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日蓮大聖人・池田大作

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離陸  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1  鳳は、大地を蹴って飛び立とうとする瞬間、最大の力を出す。
 飛躍的な成長の過程は、幾つかの苦悩の壁を破る道程でもある。苦しみを乗り越えたあとには、見違えるような、広々とした戦野が開けてくるものだ。
 三カ月にわたった笠原事件は、宗門にとっても、また学会にとっても、長く苦しい戦いではあったが、それは、広宣流布の途上における重要な試金石でもあった。
 そして、そのあとには、総本山大石寺での五日間にわたる夏季講習会が、晴れやかに待っていた。八月一日から五日まで、五日間を二つに分けて、前半、後半の、それぞれに参加する人、一日だけ参加する当日グループ、そして全期を通しての参加者と、四つのグループに分かれて講習会に臨んだ。その総人数は、千五百人にのぼり、一年前の一九五一年(昭和二十六年)の夏季講習会参加者九百人に比べて、約七割の増加であった。
 多事多難であった数カ月の間にも、学会は、力強い滑走を続けていたのである。そして、今、轟音を響かせて、滑走から離陸の体勢に移ろうとする寸前であった。
 八月二日、戸田城聖は、宗務院に出向いた。そして、誠告文に対する書状を、宗務院の庶務・教学・財務の三部長列席のもとに、法主の日昇に提出した。戸田が、書状に認めた五重塔の修復を、あらためて願い出た時、日昇は、その志を喜び、こう述ベた。
 「このたびの事件を機会に、ますます折伏の本領を発揮されんことを望みます。なお、五重塔の修復の件は、まことに結構なことで、心してその任にあたっていただきたい」
 戸田は、決意を新たにして、日昇の前を退出した。台風一過、夏の燦たる太陽を仰ぐ思いであった。
 この夜、戸田は、直ちに宗務院の三部長、ならびに総本山の僧侶全員を寂日坊に招待し、一夜の宴を張って言った。
 「四月の記念祭での神本仏迹論をめぐる事件について、先日、御法主上人より、ありがたい誠告文を賜り、本日、その御詫状を奉呈いたしました。なお、願い出の五重塔の修復の儀についても、お許しをいただきました。これで、すべて明確な結末がついたわけであります。
 思うに、宗門興隆の基礎は、僧俗一体となっての本尊流布の活動にあると存じます。今日まで、僧俗、おのおの、その分野において精進してまいりましたが、一体の実がなかったうらみがありました。
 このたびの事件から得た最大の教訓は、僧俗互いにその理解を深め、宗開両祖が機会あるごとに力説なさった僧俗一体ということについて、深く思いをいたすことができたことであります。
 今後、広宣流布達成の日まで、願わくは、このたびのごとき事件を再び惹起することなく、僧俗一体の強い絆を堅持してまいりたいと思うばかりであります。
 今夕は、その第一歩として、ご参集願った次第であります」
 居並ぶ僧侶も、学会の理事、支部長たちも、共に戸田の言葉をかみしめる思いで聞いていた。
 宴は盛会のうちに終わり、今後の一体の精進を、互いに誓い合ったのである。
 夏季講習会は、連日、日昇からの法話と、戸田の御書講義と、清原理事による『折伏教典』の講義の三つを軸として行われた。
 また、それぞれの宿坊では、座談会が活発に開かれた。生き生きとした人間の対話であり、実像であった。なかでも体験談は、どの会場でも引きも切らず続出した。特に、仙台や大阪の、信心してまだ日の浅い学会員の体験談には、目を見張るものがあって、感動の渦を巻き起こした。
 戸田は、この新鮮な感動を貴いものとした。百万言を費やした指導も、心の底からの感動をもって受け止められなければ、いたずらに空転ある。所詮、信心といっても、人びとの生命の新鮮な感動にほかならないからだ。
 その意味から言えば、学会首脳幹部の方は、ここ数カ月にわたる活躍の疲労の影が、さすがに残っていて、指導は十分に打ち込まれたとはいえなかった。
 戸田は、いち早く、これを察知していた。五日間の夏季講習会が終わって、それぞれ総本山を後に故郷に向かった時、彼は、三門に立って、側にいた幹部に、その感想を語った。
 「残念に思ったことは、今年は思いがけない多人数になったために、学会再建当時に見られた厳しい教育、訓練ができなかったことだ。
 夏季講習会は、まだ工夫の余地がある。来年は、もっと教学を中心として、一騎当千の闘士養成のために、徹底的な訓練の講習会にしたいと思うが、どうだろう?」
 戸田の真骨頂は、この鋭さにあった。誰もが講習会の感激に酔いしれている時に、一人、彼だけは急所を外さなかった。そして、その鋭い信心のレーダーで、的確な指標を与えることを忘れなかったのである。
2  講習会が終わると、この年の夏には、もう一つの大きな戦いが待っていた。それは、最初の本格的な弘教の全国的展開である。そのため、講習会を終わって、ほっとする暇もなく、幹部は総出で各地に飛んだ。
 大阪、名古屋、福岡と、三方面における、八月八日から二十五日まで、半月余りの長期間の戦いであった。
 いずれも日本の主要都市で、人口密集地帯であったが、東京方面とは違って、学会員は、驚くほど、まだ少なかった。大阪は四十数人、名古屋は数人、福岡は八女地方に三十人余りが点在するにすぎなった。
 戸田は、全国作戦の構想を、久しくあたためていた。そして笠原事件で、首脳幹部が全国の各地の寺院に率先して飛んで行ったのを見て、いよいよ、その機が熟していることを知り、直ちに実行に移したのである。
 この夏季地方指導で、福岡方面を担当したのは、清原理事、関青年部長はじめ、男女青年部の幹部ら七人であった。
 唯一の拠点は、福岡県八女郡福島町の田山一家である。田山は、牧口時代からの古い学会員であったが、遠隔地のため、本部からの指導の手も十分でなく、三十人そとそこの学会員を維持することが精いっぱいの状態であった。
 このような地に、七人が派遣されたのである。
 派遣隊は、到着すると即座に作戦会議を開いたが、意見は二つに分かれた。八女地方の福島町を拠点とするか、縁故は全くないが、福岡、久留米の都市を中心として折伏の駒を進めるべきか、と迷ったのである。
 結局、前半は久留米に全力を集中して開拓し、後半は福島町の拠点で戦うことに意見の一致をみた。
 炎天のもと、汗にまみれて、見知らぬ久留米の町を軒並みに、「聖教新聞」の特集号と講演会のビラを配って歩いた。あるいは、トラックの上から、「仏教大講演会! 仏教大講演会!」とマイクで叫びながら、ビラを撒いたりもした。文字通り新天地の開拓であった。建設の意気に燃えた勇気ある人びとにとって、むしろ戦いの苦難は、希望と歓喜を呼び起こしていくものであった。
 このような準備活動の末、当日の講演会には、二百五十人余りの人びとが訪れ、会場の講堂を埋めた。講師は派遣隊のメンバーである。
 全力投球の講演が終了すると、講演会場は座談会場に変わり、各グループに分かれて活発な折伏が展開された。そして、十七人が入会を決意したのであるが、そのうち御本尊を受辞した人は十人であった。
 派遣隊の一行は、福島町に戻ると、直ちに激しい闘志を燃やして、次の戦いへの準備活動を開始した。二十日の講演会をめざし、来る日も、来る日も、学会員の縁故者をたどって、歩きに歩いたのである。
 十九日朝、戸田城聖が、飛行機で福岡に到着した。彼は、名古屋、大阪と転戦し、最後に福岡へ来たのである。それを聞いて派遣隊が、どんなに勇躍したかは言うまでもない。
 翌二十日夜の八女公会堂の講演会には、約三百人が集まった。講演会の時間は短縮し、その後の座談会に多くの時間を割いた。一人ひとりとの生命の触れ合いによって、折伏の対話を進めたのである。
 会場での対話から、三十七人が入会を決意し、そのうち二十七人の人が御本尊を受持した。この大勢の入会は、三十数世帯の八女支部にとって、夢想だにもしないことであった。
 まことに信心の躍動は、折伏から始まるといってよい。さらに折伏は進み、久しく、くすぶり続けていた八女支部は、ここで一挙に花咲くように蘇生したのである。その後、組織の整備をしてみると、福岡地方は八十四世帯の陣容となり、七地区が結成された。
 散在する学会員が、派遣隊との別れの二十五日に集合した時、どの顔も元気で笑顔に輝き、来年の夏には、福岡市へも進出しようと、口々に誓い合っていた。
 中野支部の神田丈治をはじめ、七人が派遣された名古屋は、広宣流布の未開拓地で、数人の学会員の住所がわかっているだけであった。もとより派遣隊は苦戦を覚悟してはいたが、焦熱のもと、昼間の苦闘は言語を絶したといってもよい。
 彼らには、頼るべきものは何もなかった。″徳川時代末期、永瀬清十郎が、尾張方面で果敢な折伏活動を展開したので、その時に入信した人びとの子孫が、必ずいるにちがいない。その子孫がわかれば、何かの足がかりになるかもしれぬ″と、かすかな期待をいだく人までいた。ともかく、「落下傘部隊」の覚悟を要したのである。
 講演会の準備活動として、見知らぬ家を一軒一軒訪ねた時、「聖教新聞」の束を小脇に抱えた派遣隊の姿を見て、ある家の主人は、いきなり怒鳴った。
 「うちは、新聞はもう、たくさんだよ!」
 また、ある家では丁重に応対されたが、これも実は、税務署員と間違えられてのことだった。
 八月十二日、商工会議所で、「仏教大講演会」と題して講演会をもったところ、聴衆は約百人を数えた。しかし、講演会に熱が入りすぎて、座談会に移行する時間的余裕を失ったので、座談会は、明くる晩に行うことにして散会した。
 翌十三日夜は、戸田城聖も名古屋を訪れ、派遣隊の宿舎で行われた座談会に出席したが、参加した人は、わずか六人にすぎなかった。
 入会を決意したのは四人で、そのうち御本尊を受持したのは、一人という成果であった。
 苦戦は続いた。神田たちは、炎熱に焼けながら町を歩き続けた。講演会の出席者を、一人ひとり訪ねていったのである。また、縁故者の糸をたどって、ある保険会社の支社長を折伏した。
 こうして二十日までに、ともかく貴重な十一世帯の入会者をみたのである。
 二十日夜の新入会者座談会では、「同志の歌」が歌われ、いささか悲壮な空気が漂った。開拓者の道は厳しかった。どんなに力を込めても、なかなか最初は軌道に乗らない。彼らは、さまざまに試行錯誤し、体当たりの実践をもって、厚い壁を地道に打ち破っていく以外になかった。
 この時の戦いは、華々しい成果をみなかったが、その努力は、決して空転ではなかった。十一世帯という少ない数ではあるが、ともかく後の発展への第一歩を築いたからである。
 二十一日、名古屋派遣隊は、真っ黒に日焼けした顔で東京に戻ってきた。
3  一方、大阪へ向かった原山、小西両理事の一行六人は、広漠とした大阪市のなかに没入した。
 ここには、四十数人の学会員が散在していた。春木支部長をはじめ、入会して日は浅いが、何人かの幹部も育っており、率先して協力を惜しまなかった。
 大阪では、昼間は、それぞれが折伏を行い、夜は数カ所で座談会を開くという方法を、基調としていた。これを実行できる体制が、大阪には、できていたのである。また、講演会も行われた。
 この時の折伏で使われた講演会のビラが一枚、こにある。
 粗末なワラ半紙に謄写版で印刷され、その裏面には、座談会の日時と会場とが列記されている。多い日には、一日四カ所もの会場が載っている。
 どんな文句で講演会をうたいあげていたか、今は懐かしい歴史的な思い出となったこのビラを、ここに写してみよう。
 「仏教大講演会
 第一日 昭和二十七年八月十三日 午後六時
     場所 於天六・北市民館
 第二日 八月十五日
     場所 大阪市大阪城前 於大手前会館中講堂
     主催 創価学会
 来たれ! 病苦に悩む人々よ。生活苦に悩む人々よ。人生問題に迷う人々よ。宿命に泣く人々よ。
 知れ! 百発百中の実験証明あり。科学を指導する大哲学である。一切の宗教にメスを入れる批判の原理である。
 掴め! 祈りとして叶わざるなく、福として来たらざるなく、罪として滅せざるなく、理として顕れざるなきなり」
 そして最後に、「偉大なる大宗教あり」と記されていた。
 裏面の座談会場を見ると、大阪全市から、堺、神戸までの広範囲にわたっている。
 今日から見れば、実に微笑ましいビラである。表現も、いささか素朴ではあるが、まことに簡にして要を得ていた。しかも、文章に勢いがある。それは、まさに大空へ離陸せんとしていた、当時の学の、みずみずしい息吹を、実によく表していたといえよう。
 創価学会という耳なれぬ文字を見て、当時の大阪の人たちは、なんと思ったことであろう。おそらく、″新宗教″の変わり種と考えたにちがいない。
 それでも、人口調密な大阪のことである。十三日夜の北市民館には、七十五人の参加者があった。このうち学会員以外の参加者は四十人であったが、講演に力が入りすぎて、座談的な折伏の機会を逸してしまった。
 しかし、既に、毎夜、各地で聞かれた座談会で、折伏の成果は、かなり上がっていた。たとえば京都の座談会などでは、ある教団の信者十一人が参加し、そのうち九人が入会を決意したのである。
 これは、その教団幹部の長男が、積極的に協力した結果だった。彼は東京で創価学会に入会して、親を手紙で折伏していたが、埒が明かなかった。そこで、今回の夏季地方指導で、原山理事と打ち合わせて、親の家に、その教団の会員を集めていたのである。縁故というものは、不思議なものである。彼の折伏の熱意によって、たちまち仏縁と化していったのである。
 大阪での弘教が盛り上がりをみせていた八月十五日、戸田城聖が、大手前会館の講演会場に姿を現した。
 彼は、予定されていた演題のなかから価値論を中止させ、全体的に時間を短縮して、その代わり、閉会のあとに質疑応答の時間を多くもたせた。そして、その夜は、幾つものグループに分かれて語り合い、折伏を行った。
 臨機応変の、的を射た処置である。戸田の狙いは、常に、一人ひとりの人間を、いかに納得させるかに置かれていた。一人の人間の心の奥の襞までつかむことなくして、民衆救済はあり得ないからだ。人間味丸出しの裸の対話――このなんの虚栄も見栄もない地道な実践こそ、学会精神の骨髄といえよう。

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