Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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多事  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
1  創価学会の会員が、全国的規模で激増し、毎月一万世帯前後の入会者を数えるようになると、世間は、いわゆる「折伏」を問題にし始めた。
 使命感に生きる会員の救世の情熱は、惰性に沈んでいた既成宗教には、とうてい理解されるところではなかった。
 また、宗教活動を営利的に利用することを事とした、戦後、雨後の筍のように発生した新宗教も、創価学会の華々しい折伏によって、自宗の教勢が、日に日にそがれていく現実を目の当たりにし、ざまな中傷と策動を始めたのである。
 創価学会の再建当時から、青年部の有志は、随時、他宗の寺院や本部などに出向いて法論を挑み、他宗の幹部の心胆を大いに寒からしめていた。
 青年たちは、戸田城聖に短日月のうちに教授された日蓮大聖人の仏法が、法論のたびに向かうところ敵なしという結果を重ねるのを、身をもって知るに及んで、彼ら自らがまず驚いた。彼らは、大聖人の仏法の正しさを、法論によって、まざまざと実感したのである。彼らは、生涯の使命と目的を、広宣流布という未聞の大事業に委ねて悔いない覚悟を強くした。
 この青年部有志の、他宗との法論闘争を、戸田は、奨励したわけではなかったが、青年たちが、大聖人の仏法の正統さを知る、最も直接的で有効な手段として見ていた。
 僧侶という、一生を宗教にかけた専門家が、法論に敗れても、なお平然として改宗もしないでいることが、青年たちには、まことに不思議であった。
 ″いくら法論に勝っても、これでは広宣流布の道は少しも進まない。どうしたらよいのか″
 彼らの一人は、戸田城聖に質問しないではいられなかった。
 「いくら法論闘争しても、一人の僧も改宗させることができません。明らかに非を悟っていながら、日蓮大聖人の仏法に帰依しようともしないのは、どういうわけですか」
 戸田は、にっこり笑って、いきり立つ青年たちに諭すように言った。
 「君たちも気がついたか。現代の宗教が、どんなに堕落しているかという明確な証拠です。末法とはよく言ったものだ。昔は、まだ法論にはルールがあった。負けた者は、勝った者の宗旨に改宗することをかけて法論したものです。真剣勝負だった。
 今は、負けても負けたと言わない。恐るべき狡猾さが身について、それが処世術になっているのが、現代の宗教界といってよい。その証拠に、人を不幸にこそすれ、一人の人さえ救うことができないではないか」
 「すると、いったい広宣流布は、どうしたらできるのでしょうか。他宗の僧一人も改宗させることができないようでは……」
 「そこだよ。現代の広宣流布は、不幸な民衆一人ひとりを救っていく活動です。辛抱強く、一対一で、日蓮大聖人の真の仏法を説き、納得させて、一人が一人を救っていく以外に方法はない。これが創価学会の使命とするところの実践活動です。
 では、なぜ、ぼくが青年部に法論闘争を許しているのかと、君たちは思うだろう。
 それは君たちのためなのだ。君たちに、日蓮大聖人の仏法が、いかに正統で、すごいものかということを、わからせたいためです。そうじゃないか。ぼくが、いくら真の仏法のすごさを説いても、君たちが疑っていたら仕方がない。実際に他宗と比較してみれば一目瞭然となる。それには、法論を、ちょっとでも挑んでみれば、すぐわかることだ。法論闘争は、君たちの信心を強固にするために許しているんです」
 事実、散発的な法論闘争が、随所でいくら行われても、他宗の僧侶や幹部は、内心の狼狽はともかく、世間的には微動だにもしなかった。
 青年部の有志たちは、青年らしいため息をついて、現代の宗教の醜態を知り、日蓮大聖人の仏法の偉大さを、いよいよ知るのであった。
2  ところが、一九五四年(昭和二十九年)ごろになると、活発な折伏活動が全国にわたって展開されるに及び、他宗の寺の檀家のなかで、離檀する人が続出するという現象が各地に起きた。地方の、ある寺では、年間三十軒の檀家が、創価学会に入会して寺を離れていった。もし、この事態が続くものとすると、数年たたないうちに、寺の経営は成り立たなくなることが自明である。
 他宗の住職たちは騒ぎだした。宗教上の問題というより、まず生活が脅かされたからである。彼らは、墓地への埋葬を拒否するという挙に出たために、それが法律問題となった。さらに、彼らは地方の新聞に訴えて、中傷を創価学会に加えたのである。
 彼らは、宗教家としての建前上、檀徒の改宗離檀の問題を、さすがに生活基盤の侵害としては公言できなかった。そこで彼らは、宗教団体を管轄する文部省に、創価学会が暴力的宗教団体ででもあるかのように、訴えたのである。文部省宗務課は、各府県に連絡して実態調査を始めなければならなかった。創価学会の活動が、果たして宗教法人法第八一条にある「公共の福祉を害する」にあたるかどうかを問題としたのである。
 今日からすれば、笑うべきことであるが、当時、忽然と社会に頭角を現し始めた創価学会は、全くの誤解と曲解による敵意につつまれていたといってよい。
 たとえば、ある新聞に、「信仰相談」という欄があり、週三回、投稿質問に対し、回答を載せていた。四月下旬ごろから、しばしば、創価学会に対する一方的な中傷を取り上げ、学会の指導は、すべて迷信の妄想などと回答していた。
 回答者は、老子の思想を基調とした、宗教的な小さな団体を主宰する人物であった。彼は、日蓮大聖人の仏法を研究した痕跡すらない男であったが、新聞の回答者としての客観的地位を利用して、あらゆる誹謗を続けていた。彼自身も、既に折伏を受け、感情的な反発を回答に流し込んでいたのである。
 青年部の有志は、これを黙視することはできなかった。直ちに新聞社と回答者に、直接、抗議し、回答者と法論の末、今後、創価学会を迷信、邪教呼ばわりしないことを約させ、一札を取った。しかし、回答者は、露骨な敵意を、その後も改めることはなかった。
 また、地方の新聞のなかには、八月の夏季地方指導での折伏をきっかけに、無認識な批判をでかでかと掲げて中傷するものが出てきた。九月になると、ある新聞が、三面トップに大きく中傷記事を載せたのをはじめ、やがて全国紙も学会のことを取り上げ、批判するようになった。
 さらに宗教団体の機関紙でも、大々的に創価学会を批判しだした。ある宗派では、九月五日、僧百数十人を集めて、創価学会対策の会合を開いた。そして、「創価学会の妄説に惑うな」と大きな見出しを付けた機関紙の臨時増刊号を発行して、同派の全寺院に配布したのである。
3  こうした事態に対して、戸田城聖は、泰然自若として、笑って言うのである。
 「いよいよ御書に説かれた道門増上慢が出始めたところだよ。つまり三類の強敵のうち、第二類の道門増上慢が約束通り出てきただけの話だ。これまでは、第一類の俗衆増上慢といって、家庭や知人、友人などからの中傷批判であった。そのなかで、諸君は立派に信心を貫いてきたわけです。今度は、他宗の僧や新聞が騒ぎ始めたところだ。何も驚くことはない。われわれの広宣流布の活動の途上で、来るべきものが、当然、来たというだけだ。これは、むしろ喜ぶべきことです」
 批判中傷は、喜ぶべきことだと聞かされた会員ちは、キョトンとしていた。果たしてそうであろうかと、内心疑っている表情を見てとると、戸田は御書を取り出して話を続けた。
 「こうしたことは、今に始まったことではない。大聖人御在世の時は、三類の強敵が全部出そろって、あのような法難に遭われたのだ。『種種御振舞御書』を拝読してみれば、当時の道門増上慢が、どういうものだったか、はっきりわかるだろう」
 戸田は、指さした箇所を、側にいた女子部の幹部に読ませた。
 「又念仏者集りて僉議す、うてあらんには我等かつぬべし……」
 読み終わると、戸田は一同に視線を注いだ。
 「この通りであった。大聖人は佐渡へ流されたが、そこでも盛んに折伏をなさって、次々と大勢の島人が帰依してきた。こういう状態に不安になった他宗の僧たちは、大聖人を憎んだ。『又念仏者集りて僉議す』。何を詮議したかというと、『かうてあらんには我等かつえしぬべし』――このままだと、自分たちが餓え死にしてしまうだろうというんです。今の他宗の僧たちの不安と、まことによく似ているではないか。『いかにもして此の法師を失はばや、既に国の者も大体つきぬ』。なんとかして大聖人を殺したい。もう国の者は、あらまし大聖人についてしまったと詮議したわけです。
 そこで、佐渡の念仏の指導者たちは、鎌倉へ行って幕府に訴えた。『此の御房・島に候ものならば堂塔一宇も候べからず僧一人も候まじ、阿弥陀仏をば或は火に入れ或は河にながす』――ちょうど、今、創価学会をこのままにしておくと、自分たちは飯が食えなくなると、他宗の者たちが、新聞を使って騒いで、文部省あたりへ、なんとかしてくれと訴えている。そっくりではないか。
 こんなわけで、今の騒ぎは道門増上慢であることは間違いない。われわれの活動も、ようやく、ここまできたと見て喜ぶべきだろう。このあと、広宣流布が進むにつれて、いよいよ最後の第三類の強敵、僣聖増上慢の時代が必ず来るだろう。これは手強いことを覚悟しなくてはならない。
 その時、もし退転でもするようなことがあったら、なんのために、せっかく信心をしてきたのか、わけがわからなくなってしまう。その時こそ、しっかりしなくてはなりません。そこで、自分の一生が、栄光か破滅か、そのいずれかに決まることを知らなくてはならない。
 今は、まだ序の口の序の口だが、広宣流布の方程式を、ちゃんと進んでいるわけだ。慌てる必要はない。沈着に学会の方針通り進んでいけばよいのだ」
 戸田は、まるで他人事のような落ち着き方であった。

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