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日蓮大聖人・池田大作

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戦争と講和  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1  戸田城聖が第二代会長に就任した一九五一年(昭和二十六年)五月三日ごろから、日本の運命も、にわかに大きな転換期を迎えることになった。
 前年の六月二十五日に勃発した朝鮮戦争(韓国戦争)は、十カ月後の、この五一年の四月下旬には膠着状態になり、七月十日には休戦会談が端緒についた。それと並行して、第二次世界大戦の決着ともいうべき対日講和条約は急進展し、九月八日には、遂にサンフランシスコ講和条約締結となったのである。
 朝鮮戦争は、第三次世界大戦の危機をはらみつつ、対馬海峡を挟んで九州の対岸にあるアジアの一角を、殺戮と破壊の修羅場に変貌させ、民衆に未曾有の犠牲を強いていた。そして、救いがたい悲惨な荒廃を、韓・朝鮮半島の人びとのうえにもたらしたのである。
 「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない」とクラウゼヴィッツは述べている。
 政治は目的であり、戦争はその手段であって、目的なき手段はあり得ない――という彼の指摘は、現代戦争のための予言であったとさえ思われる。
2  一九五〇年(昭和二十五年)六月二十五日、日曜日の午前四時過ぎ、韓・朝鮮半島では、北朝鮮軍七個師団、約十一万人が、ソ連製戦車約二百五十台を先頭にして、三八度線の全域で、一斉に南への攻撃を開始した。これに対して韓国軍は、三八度線には四個師団、約三万五千人を配備していた。しかし、装備も優れていた北朝鮮軍は、たちまち韓国軍を圧して南下し、三日後の六月二十八日には、首都ソウルを占領した。
 国連では、緊急に安全保障理事会が開かれ、北朝鮮に対して、侵略行為の即時停止と、三八度線以北への撤退を要求するという、アメリカが提出した決議案が採択された。
 ソ連は、台湾の国民政府に替えて中華人民共和国を安全保障理事会のメンバーにすべきだという提案が拒否されたことに抗議してボイコットしていたのである。そして、国連加盟国は、ソ連欠席のまま、韓国時間の二十八日には、北朝鮮軍の侵攻を阻止するために、韓国に軍事援助を与えるという決議を採択した。
 現地で戦況を視察したマッカーサーは、三十日、アメリカ地上軍の派遣が不可欠であることを、トルーマン大統領に報告し、大統領は、マッカーサーの指揮下にある地上軍の派遣を直ちに許可した。既に海・空軍は二十八日から出動していた。
 七月二日には、陸軍部隊の先遣隊が前線に到着し、ここにアメリカ軍の全面的な介入が始まったのである。しかし、士気も高く、圧倒的な戦力で攻撃してくる北朝鮮軍の前に、アメリカ軍も惨敗し、戦線は総崩れとなった。スターリンの支持を得て、万全の準備を整えていた北朝鮮軍の軍備は、アメリカ軍を圧倒していたのである。
 国連安保理は、七月七日に国連軍創設を決議し、翌八日、司令官任命を委ねられたトルーマン米大統領がマッカーサーを国連軍最高司令官に任命した。
 これによって米韓両軍は国連軍として戦うことになり、この後、イギリス、オーストラリア、フランス、カナダ、フィリピン、タイなど十五カ国が地上軍部隊を国連軍に派遣していった。
 北朝鮮軍に追撃された米韓両軍は、後退を続け、七月中旬にはソウルと釜山プサンのほほ中央にある戦略上の重要地点・大田テジョンも占領された。国連軍は半島の南東部に追い詰められていき、八月に入ったころには、釜山を扇の要とする洛東江ナクトンガン沿いの半径約五十キロから百キロの地域に最後の防衛線を張った。いわゆる釜山橋頭壁である。
3  かくして、韓・朝鮮半島における半島統一の主導権を争う内戦は、アメリカ軍を主力とする国連軍の介入で、最初から国際戦争の性格を帯びるにいたったのである。
 朝鮮戦争は、民族の統一をめざす二つの勢力、すなわち自由主義陣営についた韓国(大韓民国)と、共産主義を掲げる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の対立が原因であったが、東西冷戦構造のもとで、それは、両勢力の激突となって展開されていったのだ。要するに大国は、その勢力の確保と威信をかけて、小国の国土で、小国の住民の犠牲において戦争を行ったのである。朝鮮戦争だけではなく、ベトナム戦争もそうである。そして、大国の狡猾さは、それを限定戦争というのである。戦争を限定するなどという、もっともらしい理屈で、小国を戦場化し、大国同士の直接的な戦争になることを避けたのである。
 これは、大国が掲げるイデオロギーには関係なく、自由主義側の大国・アメリカも、共産圏の大国・ソ連も、小国を支配下に置いて、影響力を行使していることにおいては同じである。
 韓国軍と増援の国連軍は、釜山を要とする半島の南東部の一角に押し込められたものの、依然として北朝鮮軍に対し制空権と制海権は握っていた。この空と海からの膨大な物量の投入で、一カ月半の間、戦い抜いた国連軍は、徐々に退勢を挽回し、遂に反転攻勢の作戦を実行した。仁川インチョン上陸作戦である。
 九月十五日未明、マッカーサーの指揮のもと、アメリカ軍は、七万人の兵と艦船二百六十余隻をもって、半島中部の仁川への攻撃を開始した。戦況は、ここに一変した。北朝鮮軍は分断され、北と南からの国連軍の挟撃で総崩れとなって退却した。国連軍は攻撃を続け、九月二十八日には、頑強な抵抗を排除して、ソウルを完全に奪還した。そして十月一日には、ほぼ開戦時のラインまで、北朝鮮軍を押し戻している。
 さて、この段階で、もしも戦争の不拡大を望むなら、和平交渉も十分に進めることができたであろう。国連も、その創設の趣旨からいって、そのような方向に向けての提議があれば、衆知を集めて平和の討議を行ったのではなかろうか。実際、国連安保理は、国連軍の目的は、北朝鮮軍を北緯三八度線以北に撤退させることにある――と決議していたのである。
 しかし、アメリカは、既に九月二十七日の時点で、マッカーサーの軍事目的は、「北朝鮮軍の撃滅にある」との指令を出していたのである。″撃滅″となれば、北朝鮮軍を、どこまでも追撃せよということになる。
 北朝鮮軍を、ほぼ三八度線まで追い込んだマッカーサーは、十月一日、北朝鮮に無条件降伏を要求した。
 マッカーサーは、北朝鮮軍総司令官・金日成宛に、次のような即時降伏の要求をラジオ放送で呼びかけた。
 「貴下の軍隊と戦争潜在力の早急にして全面的な敗北と完全なる破壊は今や不可避となっている。これ以上の人命の喪失と財産の破壊を最小限にとどめて国連の決定を実行することが出来るようにするために、余は国連軍最高司令官の資格において、貴下と朝鮮のいかなる地にあろうとも貴下の指揮下にある軍隊に対して、余が指令する軍事的監視の下に直ちに武器を放棄して、敵対行為を中止するよう要求する」

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