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日蓮大聖人・池田大作

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七百年祭  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1   朝日が昇る。
  新しい太陽が昇る。
  生命力を満々とたたえて、午前八時の太陽が輝く。
 一九五二年(昭和二十七年)四月二十七日、二十八日の両日、日蓮正宗総本山大石寺の境内一帯は時ならぬ賑いにつつまれていた。
 開山以来、六百六十余年、かつて、これほど晴れやかな空気につつまれたことは、なかったにちがいない。
 富士の秀峰は、空にくっきりと、その全容を現し、巨大な山塊は、人びとの身近に、ぐっと迫っていた。山頂の白雪は、あくまで白く、空に冴え渡っている。広々とした裾野は緑に萌え、春は、今、たけなわであった。
 富士を仰ぐ人びとの目は、すがすがしく輝いている。彼らは、社会的名士でもなければ富豪でもない。ほとんどが、無名の庶民であった。真の民衆仏法の偉大な様相は、この日の参加者の姿に映し出されていた。
 富士もまた、その端然とした姿で、歓喜の光景を、じっと見守り、集った一人ひとりを祝福するかのようであった。
 宗旨建立七百年慶祝記念大法会が、ここに挙行されたのである。
2  式典は、四月二十四日、二十五日の第一会と、四月二十七日、二十八日の第二会にわたって行われた。
 創価学会員は、二十七、二十八日の両日、戸田会長を先頭に、雀躍として慶祝の盛儀に参加したのである。晴天のもと、一万世帯のなかから集ったのは、四千三百余人の精鋭たちであった。
 これらの会員は、二十六日の夕刻から二十七日の早朝にかけて、八本の列車に分乗して、東京駅を出発した。そして、富士宮駅から、専用バスがピストン輸送を続けた。
 総本山に集った学会員は、宿舎にあてられた各坊にあふれ、客殿までも占領してしまった。休息の時間にも、歓声は響き、学会歌が湧き起こる。どの顔も、この七百年祭への参加の喜びにあふれでいた。長い旅にもかかわらず、体を横にする人も、じっとしている人もいない。総本山は、歓喜の旋風につつまれていた。
 二十七日午後二時、三門内の広場に全員が整列した。男子部四部隊、女子部五部隊、さらに各支部の同志が、参道に向かって整然と並んだ。それは、健気にも立ち上がった民衆の、平和行進の開始を象徴するかのようであった。
 程なく、参加者の頭越しに、学会本部旗が見えた。全員の大拍手が湧き起こるなか、本部旗とともに、戸田城聖が、参道の石段の上に姿を現したのである。
 それは、まさに、式典の序曲であった。
 まず、清原理事の指揮で、富士の高嶺に響けとばかりに、学会歌が声高らかに歌われた。
 続いて、泉田筆頭理事が、勢い込んで、叫ぶようにあいさっした。
 「慶祝の四月二十八日は、まことに意義深き立宗七百年の佳節であります。と同時に、太平洋戦争に敗れた日本が、ともかく独立国家として認められ、その講和条約が発効するのも、同じ明日、四月二十八日であります」
 かつて軍人であった彼は、終戦八年目の講和条約の発効に、深い感慨を覚えていたのであろう。
 「この奇しき四月二十八日を前にして、われわれ創価学会の会員が、この広場を埋め尽くしたのも、歴史的事実であります。われわれに課せられた責務は、実に深く、重いものがあります。戸田先生を折伏の師として、いよいよ大目標に向かって、邁進することを誓うものであります」
 泉田は、額の汗をぬぐって、マイクを離れた。
 次の瞬間、ひときわ熱烈な拍手が湧き上がった。戸田会長が、前に進み出たのである。メガネがキラリと光った。緊張した面持ちが、かすかにうかがえる。戸田の、凛とした声が響いた。
 「日蓮大聖人が、この日、末法の、われわれのことを深くお思いになり、題目を唱えあそばされてより七百年の間に、題目の流布は、なされたのであります。そして、七百年後の今日、御本尊の流布がなされんとしているのであります。時は、今であります。
 私は、出獄以来、まず七年間にわたり、責務を遂行し、今日、諸君と共に登山できましたことを、われわれの誇りとしたいのであります。
 広宣流布実現の使命を担ったわれわれは、輝かしい任務を肝に銘じつつ、御本尊様を主と仰ぎ、師と尊び、親と思い、しっかり戦っていこうではありませんか。この光栄ある日を、皆さんと共に喜び、いよいよ確信をもって、折伏に励むことを望むものであります」
 戸田のあいさつは短かった。だが、万感を胸に秘めていた。
 再び、力強い学会歌を、全員が高らかに歌って、戸田の指導に応えた。合唱が終わるとともに、本部旗を先頭に隊伍を組みながら、御影堂へ向かっての行進が始まった。
 男子部、女子部、各支部と、おのおのの先頭に部隊旗、支部旗を掲げ持ち、地涌の菩薩の誇りも高く、参道の石畳を踏みしめていった。
 参道に沿って並ぶ宿坊の石垣越しに、年を経た八重のしだれ桜が枝を垂れ、参道の石畳の上に影を落としている。花は既に散っていた。光沢のつややかな若葉が伸び始めているのが、印象的であった。
 戸田は、石畳を踏みながら、時折、大空遠く目を放った。今、しきりに、七百年前、日蓮大聖人が立宗宣言し、末法における妙法流布の戦いを開始された時のことが偲ばれるのだった。
3  七百年前の立宗の日――建長五年四月二十八日は、西暦一二五三年にあたる。
 日本に仏教が伝来してから、約七百年のことである。
 旧暦四月二十八日は、太陽暦(グレゴリオ暦)に直してみると、六月二日となる。入梅直前の初夏のころである。
 日蓮は、数え年三十二歳。十二年間の、叡山をはじめとする諸国の遊学から、安房国(現在の千葉県南部)の清澄寺に帰って来て、間もなくのことであった。
 幼名を善日麿といった彼は、十二歳の時、清澄寺に登った。その彼にとって、清澄寺は、懐かしい故郷である。
 清澄寺に入り、やや勉学が進んだ時、虚空蔵菩薩に願を立てた。
 ――日本第一の智者となし給え、と。
 みずみずしい五体のなかには、虚空にも響けとばかり祈り、自らを磨き高めんとする一念の脈動があった。
 虚空蔵とは、″虚空のように広大無辺な無量の智慧″という意味である。してみれば、善日麿の願いは、宇宙の本源の法に到達した仏の無量の智慧を、自らも成就したいとの願いであったのかもしれない。
 それは、自分を育んでくれた父母をはじめとする、恩ある人びとへの報恩のために、現実に生きでいる一人ひとりの人間の、生死の苦を救いきる仏の本当の智慧を、なんとしても得たいとの熱願であったにちがいない。
 善日麿は、清澄寺入山後、修学と見識を深めるにつれて、数々の疑問をいだくにいたった。
 ――仏教とは、釈尊一人の教えから出発したものであるのに、その教えが、今日、さまざまな宗派に分かれ、対立しているのは、いったい、どうしたことであろうか。一人の聖者の説いた真理は、一つのはずだ。とすれば、その真理を伝えている教えは、今、どこにあるのだろうか。
 また、寺々は隆盛を誇り、仏教は栄えているはずなのに、なぜ、世の中は、争いに次ぐ争いを繰り返し、国は乱れているのであろうか。仏の教えは、どこへ行ってしまったのだろうか。
 たとえば、天台宗の座主・明雲みょううんを頼んで源氏の調伏を願った安徳天皇は、逆に源頼朝に攻められ、海中に沈まなければならなかった。そして、明雲座主は源義仲に殺された。
 さらに、承久三年(二三一年)に起きた朝廷と幕府との騒乱の時にも、仏法の秘法を尽くして祈った朝廷方が、北条義時に攻められて敗れ、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、また土御門上皇は阿波にと、三上皇は、そろって流されてしまった。
 仏法をもって祈った国主が、臣下に亡ぼされるというのは、どうしたわけであろう――。
 一見、素朴ではあったが、極めて重大な、これらの疑問は、善日麿の頭を満たしてしまった。清澄寺一山の衆僧は、誰も明快に答えてくれない。
 彼は真正面から、この疑問にぶつかっていった。大疑は大悟に通ずる道理のごとく、彼の大疑は、仏法の根源に向けられていった。

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