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日蓮大聖人・池田大作

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小樽問答  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  三月七日二戸田城聖は、総本山から東京に戻ると、総本山から戻ると、直ちに学会本部に向かった。本部には、前夜、小樽から、空路、帰ってきた澤田良一が待機していた。詳細な報告を受けると、「ご苦労だったね!」と澤田をいたわった。話が小樽の雪に及ぶと、戸田は、幼少のころを回想して、冬季は陸の孤島になる故郷・厚田村の豪雪について、面白おかしく語って、笑っていた。しかし、戸田の頭脳は激しく回転し、法論対策の構想は、着々と固まっていった。
 三月八日午前、彼は、対策本部のメンバーを会長室に招集した。直ちに綿密な打ち合わせを行い、予想される数多くの問題について、その対応策を次々と決定していったのである。
 「凡人の知恵は後から出るというが、われわれの作戦は、想定されるあらゆる事態に備えて、的確な対策を立てねばならない。勝負は、今、ここで決定するといってよい。知恵は、今こそ必要なのです。後から出る知恵は、知恵ではない。それは後悔というものだ。悔いない戦いとは、事前の作戦の優劣にかかっているのだ。これから将来にわたっての広宣流布の法戦も、いつも、この原理を忘れてはならならない」
 戸田は、戦いの第一歩から、常に真摯で慎重であった。彼の戦いという戦いが、ほとんど過つことがなかったのは、このためである。今、来るべき法論を前にして、彼の想像力は、まことに微細にわたった。対策本部のメンバーは、思索をめぐらし、想定に基づく方針を決定していった。
 講師は二人準備する。それ以外に、万一に備え、補欠講師を用意する。
 発言は、交互に行い、講師の持ち時間は、一回十分程度とすること。
 この弁論に対する質問を、一般聴衆から受けて、これに回答する。時間は約三十分。
 この場合、質問によっては、その回答が、そのまま身延側への攻撃となることも重要なポイントであった。たとえば、「身延では鬼子母神を拝んでいるが、それは大聖人の教えでしょうか」という質問が出たとする。その回答は、そのまま身延の謗法への攻撃となり得るからである。
 次に、最後の対決質疑は、一問一答をもって行う。時間は約三十分。
 二分以内に回答不能に陥った方は、負けとすること。
 これで、約二時間にわたる法論となるはずであった。
 戸田は、ここで講師を任命した。教学部長の山平忠平と、青年部長で教学部教授の関久男である。さらに補欠となる講師も決めた。
 「山平は、身延離山史を中心にして守勢を固めて、あらゆる攻撃に釈然たる回答を与え、回答そのもので、身延の邪義を破折すればよい。関は、本尊雑乱をもって、もっぱら徹底的な攻撃に終始する。そして、補欠講師は、自在な遊軍として控えている――だいたい、これでよいだろう。
 引用する文証なども、なるべく簡単なものにし、聴衆にも法論が理解しやすいようにしなければならない。
 一問一答の対決質疑は、身延に謗法があるかないかに、焦点を絞ればよい。攻撃は、単純であればあるほど、鋭い切れ味になる。心配するな。身延の教学なるものは、根は極めて浅いものであることは間違いない」
 この対策本部の一切の責任者は渉外部長である山本伸一であった。
 伸一は、ここ数日、次々と来る報告をもとにして、戸田と、そのたびに対応策を練っていた。対策会議での戸田の指示は、その再確認でもあったのである。司会者をどうするかについて、誰かが言及した時、戸田は、既定の事実であるかのように断定して言った。
 「司会者は、伸一以外に考えられない。審判にあたって、双方の司会者が果たす役割は大きい。その時の立役者は、伸一のほかに誰ができるか」
 山本伸一は、戸田のメガネの奥の瞳を見つめて言った。
 「審判については、司会者双方の合意は、なかなか得られない場合の方が、公算が大きいと思われますが、その場合の判定は、聴衆によるのでしょうか」
 「そうだな、聴衆の起立裁決に持ち込まざるを得ないだろうな。しかし、学会が負けることは、絶対にない」
 戸田は、このほか北海道の有力新聞の支局や、放送局の支局があれば、事前によくあいさつしておくことなど、こまごまと注意を与えた。
 水谷日昇の北海道巡教は、法論とはなんらの関係なく、予定通りに進めてもらうことにした。
 最後に、北海道在住の学会員の動向が問題になった。小樽で、このような事件が惹起したことを、彼らは、まだ知らないにちがいない。
 そこで青年部の首脳を、函館、札幌、旭川の三方面に分けて派遣することが、山本伸一によって、急遽、立案された。北海道の学会員に小樽の事件を知らせ、法論の意義を教え、全同志が心を一つにできるように取り計らわなければならない。即座に出動できる青年部の幹部、十一人を選抜し、八日の夜行列車で、北海道の三拠点である函館・札幌・旭川と、小樽に急派することが決定され、直ちに実行に移された。
 俄然、学会本部は慌ただしくなった。そのなかで、戸田は、すべての指示を与えると、彼自身の出発は、十一日の当日朝と決めて、会長室で何事もなかったように悠然と日常の仕事に戻っていた。
 日蓮大聖人の仏法の真髄を、身をもって実践している、唯一の実践教団たる創価学会の誇りと確信が、彼の胸中では、微塵も揺るがなかったからである。彼は、既に、どのような宗派と法論することになろうと、なんの恐れもなかった。
2  この三月八日、小樽には、身延側の講師となる宗方木妙と長内妙義が、既に到着していて、彼らは彼らなりの作戦の検討を重ねていた。
 小樽の学会員たちは、隅田清行と共に市内の各所を歩き、相手方の動きを、なおも調べていたのだが、本部からの電話で、そうした行動を、一切、停止した。道内に二百カ寺はあるという身延系の寺院が、大動員をかけていることから、学会側も函館、札幌、旭川の拠点と連絡をとり、地元の小樽班の班員の団結をはかった。
 また、この日、妙龍寺の村木啓山から、身延側代表講師の氏名を通告してきた。戦雲は、雪の小樽の街で、刻々と濃くなりつつあった。
 三月八日夜、上野駅を出た青森行きの列車には、十一人の男子部の派遣隊が乗り込んでいた。彼らは、青森から青函連絡船に乗り、翌九日午後、函館に着いた。そのうち三人が函館に残り、あとのメンバーは、列車に乗り込んだ。
 列車は雪のなかを進み、午後八時二十五分、小樽で、秋月英介ほか二人が降りた。さらに、札幌で二人が降りた。札幌の街は吹雪のさなかであった。
 それから残りの三人は、さらに夜行列車で旭川に向かった。彼らが駅に降り立った時には、時計の針は、十日の午前零時五十分を指していた。
 各駅には、地元の学会員が、雪のなかを出迎えていた。派遣された青年たちは、すぐさま十一日の小樽への結集活動に入った。
 三月十日、小樽の学会員たちは、朝から忙しい日となった。水谷日昇の一行は、法論となんの関係もなく、予定通り九日、函館正法寺の行事を終えて、十日の早朝、薄暗い午前五時三十分、小樽駅に到着した。
 午前十時半ごろ、秋月と隅田は妙照寺を訪ね、日昇に、これまでの経過を報告した。妙照寺では、午後から説法が始まり、小樽在住の信徒は、こぞって参加したが、翌日の法論対決を思うと、なんとしても落ち着けなかった。いよいよ慌ただしい段階に入ったのである。
3  一方、東京の本部には、小樽をはじめとする北海道各地からの報告が、次々と寄せられていた。
 戸田一行の本隊の出発は、十一日早朝と決められていたが、先発隊として、十日早朝、二人の幹部が、空路、北海道へ向かった。二人は、定刻の午前十時三十五分、千歳飛行場に着き、バスで札幌に向かった。
 札幌では、地元の幹部や、前夜、到着していた派遣隊の青年が出迎えてくれた。どれくらい会員を結集するかなどについて話し合っているうちに、小樽行きの汽車を逃した。バスに切り替えたものの、一面の雪道はまだ深く、でこぼこの多い道を上下左右に揺られながら、バスは喘ぎつつ、のろのろと進まなければならなかった。道々、バスは停止して、そのたびに運転手がスコップで雪を取り除きながら、また進むのである。
 長い雪の道であった。二人は、「難行苦行だ」などと笑い合った。
 午後四時には、身延側との会見交渉が待っているはずであった。気はせいたが、どうしょうもない。やっと小樽にたどり着いてみれば、午後四時である。予定より二時間の延着であった。元気のよい小樽班の人びとに迎えられて東班長宅に向かい、ここで慌ただしく状況を聞くと、直ちに交渉会場となっている、近くの花園会館に入った。
 時に午後四時二十分、法論対決の正式交渉が始まったのである。身延側の三人の交渉委員が待っていた。例の村木啓山と、赤ら顔の僧、そして、祈祷師を思わせる風貌の僧であった。
 創価学会側の交渉委員は、理事と青年部幹部の二人であった。それに、記録係として、青年部幹部一人がつき、また、これまでの交渉経過の証人として、班長の東恵子らが同席した。
 交渉会場の部屋は、最初から刺々しい空気が漂っていた。
 両方の交渉委員が、面と向かった途端、一人の僧が、きょろきょろと目を走らせて言った。
 「日蓮正宗の方はどうしたんです? 私の方は、創価学会と、どうこうするつもりはない。僧籍にある者同士の話し合いでなければ……」
 「私たちは、日蓮正宗・創価学会の代表として来ているんです。今度の法論について取り決めをいたしましょう」
 学会の交渉委員である理事が、さっそく本題に入ろうとすると、村木啓山が慌てて口をはさんだ。
 「それでは話が違う。最初から水谷貫首の随行の方が出るという話だった。それで、こちらも本山から呼んだんです。僧籍にある人でなければ、話が違う」
 理事は、すかさず言った。
 「僧籍うんぬんということは、誓約書には何もない。創価学会と日蓮宗との対決となっている……」
 その言葉をさえぎって、村木啓山は、いきりたった。
 「そんなことはない。最初の原案は、そうであったかもしれないが、実際のところ、私が日蓮宗を代表するわけにもいかないし、東さんだって、日蓮正宗を代表するわけにはいかないでしょう。だから……」
 「誓約書に基づいて、私たちは代表として来ているんですよ。小樽班から連絡があって、学会本部の代表として来ているんです。そちらが、誰を出そうと、注文はつけません」
 この言葉を、身延側は強く否定した。
 「そりゃ、おかしい。日蓮宗と日蓮正宗の対決です。創価学会とではない。宗門同士の対決だ。あなた方は、僧侶の代表ではない」
 僧籍にこだわる身延側には、在家の信徒を軽蔑する、僧侶の傲慢さがあった。在家の信徒と法論して負けたとしたら、僧侶として、これ以上の不名誉はないという虚栄心から、彼らは保身のために汲々としていたといってよい。そして、できることなら、創価学会との法論を極力避けたいとして、まず誓約書を無視し、僧籍にこだわったのであろう。
 学会側の交渉委員は、誓約書を取り出して詰問した。
 「よくご覧なさい。創価学会小樽班と日蓮宗との対決となっている。代表者は同数とあって、僧侶でなければならぬなどという条件は、どこにもない。
 誓約書に基づいて、われわれは、日蓮正宗・創価学会の代表として来ている。法論の段取りを決めるため、あなた方も日蓮宗の代表として来たんじゃないか」
 「それはそうだが、僧侶が出るというから、そのつもりで来た。能化と能化の対決が、本当だと思う」
 身延側は、あくまでも固執した。
 同席した東班長は、誓約書を取り交わした三月二日の時のことを思い出した。
 最初、小樽班で作成したときは、確か「日蓮正宗と身延日蓮宗との聞に於て法論対決」となっていたのを、村木啓山が、これではあまり大げさだからと言って、「日蓮正宗創価学会小樽班と日蓮宗妙龍寺寄宿村木啓山と法論対決」と訂正することを主張した。そこで主張通りに訂正されたのである。創価学会と日蓮宗との対決としたのは、村木啓山自身であった。
 東班長は、この時のことを話し、話のついでに、水谷日昇の来樽と随行の僧侶の名をあげたにすぎないと言った。
 「村木さん、しらばっくれたことばかり言うもんでない。あんたは、なんでもよいから、一応、名前だけ言ってくれということだったでしょう。本部に連絡してみなければ、私たちにはわからないことだし、変わるかもしれないと、念を押したじゃないですか」
 「…………」
 村木は、ここで沈黙してしまった。
 赤ら顔の僧が、村木を顧みて問い詰めた。
 「村木君、そう?」
 「……見解の相違ですな」
 村木の言葉に、身延側の交渉委員たちは、困惑の表情を浮かべた。
 学会の交渉委員は、素早くそれを見てとって言った。
 「誓約書まで入れておいて、今になって、なんのかんのと逃げようとする。法論できないというなら、はっきり″できません″と言いなさいよ!」
 「できますよ」
 身延側は憤然としたが、また学会側につかまってしまった。
 「では、やったらいいでしょう。僧侶と信者とでは、できないという理由はなんですか。僧侶も信者も同じ人間じゃないか」
 「……日蓮正宗の僧侶は、小樽に来ているんでしよう」
 「それが、どうしたというんです? 正宗も学会も同じ教義ですよ。東さんに法論を申し込んだのは、あなたたちの方じゃないか!」
 「だが、私たちは、今日は僧侶同士でやるということで来ている」
 話は平行線をたどった。
 そこで、学会側は一つの提案をした。
 「では、創価学会が日蓮正宗の代表であるという証明があればいいわけですね。連絡はすぐつくし、代表の認可をもらうが、どうですか?」
 「それなら、それで結構でしょう」
 身延側の一人は、あっさり答えたが、交渉は進まなかった。今度は、もう一人が頑として僧侶同士の対決を繰り返すばかりであった。
 「われわれは、日蓮正宗の代表となっても差し支えないと言っている。それでもやれないというなら、潔く負けたとおっしゃい!」
 創価学会側に追い詰められた身延側の三人の交渉委員は、しばらく苦悩の表情を浮かべていたが、そのうちの一人が、狡猾な言葉を口にした。
 「私たちは、僧侶同士の法論ということで指示を受けてきたのです。今、ここで、創価学会が相手となると、私たちでは決定しかねる。ひとまず失礼させてもらいましょう」
 こう言うと、身延側の三人は、そそくさと立ち上がった。意外な結果となった。学会側の交渉委員は、出て行とうとする三人に、大声で呼びかけた。
 「今夜中に返答しなさい。今夜八時までに旅館に電話で返事をよこしなさい。待ってますよ。さもないと、そちら側が負けたと公表するから、ご承知願います」
 「必ず連絡する、連絡しますとも」
 身延側の三人は、こう言い残して、交渉会場を出て行った。
 一時間余りの交渉は、つまずいてしまった。学会側のメンバーは、東班長宅に引き揚げ、東京の本部に電話した。東京からの指示は、あくまで法論の実現にあった。午後六時ごろ、妙龍寺へ電話すると、村木啓山が出た。押し問答が電話口で続いたが、やっと村木は、最後に強気になって言った。
 「創価学会でも、それが日蓮正宗の正式代表となるならば、法論をやってもよいと思います」
 学会側のメンバーは、直ちに妙照寺に行き、経過を報告し、宗門の細井庶務部長から認定書を受け取った。
  認 定 書
 三月十一日の身延派との法論につき創価学会教学部を日蓮正宗の正式なる代表と認める。
   昭和三十年三月十日
 日蓮正宗宗務院 庶務部長 細井精道 印
   創価学会殿

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