Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
1  厳冬の北海道・小樽の街は、吹雪がやんだばかりであった。新しい雪が、家々の屋根を覆い、坂の多いこの街の路上も雪が積もり、雪を蹴った足跡もま
 ばらだった。
 人通りのほとんど絶えた、この白一色の街に、人影が三つ、ゴム長の足を、せかせかと刻みながら歩いていく。三人の吐く息は白かった。
 北国特有の、あの角巻を頭から被り、体をすつぽり包んだ三つの人影は、弾んだ声で、互いに語りかけながら坂を上り、角を曲がって、とある洋品店の戸を開けて中に入った。
 小樽の草創期の創価学会員にとって、今も忘れることのできない、あの「小樽問答」は、この洋品店での出来事から始まったのである。
 一九五五年(昭和三十年)二月二十五日のことであった。
 角巻を脱いだ三人の婦人は、奥に向かって、「ごめんください」と、元気に声をかけた。居間に通された彼女たちは、かじかんだ両手をストーブにかざしながら、洋品店の夫妻に話しかけた。
 「あんた、信心やめたいって、ほんと?」
 やや荒い口調で、詰問するように切りだしたのは、東恵子である。年配の彼女は、学会本部直属の小樽班の班長であった。
 洋品店の大森夫妻は、東の視線を避けるように、一瞬、うつむいたが、夫の十郎は、つぶやくように、歯切れの悪い口調で言いだした。
 「あんた方には悪いと思うけれど、やはり、うちには、うちの事情があって、この先、とても御本尊様をお守りできそうもないのですわ」
 「御本尊様を、お返しして、どうするというの?」
 奈良川スミは、案じ顔で、大森夫妻に鋭い視線を投げた。彼女は、東とコンビの班担当員である。
 夫妻は、困惑して黙したままだった。
 「つまらないことを考えるのは、よしなさいよ。あんた、身延が恋しくなったのと違う?」
 東恵子は、おっかぶせるように、詰問した。
 大森十郎夫妻が入会したのは、この二月の、三日のことである。まだ三週間しかたっていない。身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗妙龍寺の信徒であった彼らは、創価学会の九谷貞枝の紹介で入会したのだった。そして、入会直後から、もともと耳の遠かった大森十郎が、いくらか聞こえるようになったと、九谷貞枝に語って、夫妻で喜んでいたのも、つい数日前のことである。
 それが、今日の午後、九谷のところへ、御本尊の返却を言ってきたのだ。九谷は、東班長に吹雪のなかを報告に行き、ちょうど、そこに来合わせた奈良川班担当員と三人で相談の結果、吹雪のやむのを待って、大森宅を訪れたのである。
 「耳だって、よくなってきたんじゃないの。ここが大事なところなのよ。迷っては駄目。勇気を出すのよ。いったい、やめて、どうするつもりなの?」
 九谷貞枝は、こう言って、大森夫妻を睨んだ。あれほど自身の体験を意識し始めた夫婦が、急に退会すると言いだしたことが、彼女には、なんとも不可
 解であった。
 大森夫妻は、三人の婦人の目に射すくめられたように、無言で反発していた。そして、この空気に、いたたまれなくなったのか、大森の妻は、茶道具を
 出し、茶を入れようとし始めた。
 性急な東班長は、これを見ると、相変わらず高飛車な言葉を吐いた。
 「お茶を飲みに来たんじゃないわよ。大切な、新しい人生の出発のために頂いた、この御本尊様を、どうして返却するなんて言いだしたのか、それが聞
 きたいのよ。耳の遠いのもよくなってきたと言って、自分で喜んでいたじゃないの!」
 大森十郎は顔を上げ、表情をこわばらせたまま、東恵子を見た。
 「……いくらか聞こえるようになっただけだよ。すっかり治ったわけじゃない」
 十郎の不服そうな言葉に、東恵子は、かっとなった。
 「なに言っているの! 私たちが、こうして来ているのは、何も、あなた方に拝んでくれと頼んでいるのじゃありませんよ。考え違いをしないでください」
 大森十郎も、また興奮して言い返した。
 「あんた方が、わしらを幸福にしてくれるわけではあるまいし、偉そうなことは言わんでくれ。わしらのことは、わしらでやるから放っておいてくれ」
 「そりゃそうよ。私たちに、あなた方を幸福にする力はない。凡夫だもの。だけどね、この御本尊様には、その力がちゃんとあるんです。私たちのためではなく、あなた方のために、不憫と思って勧めてるのよ。それが、どうしてわからないの?」
 ただ感情的な思考に陥ってしまった大森十郎には、何も理解できなかったばかりか、興奮した耳には、他人の言葉も聞き取りにくくなっていた。
 「わしは、自分で判断したまでだ。いくらなんと言われようと、いやなものは、いやだ。さっさと持っていってくれ」
 彼は、仏壇に向かって歩み寄った。東班長は、すぐさま立ち上がって、彼の腕をつかむと耳元で叫んだ。
 「大森さん、話はわかりました。お返しするなら、妙照寺へお返しすれば、それでいいのよ。あなたが頂いたものなんだから、あなたが返却すればいい。私たちが受け取るわけにはいかないんです」
 「そうか、そんならお前、さっさと返してこい」
 大森十郎は、今度は、妻に鉾先を向けて座り込んだ。
 彼の妻は、険悪な空気を静めようと、茶を入れて三人の客に出した。
 奈良川班担当員は、意外に平静な妻に、話しかけようとした。彼女は、さっきから、この場に適切な御書の一節を思い出そうとして、やっと、それを思いついたところだった。
 「奥さん、この御本尊様はね、護持することが難しいと、大聖人様も、ちゃんとおっしゃっているのよ。『受くるは・やすく持つはかたし……』とね。それから、なんといったかね、東さん」
 奈良川は、東に救援を求めた。東は、せかせかと言った。
 「ええと、『持つは成仏なり……』。違ったかな」
 「ああ、そうそう。『……さる間・成仏は持つにあり』よ。ね、奥さん、今の世の中で、この御本尊様を持っことは、どんなに難しいかを、大聖人様は、ちゃんとお見通しになっていらっしゃる。だから、幸福になるためには、この御本尊様を、ちゃんとお守りしていきさえすればいいんです。
 その、お守りしていくということが原因となって、今度は、自分自身が守られていくんです。それをお返しするなんて、とんでもないことです。私たちと一緒に、あなた方も幸福になろうじゃありませんか。ともかく一年、頑張ってみたら……」
 「そうよ、そうよ。私たちも、そうだけれども、大森さんも、やっと、このすばらしい仏法に、あうことができたばかりじゃないの。あとは、お題目さえ、きちんとあげればいいんですから、誰に迷惑のかかることでもないでしょう。そのうちに、ご主人も、あなたも、本当によかったと言うに決まっています。今は辛抱が肝心の時だと思って……」
 組長でもある九谷貞枝は、紹介者としての責任から、大森の妻に懸命になって訴えた。三人の婦人たちの説得は、なおも続いたが、大森十郎は、頑とし
 て黙したままであった。
 大森の妻は、十郎の顔色をうかがいながら、「あなた、どうするの」と、二、三度、十郎に返答を迫ったが、十郎は、なおも口をつぐんでいる。
 妻は、仕方がなさそうに、独り言をつぶやいた。
 「私は、どっちでもいいけれど、この人が頑固だからどうにもならない……」
 この時、大森十郎は、憤然として叫んだ。
 「なにっ、お前が、いやだと言ったんじゃないか。おれは知らん、勝手にしろ!」
 夫婦喧嘩になった。
 十郎は、さっと立って、奥の部屋に入ってしまった。気まずい空気のなかで、妻は、薄笑いを浮かべながら、愚痴をこぼした。
 「あの通りなんですよ。短気で、わからず屋で……」
 東恵子は、夫婦喧嘩がもとで、御本尊返却にまで及んだのかと、単純に考えた。そうだとしたら、自分たちは、夫婦喧嘩に踊らされているにすぎない。よくあることだ。これは放っておけば、いつかおさまるだろう。″なんだ、つまらない話だ″と、ひとまず安心しながら、大森の妻に諭すように言った。
 「わかったわよ。だから、あなたが、しっかりしなくては、いけないのよ。まず、あなたが、御本尊様をしっかりお守りしなくては、どうしょうもないじゃないの。夫婦のことは、夫婦で話し合って解決しなさい。それを、信心をからませて喧嘩するなんて、とんでもない心得違いですよ。ご主人が、どうあろうと、愚痴など言わないで、一家の宿命転換のために、御本尊様にぶつかっていくのよ。わかった?」
 大森の妻は、東恵子の言葉は耳に入らなかったらしい。彼女は、頷いてはいたものの、口にした言葉は、極めて見当が違っていた。
 「″夫婦喧嘩は犬も食わない″っていうからね、ほほほっ……」
 気楽な笑い声だった。
 三人の婦人たちは、唖然として、拍子抜けした思いで、釣り込まれて笑い声をたてた。そして、返却の理由は、まさしく夫婦喧嘩にあったものと思い込んでしまったのである。
 東恵子は、やがて自身が責任ある班長であることを自覚しながら、新入会者の妻に言った。
 「奥さん、どんなことがあっても、御本尊様から離れたら駄目ですよ。辛いことがあったら辛いままでいいの、御本尊様に題目だけは、あげていきなさいよ。時がたてば必ず解決しますから……」
 「大森さん、よかったわね。みんなで、しっかりやりましょうよ。辛い思いをしているのは、あなたばかりじゃないわ。私たちだって、みんな同じです。だから一生懸命、信心ができるのよ」
 奈良川班担当員も、こう口を添えたが、大森の妻は、無言で頷くばかりである。
2  三人の婦人たちは、来た甲斐があったとばかり喜んだ。そして、あいさつをして帰ろうとした時、ガラガラと戸が開いて、二人の男が入ってきた。
 彼女たちの目は、一斉に入り口に向けられた。二人の男は、ややくたびれた外套から粉雪を払いながら、それを脱いだ。そして、頭から頬かぶりしていた襟巻を取ると、二つの坊主頭が現れた。
 帰りかけた三人の婦人は、「あっ!」と声をのんだ。二人は、小樽の妙龍寺の僧であった。
 東恵子は、この瞬間、大森十郎夫妻の御本尊返却の理由が、単なる夫婦喧嘩などによるものでないことを、素早く悟った。
 ″なんだ、妙龍寺の坊主たちが、陰険な策動で、大森夫妻の信心の邪魔をしていたのか。わかった。こうなれば、もう、一歩も退くことはできない!″
 東恵子は、たちまち戦闘的な身構えとなった。まず、身にまとったばかりの角巻を脱いだ。奈良川スミも、九谷貞枝も、東恵子にならって硬い表情で角巻を取った。洋品店の土間は、一瞬にして緊迫した空気が漂い始めたのである。
 「さあ、どうぞ、どうぞ、お上がりになって……」
 大森の妻が、居間の方から二人の男に声をかけた。四十年配の、あまり風采のあがらぬ男は、じろりと三人の婦人を脱んでいたが、何か異様な空気を感じたらしい。もう一人の痩せこけた若い男は、目を伏せて婦人たちの背後から居間に回っていた。
 年配の男は、昨年九月に小樽にやって来て、寺の執事をしている村木啓山であり、若い男は、最近、身延で荒行をしてきた、出口景進という僧だったの
 である。
 険しい空気のなかで、村木と出口は、無言のまま居間に上がった。東恵子たちも居間に戻った。奥からは、大森十郎も出てきて驚きの目を見張った。大森夫妻を挟んで、小樽班の三人と、妙龍寺の二人とが、いつか自然と対峠してしまった。七人は、互いに顔を見合わせたものの、しばらくは誰も口を聞こうとしなかった。気まずい空気は、刻々に濃くなって、何かの弾みで爆発せざるを得ない寸前にあった。
 厳寒の外では、犬の遠吠えが聞こえる。
 ともかく、東恵子たちにとっては、実に思いもかけない事態といってよい。だが、いざという時には、婦人は強い。こうなっては、堂々と折伏して、対決すればよいのだと腹が決まった。彼女たちは、覚悟を決めて、その時の到来するのを待ったのである。
 「ここにいるご婦人方は?」
 村木啓山が、大森の妻に向かって小声で問いかけた。大森の妻は、何か口ごもって、夫の顔をのぞいた。大森十郎は、なんだとばかりに妻を見返した。
 「ご婦人方は、どちらの方で?」
 重ねて、村木が、やや大きな声で、今度は十郎に問いかけた時、十郎は軽く頷くと、あっさり答えた。
 「創価学会の小樽班の衆ですわ」
 「そうですか。やっぱり。……いいところでお目にかかった」
 村木啓山は、老獪な口調で、短い首をちょっと下げて、東恵子たちに目をすえながら話しかけた。
 「この間から、お会いして、一度は、はっきりさせなければと思っていたところです。今日は、よい機会だ。……あんた方は、どうして、うちの檀家ばかり狙うんです。そして、本尊とかというものを、無理やりに持たせたりして、大森さんのところも実に迷惑している」
 「無理に持たせた? とんでもない。大森さんは、納得して創価学会に入会したんですよ。それが、何が悪いんですか。あんた方こそ、裏へ回って、大森さんの信心を邪魔などしている。卑怯なまねは、よしてください」
 最初から、東恵子は戦闘的であった。
 「気の強い人たちだな!」
 村木啓山は、庶民の信徒を見下したようにせせら笑って、とんでもない放言をしたのである。
 「無理やりと言ったのが悪ければ、暴力的と言つた方が正しいのかな。出口君、君もそう思うだろう。大森さんも、そうだったんじゃありませんか」
 出口は、呼びかけられて、のろい語調で言った。
 「いつか新聞で、『暴力宗教・創価学会』という記事を読んだな。なんでもかんでも、暴力で御本尊を持たせることもあるらしいね」
 東恵子は怒った。
 ″坊主のくせに、なんという暴言を吐くのか、もう許せない″と思った。
 「でたらめも、いいかげんにしなさい。いったい、世の中に暴力で信仰する人がどこにおりますか。とんでもない。絶対に正しい御本尊様を持たせてあげたのに、感謝こそされ、暴力とはなんですか」
 村木は、東の言葉尻をつかまえた。
 「あんた方は、正しい、正しいと言うが、どうして正しいと言えるんだね」
 「私たちの信心が正統派なんだから。日蓮大聖人の正しい教えは、日興上人にしか伝わっていない。だから、私たちが正しいと言うのです」
 「では、その正しいという、その理由を言ってもらいましょう」
 東恵子は、はたと困った。
 ――その理由と言われて、教学的に、どのように説明しようかと、思いめぐらしていた。なにしろ、入会わずか半年しかたっていない班長である。教学の力も、断片的な知識しかなかった。彼女は、守勢に回らざるを得なかったが、ここで彼女の攻撃精神は、おのずから身延系の弱点を突いた。
 「身延では竜女や稲荷を拝んでいるが、大聖人様は、そんなことをしていいと、どこで言っていますか?」
 「言っていないね」
 村木は、平然と答えた。
 東は、すかさず言った。
 「言っていない? それではインチキではないですか」
 「拝むのは、その人の勝手です。題目さえ唱えるならば、何を拝んでも差し支えない」
 「そんな変な話が、どこにありますか」
 「『本尊問答抄』に、ちゃんとある。『題目を以て本尊とすべし』」
 この切り文を出された時、東恵子は「本尊問答抄」なるものを知らなかった。まして、この切り文を正確に引用すれば、「法華経の題目を以て本尊とすべし」であるが、それを村木啓山は、狡猾にも、「法華経の」の四字をわざと省いた。その小細工にも、彼女たちは、全く気がつくはずがなかった。
3  その時、東恵子は思い出した。
 ――昨年の夏、東京の派遣幹部と、折伏に同道した時のことである。身延系の一信者の家に行った折、その幹部が、日興上人の身延離山の歴史的事実を滔々と語ったのを、感動をもって聞いたのを忘れていなかった。彼女は、その記憶を絞れるだけ絞った。そして、甲高い声をあげて、記憶にあるだけのことを、真剣にまくしたてた。彼女にとって、仏法の面倒な理論は苦手であったが、歴史的な物語は、はるかに鮮明に残っていたからである。
 東恵子の声は、確信に満ちて響いた。驚いたのは、二人の僧である。なかでも出口景進は、感心したように口をはさんだ。
 「おばさん、よく知っているじゃないか。あんた、信心してどのくらいになるの?」
 「半年とちょっとよ」
 「すごい信心だなあ。日興上人は、身延でも後ろの方に置いて拝んでいますよ……」
 この時、村木は、慌てて出口の発言を制した。
 「君は、黙っていろ!」
 討論は腰を折られたが、東恵子の闘志は、さらに燃え上がった。奈良川スミは、心のなかで、題目をしきりに唱えていた。九谷貞枝は、大森十郎とい
 う、やっかいな男を折伏したことを、かすかに後悔し始めていた。
 「日蓮大聖人の仏法は、ちゃんと日興上人に受け継がれているんです。だから、私たちの方が絶対に正しい! その大聖人の仏法を、正しく実践しているのが創価学会です」
 東恵子は、凛然と言い放った。そして、勝負は、もう決まったかのように勝ち誇っていたのである。
 その時である。
 「あんた方が正しいという証拠を出しなさい」
 村木は、顔を赤くして、自信ありげに妙なことを言いだした。
 「正しい、正しいと言ったって、いったい、どの御妙判に出ているのか聞きたい」
 ″ゴミヨウハン?″
 東恵子は、一瞬、不可解な言葉につまずいて、素早く頭を回転させたが、初めて聞く言葉である。脳髄の、どの隅にもない言葉であった。
 ″ゴミヨウハン?″
 彼女は、奈良川や久谷を顧みたが、二人とも怪訝な面持ちであった。
 その瞬間、出口景進が口をはさんだ。
 「御遺文のことですよ」
 「黙っていろ! 余計なことは言うな」
 村木は、また出口を制したが、とっさに、東恵子は、なんだと言わんばかりに、にっこり笑って言った。
 「ああ、御書のことか、そんなら知っている……」
 「御書なら御書でもいい、その何ページに、あんた方が正しいと書いてある?文証を出せ!」
 文証を出せと言われて、彼女は、はたと詰まった。
 御書は確かに持っているが、月一回の御書講義の時にしか開けたことはない。これは、教学力のある幹部に聞くより仕方ないが、そんな幹部は、この小樽にはいない。彼女は、あることに思い当たった。
 ――十日ほど前のことである。小樽の日蓮正宗寺院・妙照寺で、住職から、来る三月の十日に、日蓮正宗の法主である水谷日昇が、小樽に来るという話を聞いていた。
 ″その時には、多くの僧侶も随行するにちがいない。村木のいう「文証」などは、たちどころに教えてもらえるだろう。今は、いいかげんなことを言って、失敗しては申し訳ない。我慢して、その時まで延ばすに限る″
 東恵子の腹は決まった。
 そして、最後の反撃に移り、止めを刺すつもりで発言した。
 「いくら立派そうなことを言ったって、インチキなものは、どこまでもインチキですよ。難しいことを言えば、私たちが困ると思っているんでしょう。
 ……ともかく、正しいものは、どこまでも正しい。身延はインチキで、私たちが正しいことだけは実感としてわかる!」
 「だから、正しいということを、文証で証明してみろ、と言っているんじゃないか」
 村木は、なおも執念深く追及してきた。
 東は、村木が勝ち誇った態度に出てきたのが悔しかったが、来月中旬までの辛抱だと思った。
 「御書は、今、勉強中で、私たちには難しいことは、まだわかりません。そのうちに必ず、文証をあげて教えるから待ちなさいよ」
 「それ見ろ! 何も知らんじゃないか。ただ、″正しい、正しい″と言って、騙されているんじゃないか。そのうちとは、いつまで待てばいいんだね」
 村木は、ますます居丈高にからんできた。
 期限をつけられて、東は思わず言ってしまった。
 「来月の十日まで待ちなさい」
 「十日? それはまた、どういうことだ?」
 「来月の十日になれば、水谷日昇猊下が小樽においでになります。大勢の僧侶も随行するから、そんな文証なんて、すぐわかる。その時に聞いて教えるから、それまで待ちなさいよ」
 「ほう、そうか。そんならその時、あらためて法論するとしよう。間違いないね」
 「ああ、間違いありませんとも」
 東恵子は、決然として確約したが、顔は興奮で赤く輝いていた。
 それまで、彼女は、仏法用語に幻惑されて押されぎみであったが、次の法論の機会をつかんだ今、本来の鼻っ柱の強さが戻ったのである。
 ″今に見ろ! その時になって、村木や出口は、どんな顔をするだろう。それが見たい! 僧たる者が、こんなにも傲慢な態度で、庶民を見下すだけでも私は許せない″
 彼女の輝いた顔には、微笑すら浮かんでいた。徴塵の疑いもなく、彼女は、心の底から勝利を確信していたのである。
 村木啓山は、東恵子の意気軒昂さを、幼稚な虚勢と取り、皮肉な笑いを浮かべていたが、ふと思いついたように言った。
 「そうだ、そうだ。こうなったら、あんたらと法論するよりも、その総本山から来る日蓮正宗の僧侶と法論する方が、事がはっきりするではないか。
 いっそのこと、僧侶と僧侶で法論することにしようじゃないか。どうです、その方が筋道が通っている。昔から、法論とは、そういうものなんだよ」
 彼女の目は、一段と輝いた。
 「いいですとも、いいですとも。結構ですとも――日蓮正宗と身延の日蓮宗との法論ということになれば、小樽の私たちにとっても、願ってもないことですからね。これは面白くなってきた。大賛成よ」
 渡りに船とばかりに言った東恵子のこの一言が、句日を経ないうちに、事態を見る見る拡大させていくことになろうとは、彼女は、いささかも気づかなかった。来るべき法論の日の光景を頭に浮かべ、″吠え面をかくな!″と、彼女は酔い心地になってさえいたのである。

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