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日蓮大聖人・池田大作

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匆匆の間  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
1  一九五三年(昭和二十八年)になると、戸田城聖の一日は、さらに多忙になった。それこそ席の温まる暇は、全くなかったといってよい。
 月々の行事は、拡大の一途をたどった。まず、″一級講義″と呼ばれた方便品・寿量品の講義と、″一般講義″といわれた御書の講義を、ほぼ毎週、東京・池袋の豊島公会堂で行っていた。さらに、毎月二回ずつの水滸会と華陽会、そして、随時の理事会、男女青年部や婦人部などの首脳会議、その間にはさまれる地方支部の総会等々、数えあげれば、きりがなかった。
 戸田は、彼自身の生活と、自在な活動をするための資金を得るために、「大東商工」の経営に携わっており、毎朝、始業前に、山本伸一をはじめ、数人の社員に対して、小一時間、万般の学問を講義していた。わずかな時間ではあったが、毎朝のことである。戸田の、生気はつらったる指導と相まって、社員たちが、社会で存分に活躍できるための基礎知識を身につける早さは、乾いた砂が水を吸うのにも似ていた。
 そのころの大東商工の営業部長は、伸一であった。戸田は、誰よりも伸一のために、講義の時間を、毎朝、割いた。伸一の薫育を、彼は、自分の義務としていたからである。
 戸田は、自分の事業が苦境に陥った時、夜学を断念し、体を張って事業の再建に取り組み、活路を開いてくれた伸一に、自分が知り得る限りの学問を、すべて授け与えたかったのである。それは、まさに″戸田大学″ともいうべき、学問研鑽の場であった。
 午前九時過ぎになると、営業活動は始まった。商談の折衝やら、顧客への対応について、戸田は、こまごまとした指示を次々と与えながら、実業家としての商魂に徹して全力を投入する。全機能を、いつもフルに回転させていった。
 午前の激務が、正午ごろに一段落すると、戸田は、軽い疲労を覚えながら昼食をとる。食事は、かなりカロリーの高いものを心がけていた。彼は、悠然と食事をすますと、しばらく休息しながら、思索の時間をもった。
 このころになると、二階の廊下は、人びとの足音でざわついてくる。同じ階にある分室へ、学会員たちが詰めかけて来るからである。分室というのは、「創価学会分室」である。戸田は、大東商工の事務室への出入りは、商用の人だけに限っていた。仕事と学会活動を厳しく区別して、いささかも混同することはなかった。
 分室といっても、四、五坪(一坪=三・三平方メートル)の狭い部屋である。手を思いきり伸ばせば届きそうな低い天井の下に、東側に幅一メートル余りの窓がついているだけの粗末な部屋であった。
 その窓を背にして、戸田の机が一つ置かれている。机の前に、七、八脚ばかりの木製の長イスが並んでいた。なんのことはない、どこかの病院の待合室といった体裁であった。この待合室に、戸田が姿を見せると、そのまま直ちに診察室に変わるのである。
 午後になると、この部屋に、人生の患者たちが、どこからともなく、わんさと押しかけて来た。多い日には、六十人を超すことも珍しくない。悩み、苦しんでいる人びとばかりの群れである。
 その悩みも千差万別であった。医者に見放された病人もいれば、債鬼に追われて自殺寸前のような蒼白な顔の、町工場の経営者もいる。夫の浮気に悩み、怒りの形相で指導を待つ婦人もいた。
 その姿は、他のいかなる手段をもってしても癒やし得ない、苦悩に満ちた人間社会の実態といってよい。いわば、この分室に集まって来る人びとは、誰もが思案の果ての絶望感に苛まれていた。
2  長身の戸田は、窓を背にしてイスに着くと、軽い咳払いをしながら、気さくに話しかけた。
 「どうした?」
 この日、いちばん早く来て長イスで待っていたのは、三十歳ぐらいの母親である。その側に、四歳ばかりの男の子がいた。
 「お願いいたします」
 母親は、中腰になり、深く頭を下げて、子どもを前へ突き出すようにしながら話し始めた。深刻な顔である。
 「この子のことでございますが、口の中から血がいつも滲んで出て、どうしょうもないんです。このごろは、パンなどをやりますと、白いパンが真っ赤になることもあるんです」
 母親が、ハンカチで子どもの口を拭くと、赤く血が滲んでつくのだった。子どもは、弱々しく母親のなすままに任せ、つぶらな目で、戸田をじっと見上げていた。
 「医者は、なんと言っているのかな?」
 戸田は、子どもの口を開けさせて、案じ顔に首をかしげた。
 「それが、お医者さんも、『よくわからない』と言うのです」
 「やっかいな病気だね」
 戸田は、ため息をついた。そして、母親の顔に鋭い眼差しを向けて尋ねた。
 「入会はいつ?」
 「昨年の四月です。おかげさまで、この一年余りの間、それは数々の功徳を受けました。しかし、この子のことを考えますと、本当に不憫で……」
 母親は、涙声で身の上話を始めた。
 入会前、夫と離別し、四人の子どもをかかえて苦闘したが、この間に長男を病で失っていた。
 入会してから、不思議に生活は向上し、安定したものの、この二、三月ごろから、末の男の子に出血の症状が起きたのである。
 夜、布団に入って体が温まると出血がひどくなるので、寒い夜でも、板の間に着物のまま寝かせなければならなかった。それでも朝になると、子どもの口から滲んだ血は枕を染めて、蒼白な顔で横たわっている。それは、母親にとって、身も心も細る苦悩であった。
 戸田は頷きながら聞いていたが、母親の苦悶の話に愚痴のないことを知って、いとおしく思った。
 「医者で治る病気は、医者で治せばよい。しかし、医者で治らぬ病気は、いったいどうしたらよいのか。これが大問題です。世の中には、医者で治らぬ病気が、たくさんある」
 彼は、水の入ったコップを手にしながら話を続けた。
 「業病といって、そのような病気の方が多いかもしれない。原因が宿業にあるとしたら、これは、この信心でなければ根本的な打開はできません。
 あなたは、よかった。ものすごい力のある御本尊様を頂いている。真剣に、真剣に、お願いしなさい。生命の本源力が、それだけ活発に動きだしていくんです。治らぬはずがあるものか。いいかな、私は嘘を言っているのではない」
 戸田は、渾身の力を振り絞り、大確信を込めて指導するのであった。その慈愛は、母親の心の底を揺すった。母親は、感極まって泣きだした。
 戸田は、母と子を見守りながら、さらに激励していった。
 「あなたは、真面目に信心してきたようだ。私には、それがわかるのだよ。信心を始めて、末の子どもも病にかかったということは、いよいよ業が出てきたという証しなんです。
 今、私には、どうしょうもないが、ここで約束してほしいことは、生涯にわたって、絶対に退転などしないということです。決して、御本尊を疑わないことだ。その覚悟があれば、あとは必ず妙法の力によって、なんらかの実証が厳として出てくるだろう」
 「はい、わかりました。ありがとうございます」
 母親は立って、深々と頭を下げた。そして、何度も礼を繰り返して去っていった。
 母親は、それから数日後に、報告に訪れた。
 ――指導を受けて、決意をして題目をあげ始めたところ、子どもの出血は完全に止まったというのである。
 「今では、血の気を失っていた子どもの頬に、うっすらと赤みもさしています」
 母親は、感涙を浮かべて語るのであった。
3  次に、戸田の前に座ったのは、四十過ぎの男性であった。
 語るところによると、彼は、自動車部品の工場主で、製造販売を業としているのだが、赤字経営がひどくなり、給料も払うことができなくなった。従業員は次々と退職し、経営は全く困難となり、金策もままならない。精根尽き果てて、工場、敷地を三百万円で売却して逃げ出そうという絶望状態の時に、知人の勧めで入会した。
 新しい希望をもって、今日まで信心に励んだものの、窮状は、ますます悪化するばかりだった。そして、戸田の指導を仰ぎに来たのである。
 「入会してからは、朝夕の勤行はきちんとやっております。折伏もできないながらもやりました。しかし、資金の調達もできず、苦境は極点に達し、今、絶体絶命なんです……」
 入会したら、なお悪化したとも聞こえる口ぶりであった。戸田は、その男の業種について詳しく問いただしてから、極めて平静に言うのであった。
 「わかった。ここまで苦しんでくれば、しめたものです。それにしても重病なんだから、百日くらいは一生懸命に頑張ることだ。必ず解決するよ。今、金のできないことは、むしろ君の将来にとっては、いいことかもしれない。後になれば、すべてがわかるだろう。疑わずに、ただ、日々、前へ、前へと進む信仰であることだ」
 入会間もない男である。
 彼は、戸田の呆気ないばかりの指導に、半信半疑の面持ちで帰っていった。しかし、彼は、指導に忠実に従ったのである。
 数カ月の後、彼は、支部の幹部会で、確信に満ちた体験を発表している。
 「工場は、操業停止のやむなきにいたり、手も足も出なくなり、思い切って戸田先生に指導を受けました。ほかにどうしようもないので、ただ指導通り実行しようと強く決心し、それから真剣に御本尊様にも祈念し、さらに折伏もしました。
 すると、だんだん生命力が湧いてきたのです。それにしたがって、今まで考えられないような有利な条件で、毎月、定期的に生産すればよいという注文が入りました。こちらは資金を一文も出さないで、しかも以前とは比較にならぬ利益率です。夢かとばかり喜びましたが、さらに、もう一カ所からも有利な条件で注文が入りました。
 重ね重ねの現証に、私は自信がついてきました。今では、十八人の従業員と共に、連日、多忙な作業に従事しております。私の心境が変わったら、社員たちも生まれ変わったように、はつらつと頑張ってくれるようになりました。今では、この人たちに、立派な寮でも早くつくってあげたいぐらいです。
 あれほど奔走しても、資金の調達ができなかったことは、今になってみれば、戸田先生のおっしゃる通り、私にとっては利益でありました。もし、あの時、資金ができたとしたら、焦っていた私は、おそらく赤字の事業を継続して、さらに収拾のつかない状態に追い込まれ、首でもくくっていたことでしょう。
 後にならなければ凡人にはわからぬ、御本尊様のすごさと、戸田先生の指導のすばらしさを、身に染みて思う昨今であります」

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