Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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秋霜  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  戸田城聖は、四面に楚歌を聞いていた。
 東光建設信用組合が業務を停止し、清算事務に入ったことが、関係者に徐々に知れ渡っていくにつれ、戸田に対して批判が集中してきたのである。
 債権者の、なかには、いかがわしい男たちを使って事務所に押しかけさせ、脅迫めいた催促をする者もいた。それでも、いっこうに解決のめどが立たないと知ると、大蔵省や警察に訴えるぞと、大変な剣幕の者もあった。
 戸田は、責任者として、あらゆる非難と誤解、曲解を、弁明することなく甘んじて受ける覚悟であった。
 「今が今、返済はできない。しかし、必ず返済はする。待ってほしい」――それが戸田の決意である。
 「いや、待てぬ」――というのが、債権者の真情である。
 このような情勢のもとに、了解工作は、当然、至難を極めた。それでも多くの債権者は、戸田の力と誠意を信じて、戸田個人との貸借契約ということで納得し、契約書に捺印した。
 だが、戸田が最も心を痛めたのは、これらの事柄ではなかった。ほとんどの学会員は、信用組合とはなんの関係もなかったが、数多い債権者のなかには、少数の学会員も入っていた。これらの会員は、戸田の挫折を知ると、大きな衝撃を受けた。
 ″不幸から脱出して、幸福の境涯へ達することを目的として信心したのに、その最高指導者の事業の失敗から、損害を受けなければならないとはいったい、どうしたことなのであろう″
 疑惑は猜疑となり、御本尊に対する不信をいだくにいたった者もあった。
 戸田は、辛かった。
 債権者である彼らが、戸田を恨んだとしても、それは仕方のないことであろう。しかし、そのことで信仰に不信をいだき、御本尊から離れて信仰活動を停止した人びとのことを聞くのは辛かった。怨みが真実への目を閉ざし、自分では気づかぬままに、自ら幸福への道をふさいでは、無念としか言いようがなかった。
 しかし、まだこれらの人びとは、よい方であった。最も救いがたいのは、戸田に対する非難を正当化するために、組合となんの関係もない多数の学会員に、戸田に騙されたかのようにささやき、あるいは吹聴して、初信者の信心に動揺を与え、学会の組織を破壊するような行動に出た者である。
 それは、極めて少数ではあったが、絶無とはいえなかった。こうした反逆が、「破和合僧」という、仏法上の「五逆罪」の一つに当たることは、もちろんである。
 だが、戸田は、今、そのような行動を耳にはさんでも、彼らが過ちに気づいて、正しい信心に目覚めるように、御本尊に祈るよりほかはなかった。
 彼は、創価学会の信心に関して、この世で誰にも迷惑をかけたことはなかった。それどころか、彼は、一身の安穏をなげうって、敗戦後の悲惨の底にあえいでいた幾百千の人びとに、大聖人の仏法を教えた。そして、厳しくも適切な指導をし、激励し、希望を与え、彼らの実践によって、それぞれの幸福を発現させたのであった。
 誰が救ったのでもない。ひとえに御本尊の無量の功力によるとはいえ、戸田城聖に接しなかったとしたら、彼らの悲運は転換の機縁をもつことすら、できなかったにちがいない。
 戸田は、事業の始末について、どんな非難にも、耐え忍ぶことができたが、その非難が大聖人の仏法に及ぶことは耐えられなかった。
 彼が、信用組合の問題で、どんなに苦しんだとしても、これは、あくまで世法上の苦悩にすぎない。
 なるほど、容易ならぬ苦闘ではあったが、それに信仰上の問題がからんだ時、彼の苦痛は、救いがたいほどに濃度を増したのである。
 彼は、この苦哀を、誰にももらさなかった。彼の身一つで耐えなければならないことであったからである。戸田の極度の精神的苦悩は、彼の体にも影響を与えずにはおかなかった。
 季節は移り、夜ごと、涼しさを増す秋となったが、彼が、朝、起き立った寝床を見ると、シーツに等身大の汗の跡が、くっきりと残っていた。妻の幾枝は、ただ心を痛めるばかりで、どうすることもできなかった。恐ろしい日が、続いていた。
 朝早く、白金の自宅へ執拗に押しかけてくる債権者もいた。戸田は、熱のある体で玄関に立ち、債権者を押しのけて言った。
 「話は、わかっている。わかっている。さて、どうするかが問題だ。会社で資料をもとにお話ししましょう。一緒においでください」
 彼は、とっとと先に立って家を出た。債権者たちは、何事かわめきながら、彼の後を追うのだった。
 それは、いつも座談会の帰途、会員たちが戸田の後を慕いながら追う姿とは対照的に、今は債鬼が追うのである。
 戸田は、落ち着きはらっていたが、人知れぬ憔悴は明らかだった。山本伸一は、戸田の顔を見ることが、時に辛かった。彼もまた、憔悴していたのである。
 ある夜、遅く、会社で二人だけで、顔と顔を合わせた。戸田は、伸の憔悴をしげしげと見ながら言った。
 「伸、どうした。生命力が、てんでないじゃないか。生命力が弱っていては、戦は負けだぞ。一緒に来なさい」
 戸田は、伸一を叱咤しながら二階に上がり、御本尊の前に座った。真剣な勤行が始まり、唱題が続いた。
 憔悴した不世出の師は、愛する憔悴した一人の弟子のために、御本尊に懸命な祈念をしたのである。伸一は、じっと涙をこらえるのに懸命であった。
 この夜、伸一の感動はアパートの部屋に帰っても、少しも消え去ることがなかった。深夜、一人の青年の感涙は、一首の歌に結晶した。
  いにしえ
    奇しき縁に
      仕えしを
    人は変れど
      われは変らじ
 伸一は、この歌をきれいに清書して、胸の内ポケットの奥にしまい込んだ。戸田に、どうしても贈りたかったからである。
2  あくる朝、戸田は、伸一の体を心配し、伸一もまた、戸田の体を心配して、昨夜のことを思いながら、あいさつを交わした。
 「伸、よく休めたか。これ以上、痩せてはいかんよ」
 「はい、ありがとうございます。どうか、先生こそ少しお休みになってください。お願いいたします」
 伸一は、胸のポケットから歌の紙片を取り出して、戸田の前に差し出した。
 戸田は、近視の目を、紙にすりつけんばかりにして、それを見た。
 「うん、わかっている」
 一瞬、戸田の表情は厳しくなり、また、すぐ笑顔になって伸一を見た。
 四面に楚歌を聞き続けていた戸田には、今、この健気な一首の歌が、言い知れぬ喜悦をもたらしたのであろう。彼は、何度も読み返しながら、瞬間、四面の楚歌を忘れていた。
 「よし、ぼくも歌をあげよう。返し歌だ。紙はないか……。さて……」
 戸田は、ぺンを手にすると、しばらく思いをめぐらしていたが、さっと、勢いよく認めた。
  幾度いくたび
     戦の庭に
       起てる身の
     捨てず持つは
       君の太刀ぞよ
 「これをあげよう」
 伸一は、両手を差し出して、その紙片を受け取ろうとした。だが戸田は、その紙片を渡そうとしなかった。
 「待て、待て、もう一首あるんだ」
 戸田はぺンを握ったまま、しばし動かなかった。やがて手を動かしたと思うと、さらさらと、もう一首の歌を書いた。
  色は褪せ
    力は抜けし
      吾が王者
    死すとも残すは
      君が冠
 「さあ、これで、いいだろう」
 戸田の顔は、喜んでいるようにも見え、寂しそうにも見えた。そして、二首の歌を、さりげなく伸一に与えたのである。伸一は、それを読むと、わななくような深い感動が、全身に走るのを覚えた。
 ″この私が、果たして先生の太刀なのであろうか。この私が、先生の冠に値するのだろうか。先生は、ご自分のことも、私の何から何までも、わかっていてくださるのだ……″
 伸一は眉を上げた。戸田の深い慈愛は、この時、伸一の生命を永遠に貫いたのである。異体は同心となり、一つの偉大な生命に溶けて、久遠からの実在の姿を現したのである。
 戸田は、にっこり笑って無言であった。
 「ありがとうございます」
 伸一は、礼儀正しく、これだけ言うのが精いっぱいだった。必死の決意で、戸田のメガネの奥の瞳を、はっきりと見た。瞳は鋭く、また温かく、澄みきって輝いている。
3  創価学会の活動は、戸田が理事長を辞任しても、表面的には、さほど鈍りもせず、進んでいるように見えた。月、水、金の講義も、代理の幹部によって続いていた。
 座談会も、日程にしたがって、いつものように開催されていた。戸田も、わずかな時間を見つけては、それらの座談会に姿を現した。折伏も、一応は、着実に進んでいた。
 だが、近年、急激に増加した、数千人の学会員には、さまざまな人がいた。なかには、信用組合となんらかの関係をもっていて、いざ自分の利害がからんでくると、公私を混同して、学会の組織を乱す行動に出る者もいた。
 彼らは、周囲の学会員を扇動し、組織を利用し、逆に学会に対して、脅迫がましい態度までとるようになった。担当の幹部たちは、信心の純粋性を強く訴え、それらの扇動者と戦って、組織を守り抜かねばならなかった。
 伊豆のある町に、一人の学会員がいた。彼は、東光建設信用組合の出資者の一人であったが、出資したあとに学会を知り、入会した初信者であった。
 彼は、信用組合の業務停止を知ると、強硬な態度をとり、弁護士まで差し向けてきた。そして、埒が明かないとみると、その地方の学会員を誘い込み、戸田攻撃の火の手を上げたのである。
 その町の六十世帯ばかりの素朴な会員は、「学会に騙されるな」という扇動に、わけもなくのってしまった。いつしか彼らは、皆、脱会に傾いていった。その町の組織の中心者であった、飯田うめと、山西きよは、困り果てて学会本部に報告してきた。
 報告を受けると、担当幹部の清原かつは、即座に現地に飛んで行った。素早い行動力である。清原は、まず座談会を開いた。
 飯田うめと、姪の山西きよは、その町で小さな居酒屋を営んでいた。
 この方面には、ほかに適当な会場もなかったので、会合というと、喜んで店を会場に提供していた。
 清原かつが行った夜の座談会も、この会場で行われた。急な連絡であったが、ほとんどの学会員が集まってきた。清原が見たこともない顔も、数多くあった。不信からくる、沈滞した、よどんだ空気を、清原は、早くも察知した。
 猜疑の眼差しが、あちとちに光っていた。
 清原は、意気込んで、歯切れのいい口調で言い始めた。
 「皆さん、今、皆さんが何を考えているか、よくわかっています。しかし、今、考えていることが、大聖人様の仏法から見て、間違っていたとしたら、どうなるでしょう。私は、それが、いちばん心配なんです。仏法は厳しいがゆえに、信心の根本を誤ったとしたら、その人は幸福になれる権利を、むざむざ捨ててしまうことになるんです」
 人びとは、じっと口をつぐんで聞いている。清原が呼びかけても、いつもと違って、応える者もない。清原の話は、激越になってきた。
 そのうちに、腹を立てたジャンパー姿の一人の男が、しゃべりだした。
 「私らは、信心をやめるというんじゃない。信心なんだから、そりゃ、やりますさ。ただ、創価学会の世話になりたくないというだけだ。誰だって、騙されたくないからね」
 「何を言うんです。いつ、創価学会が、あなた方を騙しました。言ってごらんなさい!」
 清原は、小さい体を伸び上がらせて、声を高めて言った。
 そこでまた、信用組合の話になり、組合の専務理事である戸田城聖に対する非難が、そのまま創価学会批判として蒸し返された。事業の問題と信仰との混同は、頑なになった彼らの頭から、なかなか抜けなかった。
 表面上の常識から見ると、これらの曲解もやむを得なかったかもしれない。だが、清原は条理を尽くして語っていった。
 営利事業の成否と信仰の正邪とは、全然、別の次元のことである。大聖人の仏法を、最も純粋に実践している唯一の教団を、誤って批判することは、仏法上の誹謗となってしまう。
 さらに、彼女は、切々として、戸田城聖の人格を説き、こう訴えた。
 「戸田先生の事業上の失敗は、決して創価学会を傷つけてはいません。組合に関係のある人が、強硬な交渉をするのは勝手ですし、謗法ではありませんが、組合にはなんの関係もない皆さんが、学会から離れるということは、唯一の正しい信心実践の軌道から脱線することです。ひとたび脱線したとしたら、幸福街道を驀進できないではありませんか」
 彼女はまた、さまざまな実例をあげて、質問の一つ一つに、懇切な、真剣な指導をしたが、″信心はやめない。自分たちだけで、また新しい講をつくって信心をやっていく″という、彼らの頑迷な決心を翻すまでにはいたらなかった。
 孤軍奮闘した清原かつは、情けない思いに駆られた。彼女は、最後に、こう言い切った。
 「仏法は勝負と言います。私の、今、申し上げたことが正しいかどうか、あなた方の考えが正しいかどうか、いずれ必ず、はっきりとした現証として現れるでしょう。もし、私の考えが間違っていたということになったら、私と飯田さんは、この町を逆立ちして歩いてみせます!」
 それでもなお、人びとの顔から冷笑は消えなかった。
 当然のことながら、清原かつが逆立ちして歩く必要は、全くなかった。しかし、この時、飯田うめと、山西きよの二人を除いて、残念なことに、この町のすべての会員は、学会と決別してしまった。
 一年、二年、三年、……残った二人の婦人は、またも第一歩から弘教を開始した。いや、始めざるを得なかったのである。そして、この地方の学会の大発展の礎となっていった。
 この「逆立ち発言」から十年余りたったころ、ある日、飯田うめは、近くの駅で、脱会の首謀者に、偶然、会った。彼は、すっかり老い衰え、体も不自由なようであった。二人は、電車を待つ間、駅のベンチに並んで腰かけ、昔の話をし合った。老人の話は、愚痴に終始し、身の不運を嘆くばかりであった。
 やがて飯田が、この一九五〇年(昭和二十五年)秋の夜のことを話しだすと、彼の頭にも、当時の記憶は歴然と残っていた。そして、わびしく杖をもてあそびながら言うのだった。
 「あれは、やっぱりわしらが悪かった。完全に負けてしまったよ」
 飯田は、その人の人生の顛末を知り、仏法の厳粛な因果を、あらためて痛感するのであった。
 これは、一地方の極めてまれな出来事であったが、東京でも、またこれと似た動きが、一部にはあったのである。

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