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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

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1  日蓮大聖人が、立宗を宣言した四月二十八日――それから七百年目に入った一九五一一年(昭和二十七年)のその日、戦後七年にして、ようやく米英など関係国と日本国との平和条約、いわゆる対日講和条約が発効した。したがって、この日をもってGHQ(連合国軍総司令部)は廃止となった。日本は、曲がりなりにも独立国に戻ったのである。
 戦後の七年という歳月は長かった。敗戦と、飢餓と、インフレーションと、果てしない生活上の困窮に悩み抜いた七年だった。
 初めて体験した敗戦という現実を、一人ひとりが、いやというほど実感したにちがいない。
 無謀な戦争の爪痕と残骸――その悲哀を一身に受けるのは、常に罪のない民衆である。この不条理から、人類は、いつ解放されるのであろうか。
 自由ほど尊いものはない。人びとは、抑圧と拘束のなかに身を置いた時、初めて、その尊さを、しみじみと実感するものである。GHQの占領政策のもとにあった国民にとって、この独立によってもたらされた自由は、何ものにも代えがたく思われた。
 講和条約が発効したことによって、国内には一種の解放感があった。
 しかし、全面講和ではなく、社会主義諸国などを除く国々との講和であった。また、米軍基地は、同時に結ばれた日米安全保障条約によって、日本列島の随所に、そのまま残っていた。日本の民衆は、GHQの廃止と聞いただけで、ほっと安堵の一息をついたものの、前途に一抹の不安をいだいていた。
 講和条約が発効した四月二十八日から、わずか三日後の五月一日、東京で思いもかけなかった事件が起きたのである。それは「血のメーデー事件」として、今日も記憶されている出来事である。
 独立後の最初のメーデーである。勤労者たちは、戦後初めての解放感を味わっていたといえよう。中央集会の会場である神宮外苑に集ってきた人びとの表情には、解放がもたらした、はつらつとした活気がみなぎっていた。
 四六年(同二十一年)のメーデー復活以来、五〇年(同二十五年)まで、中央集会の会場には、皇居前広場が使用されてきた。ところが、同年五月末に皇居前広場で行われた人民決起大会の折に、大会参加者が、米兵に暴行を加えるという事件が起きた。このため八人が米軍の憲兵に逮捕され、軍事裁判にかけられたのである。この事件があってから、皇居前広場での集会はできなくなっていた。
 五一年(同二十六年)も、使用禁止のままであった。そこで総評(日本労働組合総評議会)は、同年十一月に、翌五二年(同二十七年)五月一日のメーデーに備えて、皇居前広場の使用許可を厚生大臣に申請していた。これに対し、年を越えた五二年三月十三日に、厚生大臣は、国民公園管理規則に基づいて、不許可処分とした。
 そこで総評は、四月四日、東京地方裁判所に対して、不許可処分の取り消しを求める訴えを起こした。東京地裁は、スピード審理を行い、四月二十八日に判決が出た。判決の主旨は、「国民公園管理規則に基づいて中央メーデーでの使用を禁止するのは不適切であり、集会の自由を認めた憲法二一条にそぐわない」というもので、不許可処分は取り消すべきであるという内容であった。
 スピード判決ではあったが、判決が確定するまでは、不許可処分は有効である。厚相は、「断然控訴する」と談話を発表した。三日後に迫ったメーデーで、皇居前広場を使用することは不可能となった。やむなく総評は、中央集会を神宮外苑で行うことに決めたのである。
 メーデーの当日、新緑の神宮外苑は、午前十時ごろには、主催者によると約四十万の大衆で埋まっていた。
 そよ風が流れ、絶好のメーデー日和といってよかった。講和条約の発効から三日後である。会場には自由な雰囲気が漂い、解放感にあふれた行事は、華やかに進んでいたかにみえた。
 午前十時二十分に始まった祭典は、来賓あいさつ、各組合代表の演説、祝電の披露、「再軍備反対、民族の独立を闘いとれ」「低賃金を統一闘争で打ち破れ」などのメーデースローガン決議の採択と進んでいった。
 その最中に、突然、百人を超える過激派組合員が、壇上に駆け上がった。彼らは、口々に叫んだ。
 「実力をもって人民広場へ行こう!」
 人民広場とは、皇居前広場のことである。これで一時、壇上が混乱したが、なんとか収拾されて式は終わった。
 この後、午後零時半ごろからデモ行進に移った。
 デモ行進の参加者は、十四、五万人で、中部、東部、西部、南部、北部の五方面のコースに分かれて行進を始めた。
 五つの集団は、それぞれ行進した目的地で解散することになっていた。
 このうち中部コースのデモ隊と、南部コースのデモ隊は、日比谷公園を終着点としていた。
 都労連(東京都労働組合連合会)が主体となった五万八千三百人の中部コースの方面デモ隊が、赤坂表町付近を通過するころ、都学連(東京都学生自治会連合)の学生など約五千人が後ろから追い抜き、彼らは、「人民広場へ行こう」と呼びかけながら先頭に立った。
 午後二時ごろに、中部コースと南部コースのデモ隊は、解散地点の日比谷公園に到着した。本来なら、ここで流れ解散であったが、過激な一部のデモ隊に促されるように、多くの人びとが、皇居前広場に向かった。この時点で、デモは無届けデモとなった。
 このデモ隊が日比谷交差点を通り、馬場先門にさしかかったのは、午後二時二十分ごろであった。
 そこには、無届けデモを阻止するための警官隊が配置されていた。しかし、警官隊は、デモ隊の行進を阻もうとはしなかった。デモ隊は、続々と馬場先門から皇居前広場に入り始めた。
 皇居前広場に入った約四千人のデモ隊は、二重橋前に集まり、万歳を叫んだ。使用禁止になっていた広場に入ることができたことで、達成感が湧いた。人びとは解放感にひたり、談笑しながら一息入れていた。多くの人は、皇居前広場に入るという目的を果たし、これで解散になると思っていたであろう。
2  その直後、事態は一変した。
 午後二時半を過ぎたころであった。膨れ上がったデモ隊の一部が、警官隊との距離を縮め、緊迫した空気になった。怒声がし、一部で小競り合いが始まった。その時、警官隊の副隊長の号令が響いた。
 「かかれ!」
 デモ隊に向かって、警官隊は、一斉に警棒を振りかざして殴りかかり、間もなく催涙ガス弾が打ち込まれ、その後、銃声が響いた。皇居前広場は大混乱となり、デモ隊の一部も、プラカードや旗竿で立ち向かったが、すぐに警官隊に追い詰められていった。広場は修羅場と化した。
 この時、一人の大学生が重傷を負って倒れ、後に病院で死亡している。
 デモ隊と行動を共にしていたある雑誌社のカメラマンは、この時の衝突の最初の模様を次のように報告している。
 「二重橋前は、柵の内に皇宮警官が一人いるだけで、デモ隊は柵際まで到着し、隊伍も解け、緊張をゆるめた様子で、旗を振ったり歌ったりスローガンを唱えたりしていた。十分間くらいそんなふうにしていると、南側の方からヘルメットを被った警官隊が出て来て道の左端を通って柵際へ進んだ。と、いきなりデモ隊に襲いかかった。アッという間もない出来事で、私はビックリしたが、もう目の前は乱闘で、催涙弾が投げられ、デモ隊側は次第に押されて行った。塵と催涙ガスの濠々たる中でピストルが鳴り、交番がひっくり返った」
 最初の衝突から、二、三十分後の午後三時ごろ、南部コースを含むデモ隊の約三千人が、祝田橋を渡った。このデモ隊も、警官隊による特別な妨害も受けずに、混乱状態の広場に入った。そして、二重橋前から追われて楠木正成像の周辺に来ていたデモ隊と合流した。
 合流したデモ隊の人数は、七千人ほどに上っていた。
 三時半ごろ、そのデモ隊に、増強されていた警官隊が再び近づいていった。また多数の催涙ガス弾が打ち込まれ、拳銃も発射された。
 デモ隊も、投石やプラカードの角棒で応戦したが、警官隊に蹴散らされ、多くのデモ隊が広場から追い出された。
 逃げ出したデモ隊のなかに、路上の乗用車に火を放った者がいた。米軍の自動車である。
 前述のカメラマンは、次のように述べている。
 「そのうちに日比谷の方で黒い煙が上ったので、私はそっちへ駆け出し、祝田橋を渡った。自動車が一台仰向けにひっくり返って燃えている。デモ隊は乱れて逃げ、警官隊が追っている。逃げながら次々と自動車を横倒しにしている。その車軸の辺に紙で火をつけているカーキ色のズボンをはいた若者があったが、学生風には見えなかった。私はそれを写そうとしたが、怒鳴りつけられて、写せなかった」
 デモ隊のなかに、人びとを扇動した者、過激な行動をとった者がいたことは事実のようである。しかし、デモ隊の多くは、一般市民であったろう。その市民にも、警官隊は襲いかかった。
 朝日新聞の社会部記者は、目撃談を語っている。
 「午後三時半ごろ、いよいよ最後の段階にきた。警官隊側は各方面本部管下の予備隊の全人容を動員、約四千名が集まった。桜田門で二重橋を背景にした輪陣をジリジリと左旋回、芝生の上に二重の陣立をとった。これは風上を利用するためらしい。最前列の警官から、いきなり催涙弾が投げつけられ、同時に『つっこめ』の号令一下、一せいに警官隊は進撃を開始した。警官隊の猛撃に二十分ぐらいデモ隊側も抵抗を続けたが、ついに勝敗はきまった。デモ隊は総くずれとなって、日比谷公園方面へ退却を始めた。催涙弾で、目があけられないため隊列から落伍するものが、警官隊にひっ捕えられて、桜田門口まで数百メートルも、血だらけになって引きずられていった」
 広場に残ったデモ隊を一掃するために、警官隊の最後の攻撃が行われたのは午後四時ごろだったようだ。この時も拳銃が発射された。
 当日、メーデーの参加者としてではなく、見物人の一人として、これを目撃した作家の梅崎春生は、その時の情景を次のように語っている。
 「私たちは初め、あれが実弾発射の音だとは、夢にも思わなかった。発煙筒(催涙ガス筒を、私は最初、ただの発煙筒だと思っていたのだ)の栓か何かを抜く音だろうと思っていた。日本人が同じ日本人を撃つなんて、とても信じられなかった。
 私が聞いた音だけでも、百発は優に越えていたように思う。
 催涙ガスにしても、威嚇のためか気勢を上げるための発煙筒だと思っていたので、その煙にいきなり取り巻かれた時は、大いに狼狽した。涙がむちゃくちゃに流れ、眼なんかほとんどあいていられない。鼻や口腔が、ヒリヒリと痛む。その煙の彼方から、警官隊が追って来るのが見える」
 警官隊の総攻撃の時に発射された拳銃の弾が、一人の若い東京都職員の命を奪った。即死であった。
 五月の緑に囲まれた皇居前広場は、晴天のもと、平和で穏やかなはずであったが、この日の午後は、完全に修羅場と化してしまった。
 デモ隊側の被害は、死者二人、負傷者は重軽傷合わせて約千五百人。警官隊に死者は出なかったが、負傷者は重軽傷者合わせて約八百人に上った。そのほか、放火されて炎上した濠端の米軍自動車は十三台を数え、二十九台が大破したり、ガラスを破られたりしている。警察の白バイも一台が炎上した。
3  午後六時ごろ、混乱は収まった。
 当時の新聞報道の多くは、この日のデモ隊の行動を、あらかじめ計画された行為としてとらえ、デモ隊が警官隊を襲ったとしている。
 確かに、ごく一部の人びとの間では、事前に、騒乱状態を引き起こそうとの計画が立てられていたかもしれない。しかし、多くの人は、彼らの扇動に乗せられて、皇居前広場へと向かったにすぎなかったのが、そこで警官隊と小競り合いが生じ、異常な興奮状態に陥っていったのではないか。
 一方、このような激しい行動をとった警官隊の意図というものが、どこにあったかも不明である。だが、無届けデモの規制にあったとするには、いささか激越すぎる行動であったといわなければならない。
 警察側には、労働者が集まるメーデーを格好の機会ととらえ、過激化する労働運動に一撃を加えようとする意図があったのかもしれない。
 また、動員されていた個々の警察官も、このころ、過激派による警察署などに対する火炎瓶襲撃事件が、各地で相次いでいたことから、デモ隊に対し、強い警戒心と不安をいだいていたのではなかろうか。
 この双方の異常な心理が、異常な事態を招き、その異常な状況が、さらに人間の正常な理性を麻痺させて獣性を刺激し、救いがたい混乱状態をつくりだし、あの惨事をもたらしたとは、いえないだろうか。
 この日、一斉に検挙が始まり、検挙者数は、最終的に千二百三十二人にも上った。
 ともあれ痛ましい事件であった。独立日本の歴史の第一ページは、悲惨な流血の惨事によって記録されることになったのである。
 当然、その背景には、東西冷戦という複雑な世界情勢があり、国際間の緊張もあったであろう。「血のメーデー事件」は、その意味で、日本の置かれた困難な立場を、あらためて示唆したものともいえる。
 独立を回復したとはいえ、日本を取り巻く周囲の状況は、決して安穏なものではなかった。対岸の韓・朝鮮半島には、二つの大きな勢力が対峙していた。日本は、第三次大戦の火が、いつ燃え上がるかもしれない冷戦の、険しい谷間に位置していたのである。
 GHQが廃止されても、米軍は、そのまま残り、日本列島が、巨大な反共の防波堤とされている事実には、いささかも変わりはなかった。
 国民の生活も、依然として苦しく、国内には欝屈した不満が充満していた。
 GHQのもとで、戦後日本の政治を動かしてきた吉田内閣は、日本は西側諸国の一員となり、アメリカの力を利用しつつ、アメリカとともに進むという道を選択していた。
 一方、左右両派の社会党や、共産党などの野党は、世界の強国となった社会主義国ソ連や、ソ連の影響下で成立していった東欧の社会主義諸国、そして革命政権を樹立した中国共産党に近い考え方で、対立は深まる一方であった。
 政府・与党の為政者や、それに対峙する野党の為政者や、労働運動の指導者たちと、日々の生活に悩んでいる民衆の心との間には、明らかにギャップがあった。大切なのは、時の推移を冷静に見極めることだ。
 時の推移の底流にあるもの――それは民衆の声であり、叫びである。それを見誤るところに、すべての破綻の因がある。
 指導者は、その民衆の声、叫びを、鋭く察知できる具眼の土でなくてはならぬ。具眼の指導者をもたない民衆は不幸である。
 日本は、その不幸な運命のなかにあった。民衆は、不満のはけ口を求めていたともいえる。当時、各地のデモが、大きなエネルギーを爆発させていた背景には、長い間、抑圧され続け、先行きが見えない民衆の焦燥感があった。
 この不満は、東京に限らず、メーデー行事が行われた全国各地で、激しい行動となって現れていた。
 関西方面でも、警官隊とデモ隊との衝突があり、負傷者が多く出た。京都では七万人がデモに参加し、衝突した警官隊は催涙ガス弾を使用した。この衝突によって、警官隊の重軽傷者は、二百十一人と報道されており、デモ隊側も相当数の負傷者を出した。しかし、警官隊がピストルを発射したのは、東京だけであった。

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