印刷工場がございますが、そこに、たぶん油瓶もあったと思いますが、その油瓶から発する火でございましょう、特有の色を呈しまして、そして、煙がものすごいのでございます。風が強いために、ここにおります人びとの、目や口、鼻に、煙と火の粉が入りますので、さぞ、この実況もお聴き苦しいところがあろうかと思いますが、ご容赦願います」
 アナウンサーの声が、少し途切れた。
 「火の粉は、ただ今、ずーっと西堀、それから古町側にも飛んでまいりまして、この大和デパートの屋上を、さらに後ろへ越しまして、向こうにもずっと、飛んでいくようでございます。
 お月様は隠れてしまいましたが、火災現場の明るい炎、魔の火の手によりまして、付近一帯は、真昼のような明るさでございます。ちょうど照明弾を打ち上げたようなありさまでございまして、そのために、赤十字社、先ほど申し上げましたように、新潟大学の教育学部、それから営所通一帯が、ここから明るく屋根を、くっきりと浮かび上がらせております」
 捻る風の音と、消防車のサイレンの響きが混じるなかを、沈着なアナウンサーの声は続いた。
 「ただ今、現場からの連絡によりますと、火災現場付近は、消火栓の不足によりまして、消火活動が思うようにできていないような状態でございます。
 どうかラジオをお聴きの皆さんも、お宅の火の元、火災現場だけに気を取られずに、お宅の火の元にも十分ご注意ください。なにしろ、火の手が二カ所に分かれておりますので、消防団の活動も思うにまかせません」
 飛び火により、新たな火の手が上がった。
 「アッ、それから今度は……、十字路の、皆さま、よくご存じと思いますが、四つ角の大和の真向かいにございます北光社から、ただ今、火の手が上がりました。これは大変なことになりそうです。
 県庁側から大和方面に向かって吹いております風、その風によりまして、ずっと火の手が延焼しております。飛び火でございますか! これは北光社! 北光社からただ今、火を出したのでございます」
 消防車のサイレンの音が、慌ただしく響いてくる。
 「結局、そうしますと、県庁前の教育庁の火、それから中通の新潟日報社の火、それからただ今の北光社の火災と、との三つに現場は分かれたようでございます」
 強風によってあおられた火は、新潟市の中心街全域に広がっていったのである。
 「すさまじい火の手でございます。すさまじい火の手でございます! これより申し上げようがございません。と、申し上げておりますうちに、北光社の火の手は、さらに左側に、その火の勢いを転じているようでございます。右、左と、火の手を真っ向に見まして、そこから吹きつけてきます火の粉と煙によりまして、この屋上におります、われわれ、まるで真夏の状態にあるような、熱さでございます」
 猛火は、アナウンサーのいる大和デパートの、交差点を挟んで斜向いにある小林デパートに迫ってきた。
 「北光社だけではございませんで……こんどは……小林の付近からも、発火したようでございます。えっ! 小林から火が出た? 小林デパートから火が出ました!」
 目の前のデパートまで延焼してきたことに驚いたアナウンサーは、早口で実況放送の中止を告げた。
 「では、実況をこの辺で打ち切ることにいたします。危険ですから、この辺で実況を打ち切ります」
 沈着な実況放送が打ち切られてから間もなく、大和デパートにも火が移り、屋上にあったラジオ新潟の本社スタジオも炎につつまれてしまった。

1
1