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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

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1  小樽問答は、当然のこことはいえ、見事な勝利で終わったが、戸田城聖にとっては、一つの突発した事件でしかなかった。
 このような事件が、北海道の一つの班で起こり、それが、見る見る拡大したことは、意外であった。
 当時、全国の各地で起きていた、他宗との数々の論争は、日常的なことになっていた。にもかかわらず、小樽での激突だけが、短日月のうちに、拡大して、広宣流布の歴史に残るような出来事にまでなるとは、予想だにもしなかった。
 戸田は、この突発事件に素早く対応して、適切な方策を立て、周到な用意のもとに、完壁な勝利を収めたものの、小樽問答が終わってみると、台風一過の感慨しか残らなかった。
 彼の孤独な思索には、前年の秋ごろから、彼をとらえて離さぬ大きな構想があったのである。その構想は、彼の頭のなかで、重苦しいまでに膠着して、深く根を張り、いつか新鮮な芽となって萌え始めていた。
 この構想とは、広宣流布の伸展にともなう段階において、いつかは展開しなければならない新しい展望への実践であった。彼は、この実践を、今、踏み切るべきか、それとも先に延ばすかという決断に、自ら迫られていた。
 ″時は、来ている″彼は、ある時、決然と思った。
 ″いや、時期尚早だ、まだ十八万世帯にすぎぬではないか。慎重を期すべきだ……″戸田城聖は、深い思いに沈んだ。
 彼は、原山統監部長に命じて、全国の学会員の詳細な分布図を作成させた。東京都を中心とした関東地方が、最も色濃く染められていた。それから東北地方の仙台と秋田、北海道の函館、関西の堺、九州の八女などが、比較的に学会員の密集地帯であることが判然とした。
 それから彼は、前回の全国統一地方選挙の詳細なデータを取り寄せて、統監部の手によって全国学会員の分布表と照合させてみた。概略の照合ではあったが、全国数十カ所にわたって丸印がついた。丸印というのは、その地域で、もしも、学会員のなかで適当な人物が地方選挙に立候補し、その人物のために、その地域の学会員が応援したとしたら、当選圏に入る可能性を含む箇所のことであった。このような地域が、いつかできていたのである。状況はまさに、彼に決断を、ひそかに迫っているといってよかった。
 広宣流布は、創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。御本尊を受持して信心に励んだ人は、まず、人間として自己自身を革命することは当然のことだ。革命された個人は、自己の宿命をも変え、家庭をも革新する。このような個々人の集団というものは、地域社会にも、一つの根本的な変革をもたらすはずである。いや、地域社会ばかりではない。それらの個々人は、あらゆる社会分野に英知の光を放ち、変革の発芽をもたらしていくであろう。
 政治の分野でも、経済活動の分野でも、生産活動の部門でも、教育や文化や、科学、哲学の分野でも、自らの生命を革命した、わが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮した蘇生の力となるにちがいない。それは、社会に大きな波動を与え、やがては新世紀への斬新な潮流となって、来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時が来よう。
 これが妙法の広宣流布の活動というものだと、彼は心に期していた。
 戸田城聖は、しばしば、このような展望を、率直に人びとに語ったが、聞く人は、それを、ただ夢のように聞いていた。
 だが、彼が会長に就任して、本格的な広宣流布の活動を始めてから、わずか四年にして、彼の展望の若芽が、既に萌え始めていたのである。
 そこで戸田は、まず、一九五四年(昭和二十九年)の十一月二十二日、文化部の設置を発表し、鈴本実を文化部長に任命した。部長一人の文化部にすぎなかったが、戸田は、さまざまなデータを検討し、構想を練った。そして、その構想の若芽を放置して枯らすことなく、育ててみようと、彼は決意したのである。
 厳密な調査が進むと、創価学会員の全国分布図の上に、丸印は四十カ所余りにも達した。意外な数である。
 戸田は、分布図に目を凝らしながら太い息を吐いて、にっこり笑って鈴本実に言った。
 「ほう、こんなにあったか。あとは人の問題だな。私利私欲に目もくれない高潔な人材がいればいいわけだ。人選の方は、見当がついているか?」
 「いや、それが大変です。なかには政治的な経歴をもった人もおりますが、下手に野心的に動く人では困りますし、そうかといって、ただ信心が強盛なだけでは、どうにもなりません。人選は非常に困難な状態です。どこに基準を置いたらよいのか、先生、それに迷ってしまいます」
 新文化部長の鈴本は、思いあまったように顔を曇らせて、内心の弱音を吐露してしまった。
 そして、鈴本は、戸田の前に出ると、いつも思わず本当のことを言わずにいられない自分を不思議に思った。
 ″活躍の場はある。しかし、人がいない。文化部の前途は、まことに暗澹たるものだ″
 鈴本は、途方に暮れていたのである。
 戸田は、色の黒い彼が、目の縁に隈をつくり、青年らしさを失い、老い込んだように悄然としてしまっているのを見ていると、からからと笑いだした。
 「新しい仕事というものは、いつも難産だよ。だいいち、君を文化部長に任命することだって、なかなかの難産だった。人は誰でも、いい面もあるし、悪い面もある。その一面だけを取り上げて考えても、なかなか人選は進まないだろう。君を文化部長にしたのも、何人かの候補者のなかで、『この人より、こっちの人の方がいい』『いや、この人こそ適任ではないか』と比較検討を繰り返しているうちに、落ち着くところに落ち着いたわけだ。
 人選の作業は、厳正な比較対照にカギがある。私心や感情を去って、あくまでも目的に適った候補者は誰だろうと考える時、幾人もの候補者を比較しているうちに、やがて適任者が浮かび上がってくる。
 ある地域で大勢の学会員ができた時、そのなかに、中心者となり得る人ができていないはずはない。
 広宣流布は、どこまでいっても、結局は御本尊様の仕事です。自分たちがやっていると思うのは、一種の傲慢です。御本尊様の仕事なら、へマをするはずはない。その時、その段階で、中心者となり得る人はいるんです。悲しいかな、われわれ凡夫の目には、それが見えないだけだ。いつ、いかなる場合も、透徹した信心が要請されるわけだ。それで、われわれの凡眼も、仏眼の一部となることができる。
 ほかの世界ならともかく、わが学会のなかで人選の困難に逢着するのは、こちらの目玉に問題があるんだよ。
 御本尊様は、適任者となり得る人を、必ずつくってくださっているはずだ。よくよく透徹した目で、もう一度、よく見てごらん」
 鈴本実は、諄々と語る戸田の話に、自らの信心のいたらなさが、はっきりと思い当たった。彼は、返す言葉もなく、深い感動につつまれて、無言のまま戸田の顔を見つめていた。
 「わかったか!」
 戸田の言葉に、鈴本は、初めて我に返った。
 「わかりました。よくわかりました。ありがとうございました」
 「しっかりするんだぞ。君たちの戦いが、広宣流布の勝負を決する時が、いずれ来る。重い仕事だ。今、いよいよ新しい展開が始まったんだよ。
 まだ、世間の誰も気づいていないし、学会の幹部だって、この新展開をなかなか理解はしないだろう。適任者を探すよりも、この方が困難といえば困難なことなのだ。ともかく、各地域から文化部員を選定して、彼らを急速に育でなければならない。大小さまざまなことについて、なんでも私に相談しなさい。独断で動いてはならん!」
 戸田の叱時と激励は、いつもながら、鈴本実を奮い立たせた。戸田は、まず、文化部長を育てることから始めなければならなかった。
 鈴本実が、その夜から、真剣な唱題に取り組んだことは言うまでもない。そして、各支部の首脳と討議し、各地域に飛んで実態をつかむことに専念した。
 事は急を要した。四月に入れば、統一地方選挙が始まる。鈴本は、戸田の細かい指示を受けながら動いて、一月下旬になって、やっと成案を得た。
 全国の拠点のなかで、会員世帯の多い三十八の地域が選ばれた。東京都がさすがに多く二十一地域、関東地方が十一、東北三、北海道一、関西一、九州一の地域となった。各地域における人選も徐々に固まり、五十四人の文化部員の任命が、二月九日夜、本部二階広間で行われた。これらの文化部員のなかには、理事長の小西武雄や、鶴見支部長で、財務部長を兼任している森川幸二などの、古くからの幹部が含まれていたが、大多数は、地区部長や班長のなかから選抜されていた。
 新たな展開である。戸田城聖は、まだ力は未知数の、五十四人の文化部員を前にして、その出立を激励した。言葉は短かったが、彼の万感が込められていた。
 「真実の仏法を実践する人は、その資質を生かし、必然的に、社会にその翼を伸ばすことになる。いよいよ時が来たんです。諸君は、妙法を胸に抱き締めた文化部員であることを、いつ、いかなるところにあっても、忘れてはなりません。民衆のなかに生き、民衆のために戦い、民衆のなかに死んでいってほしいと私は願う。
 名聞名利を捨て去った真の政治家の出現を、現代の民衆は渇望しているんだ。諸君こそ、やがて、この要望に応え得る人材だと、私は諸君を信頼している。立派に戦いなさい。私は、何があっても応援しよう。今後、どうなろうとも、わが学会の文化部員として、生涯、誇らかに生き抜いていきなさい。ともかく、われわれの期待を断じて裏切るな!」
 新しい分野に巣立つ五十四人の新部員は、緊張した面持ちで戸田の言葉を聞いていた。それは、激励とも思われたが、また、新しい門出への惜別の言葉とも響いた。彼らは、二カ月先に迫る初陣を思い、不安と焦慮のなかにあった。しかし、戸田が、これまで厳愛をもって自分たちを育んでくれたのは、「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」であったことを、しみじみと悟るのであった。彼らは、断じて戸田の期待に応えようと、拳を握り締めて心に誓ったのである。そして、勇んで厳冬の街に出ていった。
 それから一カ月過ぎた三月八日、文化部員十三人の追加任命があった。これは、現職の教育者や、経済人で、長年にわたって、戸田の膝下で薫陶を受けてきた幹部たちであった。
 理事で杉並支部長の清原かつ、青年部長の関久男は、小学校教諭であった。中野支部長の神田丈治と男子部長の山際洋は、大学の教員であった。また、理事の春木洋次は、ある会社の常務取締役、文京支部長の田岡金一、築地支部長の大馬勝三、本郷支部長の佐木一信は、それぞれ自家営業の店主であり、支部長待遇の板見弘次、山川芳人、佐川久作らは、工場の経営者であった。
 第二次の文化部員の任命は、教育界や経済界に対する、戸田城聖の最初の布石といってよかった。
 もともと広宣流布の活動は、宗教革命を基本として、それによって、広く人類社会に貢献する活動である。日蓮大聖人の仏法が、行き詰まった現実の社会を見事に蘇生させることを目的とする以上、この宗教活動が、いつか社会化していくことは必然の道程であった。社会の各分野で活躍する人材を輩出していくという戸田城聖の構想は、水滸会や身近にいる幹部との会話で、しばしば語られていたが、政治改革は、未聞の活動領域であっただけに、現実の問題として認識する人は、ほとんどいなかったといってよい。戸田の壮大な構想を耳にしても、心地よいユートピアの夢物語として、歓喜するにすぎなかった。
 そのなかで、師弟不二の道程を着々と歩んできていた山本伸一だけが、戸田の予言的展望を脳裏に刻んで、秘められた理想を現実化するための、うかがい知れぬ多くの辛労を、戸田と共に分かち合っていたのである。構想が未開であっただけに、辛労の質もまた未開であった。
 文化部の活動に踏み出した、この最初の一歩は、まさに歴史的にも、画期的な第一歩であったといってよい。
 この新しい展開に示された戸田の構想は、最初から人類の文化活動全般に向けられていた。それは、人間の幸福の実現をめざす日蓮大聖人の仏法の実践展開として、必然的なことであった。したがって、文化部の活動は、政治の分野に限られるものではない。もっと広範な社会的分野における活動が、意図されていたのである。
 創価学会の存在を際立たせているものは、日蓮大聖人の仏法の唯一の正統派として、広宣流布を掲げ、立正安国をめざす実践活動に尽きるのである。この実践活動は即、一人の人間に人間革命をもたらす実践でもあった。
 自らの生命を革命したといっても、社会に生きる一社会人であることには変わりはない。その一人ひとりが、社会建設の新しい力を発揮していくはずである。そして、この慈悲の哲理を掲げた運動の波動は波動を呼び、やがて社会のあらゆる分野を潤していくことになるのも確かなことだ。
 いかにそれが、遠い道のりに思われようと、他に確実な方途がない以上、確信のあるこの道を、真っしぐらに進むよりほかに使命の完遂はない。
 戸田城聖は、広宣流布のはるかなる道程をつぶさに思いつつ、文化部の手塩にかけた要員をもって、社会を覚醒させる第一歩を踏み出したことに、油断のない配慮を、あらためて重ねなければならなかった。
2  一九五五年(昭和三十年)の統一地方選挙は、まず、全国四十六都道府県と五大市の議員選挙の告示が四月三日、投票日が四月二十三日、続いて東京都各区議会と、五大市を除く全国の市議会の選挙が、四月十五日告示、四月三十日投票日と決定していた。
 東京都議会には、大田区から小西武雄が立候補し、横浜市議会には、鶴見区から森川幸二が立候補し、それぞれ無所属で、地域の衆望を担って戦いを開始した。
 この選挙戦に面食らったのは世間ではなく、その地域の学会員たちであった。大多数の人びとは、選挙運動などしたこともなかった。おまけに、選挙といえば暗いイメージがつきまとっていて、買収や供応をしなければ、票などは集まらないものだと、人びとは決め込んでいたのである。
 ことに、これまで多少とも選挙運動に関係したことのある学会員などは、さも「選挙通」のような顔をして、非合法すれすれの術策を得意気に吹聴して、人びとを惑わせた。
 多くの学会員には、選挙運動即法律違反という通念があり、抵抗感をもつ人も少なくなかった。
 ″世間で横行しているような、汚い選挙運動をしなければいけないのだろうか。いや、それは絶対にできない。しかし、この戦いに敗れることも決してできない……″
 初めて経験する選挙運動に直面して、人びとは、さまざまな不安にさいなまれていたのである。
 文化部は、このたびの選挙に際して、公明選挙でいくという方針を、最初から強く標傍していた。買収や供応はもちろんのこと、選挙法に触れる活動は厳禁とし、しかも堂々と勝利することこそ、われわれの選挙に対する根本精神であることを宣言していた。
 慣れない選挙運動にあたって、学会員たちは、立候補した同志を支援する熱意は、まことに旺盛であった。しかし、ちぐはぐな雰囲気のなかで具体的な盛り上がりが、なかなか見られず、地域では当落の評判すら上がらなかった。
 それもそのはずである。候補者は、学会員の間では、かなり知られた顔であったとしても、世間では、全くの無名に等しかった。金もない、地位もない、広宣流布の熱い使命だけを胸に秘めた無名の新人に、他の対立候補者の陣営では、最初から、なんの注意も払わなかった。
 小西武雄、森川幸二のほかに、全国の都道府県議会議員の立候補者のなかで、学会員の支援を受けた候補者が二人いた。一人は東京都足立区で病院長をしていた区議会議員の女性医師で、都議会議員選挙に立った。彼女は、入会後、日なお浅い一組長であった。もう一人は、秋田市在住の市議会議員の経歴をもつ、土木建築業を営んでいた班長で、県議選に立ったのである。二人は、それまでに選挙活動の経験をもっていたが、それが、今度、初めて学会員の支援を受けることになったのである。彼らは、過去に慣れた運動方法に重点を置いた。そのために、全体として中途半端な活動態勢となり、学会員の支援は、十分な効果を発揮することがなく、結果的に、そろって落選の憂き目を見ることになるのである。
 小西、森川を支援する責任者たちは、徹底した公明選挙を標傍し、実践する以上、金は、一切、使わない、選挙事務所の必要経費だけにとどめると公表した。しかし、いわゆる「選挙通」は、それをなかなか受け入れられなかった。未経験の責任者は、まず、味方の陣営のなかにおける意見の分裂と戦わなければならなかった。この不統一による、人びとの不安は、告示になって、いよいよ選挙運動が実際に始まった時、青年部の室長である山本伸一の指摘で、信心の原点を思い出すことによって救われたといってよい。
 社会的名声も、金もない無名の候補者、それを支援する学会員も、また同じように地位も金もない。
 この一団が、多くの有力な対立候補者と味方の候補者を比較した時、彼らが必勝を期すためには、ただ一つ、不可能を可能とする信心しかないことに気づいた。
 山本伸一は訴えた。
 「世間的な通念からすれば、全くの劣勢で、泡沫候補の一人にしか見えないかもしれません。しかし、世間の人びとにはない黄金の信心だけは、日ごろの実践によって確立しているではありませんか。信心こそ唯一、最善、最高の武器です。多くの有力な候補者を敵に回し、戦って勝つためには、この無形の信心しかないではありませんか! 広宣流布をめざし、異体を同心とする者の信心の団結が、必ず一切を勝利に導きます」
 こうした伸一の呼びかけに応じ、学会員は、急速に団結を固くしていったのである。
 小西武雄の選挙事務所は、大田区・蒲田駅近くの線路際にあった。事務所の壁には、戸田が、この年の元旦に発表した和歌、「妙法の広布の旅は遠けれど共に励まし共々に征かなむ」が、墨痕鮮やかに掲げられていた。
 地域の首脳幹部は、ほとんど総出で、事務長には理事の春木洋次があたり、男女青年幹部は、事務の処理や電話の応対、遊説の企画などで多忙を極めていた。年配の会員数人は、看板作りに精を出していた。すべて手弁当である。活気みなぎる事務所は、人びとの幸福の実現という遠い旅路を、確実に歩んでいる姿を呈していた。
 立候補者十九人、定数八人の激戦のなかで、底抜けに明るい事務所は意気軒昂であった。
 告示三日後の四月六日、大田区民会館で行われた個人演説会に、戸田は応援に駆けつけた。無名の小西候補のためか、聴衆の大部分は学会員で占められていたといってよかった。
 戸田は、一般聴衆のために用意してきた演説の内容を、急遽、変更しなければならなかった。彼は、まず、小西の人柄を語り、かわいい子を旅に出すような気持ちであると、心境を語りつつ、今回の政治活動の本義について、次のような文化活動の見解を述べた。
 「文化活動、また当面している政治活動というものは、立正安国の大構想から見るならば、一つの分野の活動にすぎません。そして、今回の戦いは、その展開の第一歩を踏み出したところです。いわば試験管の段階だといってよい。まだまだ幾多の分野で、妙法を開花させていかなければならない戦いが待っているんです。
 今度の戦いでは、みんなにご苦労を願うことになるが、これが立正安国のための本格的な闘争であると思ったら大間違いです。それこそ困る。まだ一分野の第一歩の展開です。
 本当の日本の国の平和と安泰を思う時、政治の分野では衆議院にも参議院にも、真に民衆のために体を張っていく妙法の使徒が、数多く輩出されなければなりません。これは、教育の分野にも、また芸術や科学といった世界にも通ずることです。
 最近、『学会として選挙で応援してくれませんか』と言ってくる世間の人がおります。私は、断じて拒否している。私は、政治のための政治をしているのではありません。あくまでも日本の民衆の福祉のために戦うんです。政治は、そのための一つの手段です。
 だから、その目的を真摯に実現しようとするものであれば、必ずしも、党派には、こだわるものではありません。政治には政党がある。それぞれ民衆に日常生活の幸福を与えようとするための政党でしよう。願わくは、名実ともに、そうであってほしいと思う」
 彼は、この時、さりげなくこのように述べたが、現実の政治が、いかに腐敗堕落しているか、また、政党が党利党略に走って、民衆を党勢拡大の手段としてしか見ていないことを見抜いていた。彼は、こうした政治の現状を直視する時、将来、民衆のために、民衆のなかで死んでいく決意の、清廉な人びとの合意として、あるいは政党を結成する必要もあるかもしれない――という思いを脳裏によぎらせながら、最後に決意の言葉を披瀝した。
 「私の立場は、政治、経済、文化のすべての分野にわたって、それを根本的に変革しようとする次元にあるのです。私は、どこまでも、創価学会の会長として貫いていくだけです」
 戸田は、応援演説に来て、文化部が候補者を立てたのは、政治的野心に基づくものではなく、ひとえに民衆の幸福と、社会の平和、繁栄を願う一念より発したものであることを、言明しなければならなかった。つまり、創価学会が政治化したのではなく、その念願を達成するための一分野の活動にすぎぬというのである。この彼の言明は、この時、多くの聴衆であった当時の学会員からの、深刻にして正鵠を射た理解を得るには遠かったにちがいない。まして、一般世間の人びとにとっては、さらに、なんのことやら、わからなかったであろう。
 民衆の物心両面にわたる幸福について、その責任を自らに課した戸田は、政治の病根を深く洞察していた。彼が、こよなく愛した民衆は、相も変わらず政治の重圧に喘いでいる。それが、まぎれもない現実であった。
 ――私利に走り、党略に没頭して、権力の争奪に専念する政治家たち。そのような政治家の徒党集団と化していく政党。そして政治から置き去りにされ、その犠牲となるのは、常に民衆である。戸田は、民衆の怒りを肌で知っていた。しかし、権力悪の根源を見抜いていた彼は、民衆の怒りを、直接、政治勢力化して行動を起こしたとしても、それだけでは、真の民衆のための政治の実現という根本的な変革からは、程遠いことも承知していた。
 戸田城聖の醒めた心は、彼の半生の結論として、政治の世界に巣くう権力の魔性の存在を、疑うことができなかった。本来、民衆の平和と幸福に奉仕すべき政治が、いつの間にか民衆を苦しめる魔力と化していく――その現実を鋭く見抜いていた彼にとって、政治の根底的な変革とは、魔性との戦いにこそ、その焦点があることは明白であった。
 一つの政治権力が打倒され、新たな別の政治権力が登場しても、その魔性は消滅しないことも、彼は知っていたのである。十九世紀から二十世紀にかけ、世界では、さまざまな政治体制の国々が生まれた。しかし、依然として民衆は、政治権力の魔性から解放されたとは言いがたい。どう政治体制が変わっても、いつしか民衆を苦しめる魔性に支配されていく。その愚かな権力の流転の歴史を、戸田は思わずにはいられなかった。この途方もない愚劣さからの脱出――それこそ、民衆が心底から渇望しているものであろう。それは、もはや政治の次元で解決のつく問題ではないのだ。
 戸田は、早くから、こうした問題の本質を、明らかに洞察していたのである。
 民衆の平和と幸福のためになるのであれば、どんな政治形態であっても差し支えないだろう。彼は、政治形態を批判していたのではない。政治そのものに巣くう魔力が、問題の焦点であった。それは、政治権力を握った者、政治家の内にこそ潜んでいることは理の当然である。魔は、自由主義体制や社会主義体制に潜んでいるのではない。それらを支えている政治家、その人間の内部に巣くう魔の力が、それらの体制をむしばんでいることを、彼は問題の帰結としたのである。
 すべての人間は、十界を具しているとする仏法の真理に照らす時、魔の正体は初めて明らかになる。政治権力の魔性も、人間生命に焦点を合わせた時、発生の根拠を初めて知ることができる。
 世間の人びとは、この事実に全く気づいてはいない。そればかりでなく、仏法の原理をもって迫っても、耳さえ貸そうとしない。そして、今も権力をめぐる争いのなかで、多くの民衆は、いたずらに犠牲となっているだけだ。これ以上の人類の愚行はないはずだ。しかも、愚行の歴史は数千年にわたっている。
 彼は、立正安国の大事業たるゆえんを、思い返した。そして、この大事業の責任の重さと至難さとを、孤独の心に、いやでも自覚し、自らに鞭打っていたのである。
3  戸田の任命した文化部員の中から五十数人が、各地で立候補したが、今のところ、彼らの政治的な実力は、まことに未熟であった。しかし、戸田から受けた薫陶によって、政界の魔力と戦う力を備えているはずである。そうだとしたら、全く新しい政治家の誕生といわなければならない。
 この五十数人は、まだ微々たる存在にすぎないだろう。彼らの行動が、たとえ、どれほど正義感にあふれ、勇敢であったとしても、汚濁にまみれた今の政界の狂乱のなかで、埋没してしまうかもしれない。
 しかし、これら文化部員が、確固たる使命感を堅持していくならば、今後の文化部員の増大と相まって、五年、十年、二十年の先において、どのような勢力を形成するか、それは期して待つべきものがあることは確かである。
 戸田は、今の五十数人の文化部員の初陣が、ほとんど目立たない布石にすぎないことを承知していた。彼は、着実で余裕のある指揮を執ったのである。同志的な団結がありさえすれば、不慣れな戦いも、有利に働くにちがいない。それには、何よりも信心による団結を呼びかけなければならなかった。「信心で勝つ!」――それが戸田の信念であった。
 戸田は憂慮していた。選挙運動が、単なる世間並みの皮相的な活動に終始して上滑りしたら、落選の危険は極めて大きい。彼は、信心を忘れた活動に陥ることを、何よりも恐れた。
 告示から数日過ぎて、彼は、そのため山本伸一を、急速、呼び、大田区の小西武雄と、横浜市の森川幸二の選挙の、最高責任者として指揮を執ることを指示した。
 戸田の意を受けて、山本伸一が小西の選挙事務所へ行ってみると、果たして戸田の憂慮が杷憂でないことがすぐわかった。事務所の空気に、いやなものを感じた。告示から、はや五日を過ぎているのに、沈着な力強さは感じられず、幹部は、いたずらに大言壮語を口にした。明確な目標を立てて、一日一日の戦略を固めているものとも思えなかった。
 見てくれの無駄な動きが多すぎた。大多数の学会員には、選挙だ、選挙だ、という言葉は浸透していたが、では、何をどうするのかという具体的な態勢は、まことに劣弱であった。ただ、われも、われもと、事務所に顔を出すことが、あたかも選挙運動であるかのように思い、手持ち無沙汰であった。事務所は、いつも学会員であふれ、拍手が起こり、はなはだ景気がよかったが、実質的な戦いは足踏みしているといってよかった。
 活動の主力は、遊説隊、ビラ張り、ハガキの宛名書き、対立候補の動きをつかむことなどに注がれて、幹部は、茶を飲みながら、雑談に費やす時間が多すぎた。
 山本伸一は、事務所を後にし、街頭に出た。各所の街頭演説を耳に聞き流しながら、十数人の学会員を激励して歩いた。さすがに小西武雄の立候補は知っていたが、ほとんどの学会員の口からは、支援活動の積極的な話は出ない。家族の票の行方すら、あいまいなのである。彼は、事務所は浮いてしまったと思った。
 ″大事な組織は、今、仮死の状態に陥っているのではないか。同志的団結は、選挙に流されて、なんの力も発揮していない。信心は、いつ、どこで消えてしまったのだろう″
 事務所に帰った伸一は、暗然として多くを語らず、騒然とした人びとの挙動を眺めながら、一人、打開策を練り始めた。彼は、このまま、ずるずると中盤戦に入り、終盤戦を迎えたとしたら、待つものは落選かもしれないと、最悪の事態を考えた。そして、その時の純真な学会員たちの落胆をしきりと思ったが、その夜は、何も言わずに、翌晩の首脳会議を指示しただけで帰った。
 翌日、山本伸一は、学会本部の御本尊の前に端座して、長時間の唱題をした。彼は、不退の勇猛心がたぎるのを覚えた。会長室に行くと戸田は、彼の心境を直覚したにちがいない。心痛の面持ちで、ひとこと伸一に聞いた。
 「どうもおかしいぞ、どうなんだ?」
 「残念ながら、組織が活気を失っております。選挙テクニックに信心が流されてしまった感じです。このままでは、それこそ危険ですので、私も腹を決めました。必ず為すべきことは、ちゃんとしますから、どうか、ご安心なさってください。ご心配かけ、申し訳ありません」
 伸一は、言い訳をしなかった。決意にみなぎるものを認めた戸田は、深く頷いた。
 「わかっているなら、それでいいよ」
 戸田は、すぐさま話題を変えて、先日、取材に来た、雑誌『真相』の内容は、おそらく驚くべき学会誹謗記事になるであろうと語り、今後も、選挙のたびに、このような悪口罵詈が重なるにちがいないと、伸一に教えた。
 「十日には向島支部の総会がある。それをすまして、その日の夜行で大阪へ行かねばならない。しぼらく留守にするから、油断なく頼むよ」

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