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日蓮大聖人・池田大作

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波紋  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  池に大石を投げる――そこには大きな波紋が生ずる。現代の社会機構もまた、同じであろう。一つの新しい統治政策が、いざ実施されたとなると、それは、社会のあらゆる分野に波紋となって広がり、とどまることを知らないものだ。
 アメリカの日本占領政策の転換は、一九四九年(昭和二十四年)に、「経済安定九原則」の具体的方針、いわゆるドッジ・ラインの実施となって現れた。日本経済の自立化を図る、との方針の強行は、産業経済の復興を目的としたものだが、やがて全国民の生活を揺さぶることになった。
 この「九原則」が起こした波は、ある分野には大波となって打ち寄せ、また、ある分野には怒濤となって、人びとをのみ込むことにもなった。逆に、ある分野では高波に乗って、利潤を上げ、傲然と肩で風を切る者もあった。
 戸田城聖の事業は、この波を正面からかぶったのである。彼は、むろん、さまざまな手段を講じたものの、資本の背景をもたない中小企業の例にもれず、悪戦苦闘しなければならなかった。戦後日本の経済復興の陰には、多くの中小企業の倒産という犠牲があった。
 ただ、このころになると、「栄養失調」という言葉は次第に聞かれなくなった。国民は、ようやく慢性的な飢餓状態から脱することができたのである。
 戦後の飢餓状態のなかで、いったい、どれほどの人が「栄養失調」によって倒れていったことだろう。ある詩人は腹を立てて、ラジオ放送で叫んだ。
 ――栄養失調とは、詩人の言葉で言うならば、「餓死」ということである。
 長く国民は、餓死との戦いに、栄養失調の体で、懸命であったわけだ。巷には、服の襟が、だぶだぶになった男たち、頬のとけた、もんペ姿の女たち、老人の表情をした路上生活の戦災孤児たちがあふれ、今では、とうてい想像もつかない、厳しく暗い不幸な光景が、随所で見られた。
 飢餓との戦いは、「米よこせ」運動となり、激越なデモが、全国に頻発した。食糧の絶対量が、欠如していたのである。日本政府には、なんの力もない。占領軍は、こうした危機に、そのつど輸入食糧を緊急放出した。国民の胃の腑を、メリケン粉やトウモロコシの粉で満たしてくれたのである。同時に、悪疫の流行を抑えるために、消毒剤などを大量に使用し、社会衛生の保持に努めてくれた。占領軍が、わが国民に感謝されたのは、この時期の食糧の放出と、保健衛生の施策によるところが、大きい。
 戸田城聖は、この時期、事業の再出発と、創価学会の再建に、挺身していた。それは、すさまじい気迫をもって行われ、確かに成功といえる域にまで達することができたといえよう。だが、戦後数年にして、どうやら飢餓状態を脱した国民が、いざ経済再建に目を向けた時、生活は、荒れ狂うインフレーションの真っただ中にあった。
 戸田は、このインフレの高波にもまれながらも、真剣に舵を取りつつ、事業を拡大し、不況を乗り切ってきた。しかし、インフレの収束と経済自立化を目的とする「経済安定九原則」という、激しい波濤に直面しなければならなくなったのである。
 彼は、事業の縮小と整備とをもって、この局面に対処すべきであったかもしれない。しかし、彼の事業家としての積極性と、人情味あふれる性格は、飢えを忍んで共に戦ってきた社員を、簡単に整理することを許さなかった。
 彼は、事業においては、しばしば目を見張るような英断で、人びとを驚かせた。同時に、貧窮に沈んでいる人たちに、身を捨てて救いの手を差し伸べ、彼を知る人びとを驚かすことも、しばしばであった。
 つまり、戸田城聖という事業家は、現代事業家が持たざるを得ない、ある種の冷酷さを、全く欠いていたといえるであろう。「ひばり男」は、ここでまた、当然、身をひそめることになった。「経済安定九原則」の浸透にともなって、彼の事業は、徐々に悪化していったのである。
 ともかく、食糧事情は、かろうじて好転してきた。四九年(同二十四年)四月には、野菜の統制が撤廃されて、自由販売が許されるようになり、五月には、料理飲食店の営業再開が認められた。さらに輸入食糧も増加し、国民は、ようやく飢餓状態から解放されてきたのである。
 しかし、食糧事情は、やや改善されてきたが、国民の生活は、相変わらず苦しかった。当然、国民経済の確立が急務となってきた。そこへもってきて、東西両陣営の勢力の摩擦から、アメリカは、一日も早く、日本をアジアの防衛基地とすることが、これまた急務となったのである。内外の二つの事情から、何よりも、まず日本経済の自立安定を、図らねばならなくなっていたわけだ。
2  アメリカ政府が、マッカーサーに命じたものは、この目的を急速に達成するための、「経済安定九原則」の実施であった。四八年(同二十三年)十二月、吉田茂首相に宛てたマッカーサーの書簡は、占領下とはいえ、驚くほど強硬な内容であった。
 「これはまた日本人の生活の、あらゆる面において、より以上の耐乏を求め、自由な社会に与えられている特権と自由の一部の一時的な放棄を求めるものである」
 「その目的が日本人全体に共通のものである以上、これに対して思想的立場から反対を唱えることも許されず、その達成を遅らせたり、くじいたりしようとする企図は、公共の福祉をおびやかすものとして抑圧されなければならない」
 軍国主義の抑圧から解放されて、やれやれと思っていた国民は、今度は、突然、GHQ(連合国軍総司令部)によって自由の一部の放棄を求められたのである。
 では、「経済安定九原則」とは、どのような内容であったか、主要な条項をあげてみたい。
 「経済安定九原則」の具体的内容は、次の通りであった。
 一、総合予算の真の均衡を図ること。二、税収計画を促進強化し、脱税者を厳しく取り締まること。三、融資対象は真に経済復興に貢献する事業に限定すること。四、賃金安定を実現する効果的計画を実現すること。五、価格統制計画を強化し範囲を拡張すること――などであった。
 これは、インフレーションを抜本的に収束させ、日本経済を一気に安定させようという強行路線であった。
 衆議院議員総選挙が終わった直後の四九年(同二十四年)二月一日、デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが、トルーマン大統領の委任を受け、GHQの経済顧問として来日した。この九原則に則って経済安定化の路線を確立するためであった。三月七日、彼は、記者団との会見で日本経済の現状を厳しく批評した。
 「日本の経済は両足を地につけていず、竹馬にのっているようなものだ。竹馬の片足は米国の援助、他方は国内的な補助金の機構である。竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある。今、ただちにそれをちぢめることが必要だ」
 ドッジの指導のもとに、GHQが作成した四九年度(同二十四年度)の予算案が、三月二十二日に池田勇人蔵相に内示された。戦後初の黒字予算であった。これを見た池田は、予算編成の難しさに頭を抱えた。
 この予算案は、日本の経済界を苦しめた。インフレーションの元凶といってもよかった復興金融金庫の融資は、三月で停止された。また、価格差補給金の予算も抑制された。これらに頼っていた石炭、鉄鋼などの重要産業は、大きな打撃を受けざるを得なかった。ドッジ・ラインによってインフレは収束に向かったが、資金力のない多くの中小零細企業が、デフレによって倒産した。産業界全体が、未曾有の苦境に直面したのである。
3  事業家・戸田城聖は、この苦境の克服を大胆に図ろうとした。彼は、そのために、資金源としての小さな金融機関を、自ら持とうとしたのである。折も折、この年の六月のある日、彼のもとへ、あつらえ向きな話が持ち込まれた。
 終戦直後、上大崎に臨時の事務所を貸してくれた、あの栗川が、ひょっこり訪ねてきたのである。二人は、冗談ともつかぬ親しい会話を、あれこれと続けていたが、話題の中心は、いつか金融機関のことになった。
 栗川は、なかなか顔が広く、抜け目がなかった。戸田の意中を知ると、栗川は、「それだ、それだ!」と、にわかに顔を輝かせて膝を叩いた。
 「賛成ですね。この時勢だもの、ぼくらの生きる道は、まず金融機関を手に入れることだと思いますよ。ところで、どうなるかわからんが、ひとついい話があるんですがね」
 栗川の話に、戸田は考えた。人を見ることに最も厳しかった彼は、いくら長年の付き合いでも、人によっては、たとえ、耳よりの話をもってきても、絶対にそれを信用してはならぬ、という主義であった。
 栗川の話というのは、彼の知人に、ある購買組合の理事長をしている、大井徹という元高級官僚がいる。その大井が、購買組合を信用組合に変えて経営したいと奔走しているが、信頼すべき協力者がない。それを今、探している最中だ、というのであった。
 「戸田先生なら、ぼくは安心して推薦できる。ひとつ、やりませんか。大井は人格者だが、老齢だし、経営手腕となると危ない。ぼくも、及ばずながら、できるかぎり手伝わせてもらいますよ。大井さんに、さっそく、話してみますが、いいですかね」
 彼の話に、戸田は笑いながら言った。
 「君は、相変わらず世話好きだな。悪い話ではないが、そう簡単なものでもあるまい。君の話でなけりゃ、信用はせんがね」
 「いや、大井さんの方は心配ない。ただ、法的手続きだけの問題でしょう。出資者は、そのまま継続するだけだから、文句のあるはずはない。新しくつくるとなると、そりゃ大変なことらしいですよ。それからみれば造作ないことですよ」
 栗川の言は、もう明日にでも発足できそうな言い方である。戸田は、ちょっと考え込んで無言でいたが、念を押すように栗川に言った。
 「その購買組合は、つぶれかかっているのと違うかね。ぼくも、これ以上、お荷物をしょっては、かなわんからなぁ」
 「そりゃ、大丈夫です。赤字ではないが、大して利潤もない組合というわけです。要するに、営業手腕がないだけでしょう。内容は、しっかりしたものです」
 「もし、そうなら、悪い話ではない」
 「そりゃ、そうです。うまい話ですよ。さっそく、大井さんに話しておきましょう。二、三日うちに会ってみませんか」
 「会うだけなら、いつでも会おう。一切は、そのうえのことにしよう」
 「そりゃ、そうですね。では、明日にでも連絡をしますよ」
 栗川は、イスから立って帰りかけたが、思いついたように聞いた。
 「時に、戸田さん、出版の景気はどうですか。えらく儲けたという話ですが、当たりましたね」
 「まだ、そこまでいかんよ。今年に入って、返本がだんだん増えてきたよ。出版インフレも、もうおしまいだな。なんとか手を打たなければならんと、考えているところだ」
 「まあ、心配しないでください。この話は、必ずまとめてみせますよ。お膳立てをしてきますから……」
 栗川は自信ありげに帰っていった。

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