Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

推進  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
1  創価学会本部が、一九五三年(昭和二十八年)十一月十三日、西神田から信濃町に移転して、はや三カ月が過ぎていた。
 八畳と続きの二問だけの手狭な旧本部から、一躍、建坪二百余坪(一坪=三・三平方メートル)の本部となったわけである。会員は、誰でも自由に新本部に出入りし、さまざまな会合を開き、楽しみながら信心の糧を吸収し始めた。二階の広間とドア一つ隔てた和室には、戸田城聖が、大きな机を前にして泰然と座っていた。各部門の責任者たちと、随時、会っては、一人ひとりを磨き上げるように、談笑のなかで大きく包容し、そしてまた、時には厳しい指導を与えていた。
 首脳幹部は、彼の部屋に、いつでも入ることができたが、時に、このドアを開けることに躊躇し、ドアの前で太い息をつかなければならないこともあった。事故などを報告に来た人には、ドアは極めて重かったのである。それでも彼らは、戸田の顔を見たかった。悩みがあればあるほど、戸田の膝下へと心は急いでいた。いざ、ドアに手をかける時、喜びと恐れの入り交じった、一種異様な感情にとらわれたが、それを押しのける磁力ともいうべき力に導かれて、扉を開けた。
 彼らは、会長室に入るには、いつも一種の勇気が必要だと思っていたが、実は、部屋で待っている戸田の人間的魅力が、ドアを越えて磁気として彼らに働いていたといった方が適切である。
 ひとたび、心に重かったドアを開けて部屋に入ると、戸田は、その瞬間の姿で、面接に来た人の心を、鋭く直覚してしまうのである。叱られることを覚悟して入った人には、戸田は、不思議なことに、決して叱ることがなかった。ただ漠然と彼の意見を聞きに来た人には、戸田は極めて無愛想であった。訪ねて来た人の求道心の強さだけが、戸田の口を開かせたのである。
 戸田の、この部屋での指導は、市ヶ谷の分室での数々の指導を思わせたが、組織の急激な発展による会員の増大から、分室での指導の形態を、そのまま、ここに移すわけにはいかなくなっていた。
 なにしろ、隣の広聞に唱題に来る人びとは、午前から午後にかけて、ひっきりなしにやって来る。何ものかを求めてやって来る、これらの人びとに、いちいち面接していたら、それこそ戸田には、食事の時間もなければ、息をつぐ暇も皆無になったにちがいない。常に先手先手と打っていくための構想を思索する余裕さえも、ほとんどなかったであろう。
 五四年(同二十九年)の一月から、彼は、一般会員の面接をやめざるを得なかった。そして、十数人の支部長ら幹部を、彼の代理として、毎日、交代で面接にあたらせたのである。階下の一室を、そのための一般面接室とした。面接指導で、支部長たちがてこずるような難問にあった時、支部長は、会長室へ行って、彼の指導を受けた。
 階下には、聖教新聞の編集室も移ってきていた。電話のベルが、ひっきりなしに鳴り、部員も増員されて、生き生きとした雰囲気に満ちていた。そこには若々しさがあり、希望へ向かう戦いの響きがあった。二階は唱題の声、時には会合のさざめき、階下電話のベル……。建物全体は、静かな屋敷町のなかにあって、明るい活気に満ちていた。
2  二月初旬の、寒いある日のことである。
 関東の小都市に住む、一人の地区部長が本部を訪れた。
 そのころ、地方都市に居住する会員は、蒲田支部や足立支部などのもとにある、さまざまな地区に所属して活動していた。それらの会員が、地域でまとまって価値的に活動できるように、統監部の手で組織の再統合が進められていた。そのようにして、新地区が各地で結成され始めていたが、彼は、そうした地区の新任地区部長の一人であった。
 顔なじみの少ない、各支部の会員の寄り合い地区である。いざ統合されたとなると、さまざまな混乱が起きていた。新地区員たちにしてみれば、見も知らなかった彼が、いきなり地区部長になったのである。多くのメンバーが、抵抗を感じていたようだ。おまけに、その都市には、多くの班長がいたにもかかわらず、組長であった彼が、一躍、地区部長に抜擢されたのである。快く思わぬ先輩会員も多かった。新地区設立は、少なからず混乱を巻き起こしたといってよい。
 苦しんだのは、この地区部長である。彼は、支部長にしばしば応援を依頼したが、支部長の言う結論は、いつも同じであった。
 「応援はする、しかし、要するに、一切は、あなたの信心ひとつにかかっている。あなたの信心が確立すれば、地区としての団結も、おのずから生まれるはずです。地区部長である以上、いつでも戸田先生の指導を直接に受けることができるではないですか。これ以外に、あなたの信心が急速に確立する道はないと思うよ」
 支部長の指導は、抽象的に思えたが、適切な助言であった。
 地区部長は、戸田に指導を受けようと決心したが、さて、何をどう質問すべきかさえわからなかった。
 私鉄の駅の首席助役である彼は、四日に一度は、丸一日の休日がとれた。これらの休日を利用し、地区内の見知らなかった会員の家を、一軒一軒、地道に回り始めた。五四年(同二十九年)当時のことである。
 まず、貧しい家が多いのに驚いた。それよりも驚いたことには、入会とは名ばかりで、勤行している形跡すらない家もあったことだ。信仰の根本ともいうべき御本尊が、ホコリまみれのままの家さえあった。
 彼は、自分の指導力の弱さに、自らを嘆かなければならなかった。負けてはならぬと思ったものの、数々の問題は、自分の手に負えぬことばかりである。ぐったりと疲れて家に帰り、意気消沈することもあった。そのうち、″会長のところへ行け″という支部長のいつもの言葉が、見る見る現実性を帯びて浮かび上がった。
 地区の当面している問題を、彼は、一つ一つノートに取って、箇条書きにした。その項目は二十余りになった。彼は、このノートを手にし、次の休日を待って本部へ向かったのである。
3  彼は、会長室のドアを軽くノックした。応答はない。深呼吸して、意を決したように扉に手をかけ、そっと開けた。その瞬間、戸田の声が耳に飛び込んできた。彼は、やや緊張した面持ちで、すっと部屋に入った。
 「先生、こんにちは!」
 うわずった地区部長の声に、戸田の声が返ってきた。
 「おう」
 部屋のなかでは、大きな机を囲んで、数人の幹部が会議中であるらしい。
 地区部長は、部屋の一隅に座ったものの、いささか場違いの感じで落ち着かない。ノートを膝の上に開いて、自分の心を無理にも抑えようとした。
 よく見ると、それは会議ではなかった。教学部の最高首脳陣が、戸田を囲んで御書の校正刷りに目を通しながら、疑点を一つ一つ、戸田にただしているところだった。誰一人、地区部長に目をくれる人もいない。
 彼は、御書の再版が、五月に刊行されるということは聞いていたが、今ここで、こうした真剣な校正がなされているなどとは、考えもしなかった。彼は、ますます硬くなった。
 御書の再版は、二万部の予定で昨秋から進められている。再版が正月に発表されてみると、予約注文は三万五千部に上った。先月末の本部幹部会では、四万部の再版が発表されたばかりである。
 戸田は、校正担当者の相次ぐ質問に、てきぱきと回答を与えている。
 しばしば彼の口から、「畑毛の猊下、猊下に……」という言葉が出た。部屋の空気は、いやでも厳粛さが漂う。地区部長は、その張りつめた雰囲気に、ますます硬くならざるを得なかった。
 地区部長は思った。
 ″とんでもない時に、とんでもないところへ来てしまった″
 彼は、後悔した。
 ″自分の存在は、今、明らかに場違いというほかはない″
 彼は、気兼ねして、そっとノートを閉じた。そして、黙ってあいさつし、部屋を出ょうと立ち上がった。
 「よう、よく来たな。すぐすむから待っていなさい!」
 地区部長は、″おやっ″と立ち止まった。まさしく戸田の声である。
 地区の統合式の時に、初めて戸田に面接した彼である。強度の近眼の戸田が、さっきから自分が来たことを知っていたと思うと、彼は嬉しかった。
 「はい!」
 彼の顔は輝いた。彼は、素直にまた座った。初めて落ち着きを取り戻した彼は、またノートを広げ、質問項目を黙って読み始めていた。
 校正刷りの点検は、なかなか終わらない。その作業は、もう数時間にもわたっていた。人びとの顔は、寝不足の疲労の影さえ浮かんでいる。
 やがて戸田は、一段落を終えて言った。
 「あと幾らもないが、今日は、このぐらいでよかろう。あす、畑毛には山平君と誰が行くか。……山際君も行けるね」
 「はい、土曜だから行けます」
 「では、二人に全権を委任しよう。猊下のご意見をよく伺って、今度こそ決定版にしなければならない。御書を間違えたとしたら、永遠に大聖人の仏法を誤って伝えることになる。これは恐ろしいことだ。令法久住ということは、正しく伝えてこそ令法久住です。われわれが決定版にしようとするのも、そのためです。しかし、やってみると、こんな難しいことはないな。七百年後の今日、やっと緒についたところだ。大変だろうが、最後まで緻密に、正確にやるように頼むよ」
 それから戸田は、一人ひとりを見渡しながら言った
 「学会の教学部の仕事は、令法久住という点からいっても、非常に重大なんだよ。しかし、いくらわれわれが頑張っても、畑毛の猊下がおいでにならなかったら、どうにも仕方がなかったろう。この機を逸してはならないことを、諸君もよくわかってもらいたい」
 戸田は、決定版の重要さを、あらためて説いてから一同をねぎらつた。
 「あと、もうひと息だ。無理なのは承知です。しっかり頑張ってもらいたい。今日は帰りに、そこの中華料理屋へでも行って、栄養を補給しなさい。会計は、ぼくに回しておけばいいよ」
 一同は、分厚い校正刷りをそろえ始めた。やがて戸田に一礼して、部屋を出て行った。

1
1