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日蓮大聖人・池田大作

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上げ潮  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  「言うまでもなく、われわれの大願とする広宣流布は、天皇の帰依などによる広宣流布ではありません。民衆の一人ひとりであるわれわれが正法に帰依し、ひとたび仏の真の弟子としての自覚に立ってみる時、道行く人びとも、わが家の周囲の人びとも、暗い苦悩の人生を引きずりながら、あるいは生活苦に、あるいは業病に悩みつつあることを知るのであります。
 しかも、苦難に沈んだ人びとを救いきるには、現在の政治の力も、文化の力も、全く処置なしの状態であります。
 このような民衆の苦悩を救う道は、根本において、民衆自身が正法に帰依するほかにないことを、われわれは声を大にして叫びつつ、民衆帰依の広宣流布の大願に遁進しているのであります。
 戸田城聖先生の広宣流布への大構想は、かかる民衆救済の大慈悲に立つ思想を基として、構築されていることを知らねばなりません。
 はからずも、この大闘争に参加し得た私どもの歓喜の行動は、そのまま菩薩の行となり、わが身を人間革命し、同時に悩める民衆を救済できる、広宣流布の大道をつくることになるのであります。
 私たちは、この大道を迷うことなく、邁進のうえにさらに躍進しようではありませんか」
 指導部長の清原かつは、よく通る声でこう叫んで、両国の国技館に集った参加者に呼びかけた。場内は、一階から四階まで、どこもかしこも、ぎっしりと人で埋まっていた。
 一九五五年(昭和三十年)五月三日、この日、晴れの第十二回創価学会本部総会が開催されていたのである。
 全国から集った会員は、午後零時半開会というのに、早朝から詰めかけ、場内は、たちまち満員となった。場外にも人があふれ、拡声器から流れる声に、じっと耳を傾けていた。
 青年部員は、場内よりも、場外の整理に汗を流した。開会間近になっても、両国駅から国技館にかけての道路を、陸続と人の流れが続いていたからである。整理班の青年たちは、声をからし、駅でも道路でも、既に入場の余地のないことを告げ、この場から即座に引き返すことを懇願するより仕方がなかった。
 この日、無念の思いで、帰らなければならなかった会員も多かった。辛い思いで説得に懸命であったのは、整理班の青年たちである。
2  清原かつが、広宣流布は、民衆の帰依が根本であると語ったのは、創価学会の運動が、間違いないものであることを、今、明確に確認する必要があったからである。
 ――一九二八年(昭和三年)、初代会長・牧口常三郎は、三谷素啓との出会いを契機に日蓮大聖人の仏法に帰依した。同じころ、やはり三谷の紹介で藤本秀之助という人物も入信した。牧口も、藤本も、熱烈な信仰者となったが、広宣流布の方法論に関しては、二人は全く反対の道を進んだ。
 牧口は、仏の前にあっては、すべての人間は平等であり、差別も特権もないことを、大聖人の仏法によって知った。そこで、苦悩にあえぐ民衆こそ、どんなに時間と手間がかかろうとも、辛抱強く、一人ひとり救っていかなければならないことを、広宣流布の基本信条としたのである。
 藤本秀之助も、広宣流布を考え、折伏を展開したが、社会の仕組みから、上層の指導者層を先に折伏し、その権威の影響力で全社会への流布を志したのである。そのため、天皇の権威というものも、世法上、はなはだ有効な手段と考え、その路線をつくることに懸命であった。
 民衆の力による下からの広宣流布を進めようとした牧口とは、出発点において全く相反していたのである。
 やがて、牧口は創価教育学会を創立し、藤本は弾正会を創立した。そして、藤本も戦時中の無謀極まる軍部政府の弾圧を呼び、牧口と同じく獄死したのである。
 出獄した戸田城聖は、戦後の焼け野原のなかで、恩師・牧口常三郎の広宣流布の路線を、あくまでも継承し、熾烈な戦いを、苦悩の民衆の真っただ中に展開し、十年にして二十万世帯近くの会員を擁する、はつらつたる教団に成長させたのである。
 一方、藤本秀之助を失った弾正会は、戦後、ほとんど発展らしい足跡もなく、小さな信徒組織に終わってしまった。戦後の社会における民主主義運動のなかで、社会の指導者層を対象にした、上からの広宣流布というものの限界が、露呈されてしまったのである。
 日蓮大聖人の仏法が、民衆による、民衆のための仏法であることが、今や事実のうえから明らかになった。民衆を離れて大聖人の仏法はなく、民衆のなかにこそ、生き生きと脈動し続けることを、清原かつは、あらためて指摘したのである。
3  彼女は、続けて、総会を期して二項目の活動方針を発表していった。
 「全会員の皆さん、ただ今から、一人残らず、組織の部署に就こうではありませんか。
 一、昭和三十年(一九五五年)末までに、三十万世帯の達成をめざし、大折伏戦を展開しよう。一カ月、最低一万五千世帯を目標とする。
 一、各支部企画による座談会を充実させるとともに、東京にあっては、本部企画による各区別ブロック座談会の運営に努力し、折伏と指導の徹底を図る」
 月一万五千世帯の折伏というのは、現有勢力の一割近くにあたる数である。かなりの強行方針と思われたが、二カ月前の三月には小樽問答を大勝利で決着させ、引き続いて四月の統一地方選挙では、五十三人の文化部員を、都・市・区議会議員に一挙当選させ、わずか一人の落選という大成功は、いやがうえにも全会員の意気を燃え上がらせていた。勢いの赴くところ、拡大の機運が十分にみなぎっていたのである。
 戸田は、この機を早くも「上げ潮」ととらえた。目標を示しさえすれば、本年末の三十万世帯の達成は、まず間違いないものと思われた。一九五一年(昭和二十六年)五月、三千人余の署名によって会長に就任以来、わずか四年にして、このような上昇機運になったことを、何よりの喜びとした。彼の生涯の目標、七十五万世帯は、あと数年にして達成する見通しさえついたのである。それだけに、今後は、全く瞬時の油断も許されぬと、彼は一人、覚悟を新たにしなければならなかった。
 第二のブロック組織の運営は、急速な会員の増大によって、緊急の必要処置となっていた。当時、全国で十六支部の組織であったが、各支部の組織は、それぞれ全国各地に伸びて、幾つもの支部の組織が、同じ地域で重なり合っていた。
 統監部は、それら地方における各支部の拠点の大小と、指導力の強弱を検討した。そして、一人も漏らさず、各地域の会員の信心の向上を図ることを、緊急事項として提議した。
 それまで学会組織は、入会した会員の居住地がどこであれ、紹介者と同じ組織に所属することになっていた。この、いわゆるタテ線の支部組織は、会員の増大につれて幾多の不都合を生じていた。たとえば、一軒のアパートなどで、支部を異にする幾つもの世帯が住んでいるような場合、所属支部からの連絡通達の遅速や指導の巧拙によって、思わぬ混乱をきたすことも多くなっていた。
 また、地域の会員が、固まって同じ支部に属する場合はよかったが、そのなかで、ぽつんと一世帯だけ別の支部に所属するケースもあった。そして、その会員だけが、何カ月も指導に触れることもなく、放置されてしまうこともあった。
 これらタテ線の支部組織の問題点は、今後の組織の急速な拡大を予測する時、収拾のつかない事態を招きかねなかった。そこで必然的に、地域ごとのヨコの組織の確立が急務となった。同じ地域に住む全学会員が、足並みをそろえて邁進し、一世帯といえども落後させないために、まず会員が密集している東京から、ヨコ線のブロック組織確立に着手した。月のうち数日をフロック活動の期間として、隣近所の会員が、仲よく顔を合わせるブロック座談会と、地区講義に代わるブロック講義の開催を始めたのである。
 清原かつが、一九五五年(昭和三十年)度の二大方針を発表すると、賛成の激しい拍手が、大鉄傘の下にこだまして、しばし鳴りやまなかった。

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