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日蓮大聖人・池田大作

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烈 日  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
1   瞬間瞬間、時は流れる
  過去、現在、未来へと――
  創造と建設
  敗退と惰性
  その人、その国に
  さまざまな運命、歴史を刻み
  渦巻きながら――
2  一九二八年(昭和三年)六月、牧口常三郎は、教育者の三谷素啓によって日蓮大聖人の仏法を知り、正法に帰依した。それから程なく、戸田城聖も、また師に続いた。以来、二十三年の歳月が、波瀾を巻き起こしながら流れていった。
 この間、三〇年(同五年)十一月十八日には、創価教育学会を創立し、牧口の『創価教育学体系』第一巻を発刊して世に問いながら、一人の会長と一人の理事長だけで、船出したのである。それから七年が過ぎ、三七年(同十二年)には、創価教育学会が本格的に発足し、会員も約百人を数えるにいたった。その社会的な活動は、徐々に注目を浴び、日蓮大聖人の仏法の真髄を理念として、戦時体制の重圧のなかを、地道に発展してきたのであった。
 そして、さらに七年たった、四四年(同十九年)十一月十八日、牧口常三郎会長は、時の軍部政府の暴虐のために、巣鴨の東京拘置所の病棟の一室で、この世を去らなければならなかった。七十三歳の彼は、国家諌暁の崇高な実践の途上に倒れたのである。
 その日から、また七年の月日がたつていた。そして、今、戸田城聖は、遂に創価学会会長として立つにいたったのである。創価教育学会の創設から数えて、二十一年のことであった。
3  戸田城聖が、第二代会長に推戴され、就任式が行われたのは、永遠の未来にわたって記念すべき佳日、五一年(同二十六年)五月三日のことである。
 さわやかな晴天のこの日、式の会場は、墨田川の言問橋近くにある、日蓮正宗の常泉寺であった。
 朝から大勢の人びとが、気ぜわしく出入りしていた。誰もが笑顔であいさつを交わし、話をすれば笑い声があがっていた。いそいそと会場を清掃する美しい娘がいる。そのあとに水を打つ、たくましい青年がいる。廊下を拭き清める婦人がいる。筆に墨を含ませて、式次第を懸命に書いている壮年がいる。どの顔にも、どの姿にも、晴れ晴れとした喜びが、自然とあふれでいた。
 正午を過ぎると、辺りは急に騒がしく、生き生きとしてきた。
 敗戦七年目の人びとの服装は、まだ貧しく、晴れ着を着た人はいなかったが、陸続と集う人びとの表情は、明るく弾んでいた。
 受付の青年たちは、来る人びとに呼びかけていた。
 「おめでとうございます!」
 「こんにちは! ご苦労さまです」
 人びとは、顔をほころばせ、軽く会釈したり、ちょっと手をかざしたりして応えていく。
 「おめでとう!」
 会場の華やいだ空気とは違って、周辺には、まだ戦災の傷跡が生々しく残っていた。焼け跡には、急造した粗末な小屋が、ここかしこに散らばっている。焼けた大きな樹木や、石塀などが、そのまま残り、空き地には、雑草だらけの野菜畑などが目についた。
 大空襲を受けた東京の江東地区にあって、常泉寺は、戦災を免れていたのである。
 戸田城聖は、この晴れの日のために、常泉寺以外の場所は思いつかなかった。僧侶のなかで、創価学会を最もよく理解していた堀米日淳が、前年の秋に中野の歓喜寮から常泉寺に移り、この寺の住職となっていたからである。
 この就任式当日の本堂は、学会員によって、ぎっしりと埋め尽くされ、外にも人があふれでいた。寺にとっては、戦後、初めての大集会であったろう。その数は、約千五百人であった。皆、いささか興奮した面持ちで開会を待っていた。あふれた人びとは、庭のここかしこにたたずみ、伸び上がりながら、本堂の内部に目を注いだりしている。
 定刻の午後二時――式は、まず勤行から始まった。唱題の声は、強く、軽く、清朗なリズムに乗って、晴れ渡った天空へと吸い込まれるように消えていった。
 やがて、唱題は終わった。

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