Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

驀 進  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1  立宗七百年――一九五二年(昭和二十七年)の元旦。
 広宣流布の先駆を象徴して、男子部二百人が総本山大石寺で元旦を迎えているころ、東京・西神田の創価学会本部では、戸田城聖を中心に初勤行が行なわれていた。
 午前十一時、最高幹部が勢ぞろいした。
 戸田は、勤行の始まる前に、まず、勤行の心構えを説いた。彼の厳しい表情は、おのずと一同に緊張感を与えていった。
 「御本尊の前で勤行する時は、日蓮大聖人の御前にいると同じことなんです。仮にも、だらしのない態度であってはならん。居眠りしたり、あくびをしたりするような勤行では、決してなりません。
 私たち凡夫の、さまざまな日常の生活のなかで、最も厳粛で、また、最も崇高な仏界の時が、この勤行の時です。御本仏・日蓮大聖人様の御前で、居眠りや、あくびができるものか、よく考えてもらいたい。
 そうかといって、形式のみにとらわれたり、コチコチになれというのではない。あくまでも無作でなければならんでしょう。御本尊様は、無作三身如来で、主・師・親の三徳を備えていらっしゃる。嬉しければ、嬉しいでいいし、辛ければ辛いまま、そのままの姿で、純真に、真剣に、御祈念申し上げればよいのです。心豊かに、朗々と唱題することです。
 純真無垢な勤行が、御本尊様に通じないわけがない。
 今年は大事な年です。大聖人が立宗を宣言されてから七百年という年だ。しかも、今日は、元旦だ。私と共に、しっかり決意を込めた勤行をしてもらいたい」
 戸田は、こう言って導師となった。そして、悠々とした勤行が始まったのである。すがすがしい元旦の初勤行であった。快晴の空に、唱題の声は、はつらつと舞い上がるようであった。
 今年一年の闘争への熱意が、一丸となってみなぎり、力強い唱和の声となっていった。人びとは、奮闘の決意と、真剣な実践のないところに、勝利も、開拓も、絶対にないことを知っていたのである。勤行が終わって、互いに見交わす顔は、どの顔も紅潮し、さっそうとして、凛々しい眼差しに変わっていた。
 戸田は、一同を見渡し、力を込めて言った。
 「不肖、会長たる私自身の命は、広宣流布のためにあるのです。また、広宣流布の大業の成就は、諸君の闘争に期待するものであって、諸君は、まことに尊い使命に生きる方々です。今年も、どうか、よろしく頼みますぞ」
 短いあいさつである。しかし、使命を自覚している地涌の戦士には、瞬間、戸田の心中が察せられ、胸を貫かれる思いであった。
 このあと、冷や酒で乾杯し、にぎやかな歓談が始まった。そして、午後一時に散会となった。戸田の一行は、その後、直ちに総本山へ向かったのである。
 会員の総本山への一般登山は、正月の二日、三日にわたって行われた。その数、六百六十人に達している。
 四六年(同二十一年)の正月、戸田が、数人を相手に、総本山で法華経講義を始めたころのことを考える時、この登山者の飛躍的激増一つとってみても、いよいよ時が来たことの実証とも思えた。さらに半年前と比較しても、戸田の会長就任という事実が、どんなに一切の様相を変えたか、計り知れないものがあった。
2  一月五日には、都内の中華料理店で、各部の部長も参加して、支部長会が開かれた。戸田は、この時、立宗七百年を迎えるにあたって、創価学会の新しい組織体制を発表した。
 各支部には地区があり、その中心者は「地区委員」であったが、地区委員制が廃止されて、新たに「地区部長」が任命されたのだ。そして、「地区」のもとに「班」組織が設けられた。「班」の中心者は、「班長」である。班長を中心に、班単位で折伏などの活動を行い、その班のもとに幾つかの「組」が設けられた。「組」は、会員が「組長」と共々、学会活動の第一線で活躍できるようにするための組織であった。
 前年の秋から手がけた組織の整備は、これをもって完壁な布陣となり、学会は、全く面目を一新し、未来に備える骨格が出来上がったのである。
 この時に築かれた組織体制は、その後の学会発展の基盤となった。
 信心の極理は、御書に明確に説かれている。学会の組織は、その本義と実践を、速やかに後輩に指導徹底していくために、つくられたものであり、あくまでも実質主義を原理とすることを、戸田は指摘したのである。
 この組織の変更について、質疑が終わったあと、戸田は、この年の意義を強調し、支部長たちの脱皮を促した。
 「今後の支部長は、今までと違って、頭もよく貫禄と風格がなければならんだろう。支部長は、責任をもって、どんな問題でも解決できなければならない。支部員が支部長を見ると、心から安心して信心に励めるといった、信望のある幹部であってほしい。しかし、貫禄と威張るこことは全然違うのだ。威張るようなことがあったら、戸田は許しませんぞ」
 戸田は、幹部に対しては、実に厳しかった。食卓を前にして、幹部たちは、かしこまっている。それを見て、戸田は、急に表情を崩し、にこやかに言った。
 「しかし、まぁ、悪と戦えないような、弱々しい幹部でも困るんだよ。正義のために毅然と戦う頼もしさがなければ、誰もついてこなくなる。そんな支部長だったら、まず支部長の資格はない。
 これからの幹部は、実力が本当になければならなくなってくる。入会が古いだけでは骨董品だ。骨董品を、支部長や、幹部にしておくわけにはいかないではないか。仏法は厳しい。この厳しさが学会の組織の骨髄ということになるんです」
 支部長たちは、″今年は厳しいぞ″と、覚悟を新たにした。
 「まぁ、今年も忙しい年になるだろうが、今日は、正月だ。ひとつ、ゆっくり、くつろいで飲もうじゃないか」
 戸田が盃を取った。新春の乾杯から始まり、宴はにぎやかに盛り上がり、余興も交えて、学会歌で意気軒昂のうちに終わった。
 この日の戸田の発表は、直ちに実行に移されている。学会の最大の強みと、飛躍的な伸展の理由の一つは、このように迅速に連携を取りつつ、直ちに全力をあげて実行に移し、決して堂々巡りすることなく、すべて事実のうえに厳然たる実証を示していくところにある。この見事な組織の布石が続く限り、さらに学会は無限に伸びていく要素をいだいているといえよう。
 一月三十一日には、西神田の本部で支部長会が開かれている。このころには、組織の整備は完全に終わっていた。
 一月の入会世帯数は、六百三十五世帯であった。足踏み状態である。発表を聞いて、心ある人は、その低調さを反省し始めていた。
3  この時、戸田は、即座に立って、やや激昂した面持ちで言い放った。
 「『かりがね行進』は、今月をもって、一切、打ち切りとする!」
 厳しい口調であった。人びとは呆気にとられて、場内は静まり返り、皆、戸田に視線を集中した。
 戸田は、集った幹部を前にして、前年秋からの組織の整備は、ひとまず終わったと思ったのであろう。訓練してきた、これらの幹部を、思う存分、活躍させる時が、今こそ来ていると判断した。
 「四月の七百年祭を目前に控え、今月のようなだらしない低調さで、いったい、いつの日に目的を達することができるか、まことに心もとない次第です。支部長の確信のほどが、どんなものか、思いやられる。もしも、ここ二、三カ月、このままの状況が続いたとしたら、その支部の支部長は進退を明らかにしてもらいたい。
 『かりがね行進』を、今月で打ち切りとする以上、来月からは、どのような態勢で進んだらよいかといえば、『驀進あるのみ』と私は答えよう。そのために、新組織の決定をもみたのです。
 活動の重点は、各支部内の組織に置かれたのであるから、今後は、『組本位』の、緻密にして強靭な活動に入るべきです。具体的に言うならば、『組』は、月に必ず一人以上の折伏入会を敢行すべきであり、今日の学会は、その程度の実力は十分備わってきたと、私は思う。
 なすべき時に、なすべき事を、率先して着々と勇敢に実践するのが、広宣流布の道でなければならない。臆病者は去れ、と私は言いたい!」
 この叱時激励に、参加者は緊迫した顔で戸田を見ていた。
 支部長のなかには、「かりがね行進」という微温的な、家族的な雰囲気の進軍では、勇猛果敢な闘争はできないと、考えている人もいた。そうした幹部たちは、「驀進!」と聞いて、はたと膝を打つ思いであった。
 戦いの勝利のためには、時に応じ、機に応じて、最も有効な手を打つのが指揮官の任務である。厳しい情勢を一変させるために、絶えず価値的な先手を打つことができなければ、多くの人びとは戸惑ってしまい、苦しむ場合が多い。
 戸田は、指導者として、常にそう肝に銘じていかなければならなかった。
 戸田の心の動きを、いつも速やかに察知して実践する山本伸一は、当時、男子部の班長とともに、蒲田支部の支部幹事を兼任したばかりであった。支部幹事は、支部長と一緒に支部の活動の責任を担っていく立場である。
 戸田は、彼の本命ともいうべき大折伏戦を宣言するにあたって、その闘争の一大推進者として、「そろそろ『伸』を出すか」と言って任命したのである。
 伸一は、組単位の闘争ということを信条として、支部内の組織活動を緻密に立案し、直ちに実践していった。そして、自ら東奔西走して、支部内の空気を一変させてしまったのである。
 その結果、遂に二月の折伏成果、二百一世帯を達成して、支部の面目を新たにしたのであった。当時、一カ月で百世帯前後の成果が、A級支部の限界であった。一支部で二百世帯を超える成果を出すなどということは、夢のようにさえ考えられていた。
 多くの同志たちは目を見張った。そして、戸田の言う通り、必ずできるという確信をもつにいたったのである。その後、「二月闘争」という学会の伝統ができたが、その淵源は、実は、この時にあった。
 一人の勇気ある先駆者があれば、それは見事な模範となって、多くの人びとを、無言のうちに率いていくものだ。蒲田支部で、山本伸一が、二百世帯を超える折伏成果を上げたことによって、各支部も負けじと自信をもち、活発な動きを見せ始めた。
 二月の折伏成果は、学会全体で八百三十六世帯と跳ね上がり、もう一息で千世帯の目標に迫りつつあった。

1
1