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布石  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1  一九五二年(昭和二十七年)三月二十一日――戸田城聖は、東北の地、仙台市の仏眼寺にいた。この日の、仙台支部第一回総会に出席するためである。
 このころの仙台支部は、一地方支部とはいえ、東京の十二支部に伍して、少しも遜色のないまでに成長していた。
 総会の会場となった仏眼寺には、既に三百人を超す支部員が結集している。開会に先立って、勤行が行われていた。
 戸田の後ろには、仙台支部長の白谷邦男が控えていた。彼は、二十代後半の青年であったが、入会は古く、四二年(同十七年)に遡る。
 そのころ、彼は上京して、ある大学に通っていた。同級に山平忠平がいて、初代会長・牧口常三郎の時代に座談会に誘われた。いろいろ理屈を並べているうちに、論破されて、遂に入会したのである。
 時は、既に戦時中であった。両親は上海に移っていた。白谷邦男も、四四年(同十九年)春、上海に渡り、程なく日本に帰るつもりであったが、いつか帰国の船便がなくなってしまった。
 彼は、上海にいても、朝晩の勤行だけは欠かさなかった。勤行をサボると、罰を受けるのではないかという考えが、頭に染み込んでいたのである。白谷は、そのまま上海で終戦を迎えた。
 帰国できたのは、四六年(同二十一年)二月のことであった。白谷の一家は、郷里の仙台に戻ったが、街は戦災に遭っていて、彼の父も、職と家とを探すことから始めなければならなかった。彼も働かなければならなかった。
 翌年五月、駅前のバラック街に海産物店を開店した。しばらく商品は、面白いように売れたが、インフレの余波と商売下手から、いつか倒産の憂き目にあった。
 このころ、彼が仏眼寺に行ってみると、数人の学会員に会った。いずれも、戦前に東京で入会したという人たちであった。
 彼は、山平忠平に連絡した。山平は、さっそく、数人の青年部員と共に仙台にやって来て、ともかく会うだけ会って帰って行った。この時、初めて白谷は、東京で戸田城聖が学会再建に全力をあげ、活動し始めたことを聞いたのである。
 その後、白谷は、たまに上京しては、山平と会つた。酒好きの二人は、酒瓶を挟んで語り、最後は学会の前途について意見を交換して、決意を新たにするのであった。白谷は、山平から強い刺激を受け、仙台の数人の同志と、ようやく活動を開始した。座談会をもったり、『大白蓮華』をテキストとして、御書の読み合わせをしたり、折伏活動の第一歩を踏み出した。
 こうなると、それまで信心を黙認していた両親が、猛烈に反対しだした。帰宅が、しばしば深夜になる彼は、締め出され、時に納屋で夜を明かさねばならなかった。
 白谷は、就職問題と信心の行き詰まりから、五〇年(同二十五年)秋、上京して戸田城聖を訪ね、指導を仰いだ。戸田の最も辛い、苦難の日が続いていたころである。
 戸田は、遠来の青年に、懇切な指導をしてから、最後に言った。
 「泊まるところはあるか?」
 「いいえ、決まっておりません」
 戸田は、失業中の青年に言った。
 「ぼくの信頼している青年がいる。話しておくから、決して心配しなくてよい。そこへ泊めてもらいなさい」
 戸田が紹介したのは、山本伸一であった。
 白谷邦男は、東京での五日間の滞在のあと、仙台へ舞い戻った。就職運動が思うに任せなかったからである。彼は、やがて仙台で、ある保険会社に入社することができた。戦後の青年の一人として、彼も、まごついてしまった青春を、取り戻そうとするかのように、ようやく学会活動に全力で取り組み始めたのである。
2  彼は、数人の同志と、本格的に折伏を始めた。彼の周辺には、若い青年が集まるようになった。御書を中心にして、真の仏法のなんたるかを語り、社会のさまざまな現象から、広宣流布が絶対に必要であることを叫んだ。
 五一年(同二十六年)五月、戸田の会長就任のころを境として、学会本部との連絡は一段と深まり、仙台支部は目覚ましい胎動期に入っていった。
 仙台支部の幹部には、知識人が多く、年配者が、元放送局員の井鈴健で、ほかに三十歳前後の歯科医や教員などがいた。集まれば理屈に走る会合になることもあったが、若さにあふれ、何よりも実践的であった。仙台市内はもちろん、飯野川、石巻、盛岡と、折伏の手は伸び、やがて青森、福島にまで出かけて行ったのである。
 本部派遣のメンバーによる指導も、このころから、しばしば行われるようになっていた。また、仙台の幹部も交代で、「仕入れに行ってくる」いながら、機会あるごとに上京したのである。そして、東京の幹部会や座談会に出席し、学会躍進の空気を持ち帰ったのであった。
 皆、真面目であり、強い求道心にあふれでいた。近くにいる人より、遠くの人の方が、吸収力の強い場合があるものだ。
 五一年(同二十六年)十一月には、仙台支部は組織の編成を強化し、五地区から八地区へと拡大している。
 十一月二十二日から三日間、清原かつ理事と青年部の幹部二人が、本部から派遣された。清原たちは、インクの香の漂う、発刊されたばかりの『折伏教典』を持参したのである。
 清原は、幹部十三人を相手に、一日十三時間、三日間ぶっ通しで、『折伏教典』の講義を行った。全力投球である。人材育成の特訓の模範であった。
 仙台の幹部たちは、三百六十ページの教典を、日ごろの折伏実践と照らし合わせて、失敗談や成功談を語り合いながら、楽しい雰囲気のうちに読み進んでいった。時間のたつのも忘れるほどであった。
 この時、御書や六巻抄の講義も行われた。全力を尽くしたところには、必ず人材の花も咲き、栄えていくものだ。いつしか仙台は、東京のA級支部以上の実力を、認められるようにまでなった。
 また、同行の青年部幹部は、一般会員のための講義を担当した。一回五十人を対象に、三日間に八回の講義を行い、東京の六カ月分の講義を一気に終えた。講師も受講者も、一種の張りをもっていた。
 こうして、何よりも学会精神の浸透が、短日月のうちに、談笑のうちに達せられたのである。派遣の幹部たちは、「仙台へ勉強しに来たようなものだ」と笑い合った。
 仙台支部第一回総会を、戸田城聖を迎えて開催するまでの半年間、折伏と教学の実践に、不断の精進があったのである。
 精進は、支部を見る見る拡大発展させた。この年の十一月末の世帯数は、二百十九であったが、翌五二年(同二十七年)四月の七百年祭ごろには、実に六百十一世帯となっていた。その七百年祭の総本山登山の参加者は百四十六人で、地方支部として誇り得るものであったといえよう。
 戸田は、彼の会長就任に呼応して立ち上がった地方支部が、ことのほか、かわいかった。そして、仙台支部が、東北広布の使命を自覚して、躍進する姿を見守っていた。彼が仙台という地方支部の総会に臨んだのは、いよいよ全国的布石の時期の到来を、そこに感知したからである。
 九州の八女地方は、牧口時代からの拠点であり、戸田が会長に就任した直後に、仙台支部とともに新しい支部として発足した。しかし、幹部間の団結が図れずに、今もって燃え上がらず、活動の本格的な始動には、いたっていなかった。大阪支部は、五二年の一月十五日に発足し、その活動も、やっと緒についたばかりである。彼の全国的構想からすれば、力をもった大支部が、今後、続々と、各地に誕生しなければならない。その先駆けを仙台に見たといえよう。
 戸田は、全国的布石の先駆の総会を祝す思いで、清原、小西の両理事、青年部の森川、秘書部長の泉田ための四人を伴って、仙台に赴いたのである。
3  三月下句の東北の春は、まだ浅かった。
 戸田は、総会のあと、仙台の幹部の一人ひとりとの懇談と指導に重点を置いていった。寒い宿屋の一室を火鉢で暖め、矩健に入って数多くの幹部と面接しながら、生活のことから、家庭の、こまごまとした問題にいたるまで、懇切に指導するのであった。個々に対する指導こそ、人間主義の自然な発露である。広宣流布という未聞の大事業は、幾千万の人びとの、血の通った団結によって、初めて達成できるからだ。
 初めて戸田に会う幹部が大部分であった。冗談を飛ばしながら、時に鋭い警句を吐き、率直にして磊落に語る戸田に、彼らは面食らった。しかし、誰もが、温かくつつみ込む戸田の慈愛を知って感激した。
 この支部の発展の特長の一つは、東京から送られてくる「聖教新聞」や、『大白蓮華』の配布が、極めてスムーズに行われているところにあった。すなわち、これらの印刷物は、求道心の強い地方の学会員にとっては、広宣流布の実弾であったのである。
 夜にかけて、戸田は、仙台支部の、ほとんどの幹部と面接した。未来への飛躍を期すために、彼は、一人ひとりに、全生命を注ぎ込む思いで、激励、指導を重ねたのである。

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