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日蓮大聖人・池田大作

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道程  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  一九四九年(昭和二十四年)の正月は、戦後三回目の衆議院議員選挙の真っ最中であった。
 暮れの十二月二十三日解散、二十七日公示、明けた一月二十三日が投票日となっている。選挙に正月休みなどはなかった。民自党、社会党、国民協同党、共産党などの各党、および諸派、無所属、合計千三百六十五人の候補者が、四百六十六の議席を狙つての戦いである。
 この総選挙では、腐敗政治への国民の怒りが、爆発したといってよい。
 新憲法の公布以来、議会制による民主主義政治は、すぐにでも理想的な社会を実現してくれるかのように思われていた。長年にわたる軍国主義の悪夢から解放された日本国民である。アメリカ軍の占領下にあったとはいえ、人びとの耳には、「民主政治」という言葉が、新しい時代の到来を告げる暁鐘のように響いたのも無理はない。
 戦後、女性にも参政権が与えられた。そして、数十人の女性議員も誕生した。
 敗戦によって、民衆は、かつてない政治的自由の空気を吸うことができるようになっていた。彼らは、これからは、よい政治が行われるものと期待していた。
 それによって、敗戦の苦難を乗り越え、やがては平和な近代国家として、生まれ変わることもできるだろうと思っていた。つまり、人びとは、一切の希望を、新しい民主政治にかけていたのである。
 ところが、新選挙法による初の総選挙で登場した社会党委員長を首班とする片山哲内閣は、社会党内部の内紛が続いて八ヵ月余で倒れ、これに続く民主党総裁を首班とする芦田均内閣は、昭電疑獄など、相次いで汚職事件が発覚し、わずか七ヵ月で瓦解してしまった。
 政治は、またしても民衆を裏切ったのである。国民の希望は、たちまち絶望に変わった。国民は、深い政治不信をいだき、怒りを秘めながら、総選挙を待っていたのである。
 二十三日の投票の結果、芦田内閣を支えていた社会、民主、国協の三党は惨敗し、吉田茂が率いる民自党が圧勝した。民自党は、解散時より百十二議席を増やして二百六十四議席を獲得し、過半数の二百三十四議席を大きく上回ったのである。
 これに対し、社会党が六十二議席減らして四十九議席になり、民主党は二十二議席減らして六十八議席に、国協党は十五議席減らして十四議席と半減し、それぞれ惨憺たる結果に終わった。その他、労農党、社会革新党なども議席を減らした。民自党以外で議席を伸ばしたのは共産党で、二十一議席増を果たして三十五議席となった。
 民自党の優勢は予想されていたものの、これほどまでの逆転劇になるとは、誰も夢想さえしていなかった。新聞各紙の事前予想も大きく外れたのである。この時、当選した民自党の新人議員には、多くの官僚出身者がいた。結果からみると、このことが、やがて国民不在の官僚政治の流れをつくる発端ともなっていくのである。
 ともあれ、国民は三党連立内閣に愛想を尽かしていたのだ。その批判票が、一方は民自党に、一方は共産党に流れた結果だと考えられよう。
 マッカーサーは、民自党が圧勝した、この選挙の結果を喜んで、さっそく声明を発表した。
 「自由な世界の民衆たちは、いずこにおいても、今回の熱心な、また秩序ある日本の選挙に満足することができる。今回の選挙は、アジアの歴史上の一危機において、政治の保守的な考え方に対し、明確な、しかも決定的な委任を与えたものである」
 この声明から三日後に、ニューヨークで行われたある行事に送ったメッセージのなかでも、彼は、「日本はいまや民主主義的自由の前進基地である」と表明し、日本が共産主義に屈服することはないという彼の確信を述べている。
 吉田保守政権が、盤石の基盤を固めたことに、マッカーサーは満足した。中国の内戦は最終局面を迎えており、一月十四日には、中国共産党が、現行憲法の廃止など和平八条件を提示して、蒋介石(チァン・チェシー)の国民党政府に全面降伏を要求していた。マッカーサーは、中国大陸の共産化の余波が、やがて日本にも及んでくるかもしれないと、ひそかに憂慮していたにちがいない。共産化の進む世界情勢に、アメリカは強い危機感をいだいていたのであろう。
 それだけに、日本が、反共戦線の前線基地として、安定した国家体制を確立する見通しができたことに、マッカーサー心から安堵したと思われる。
2  戸田城聖は、この選挙の結果を見て、民意の向かうところを、極めて身近に知った思いであった。
 指導者は、常に民衆の心の波が、何を願望し、どこに行こうとしているかを、知っていかなければならない。大衆の心をつかむことができるのは、一片の指示でもなければ、命令でもない。機構や組織を動かしたところで、人心をつかむことはできない。その時の条件が調わなければ、民衆の心は動かない。
 大衆は賢である、大衆をいつまでも愚と思っている指導者は、必ず大衆に翻弄されていくことになろう。
 至難と思われる広宣流布も、時と条件とが問題であって、それをいかにして創るかに、一切の困難と辛労が、かかっている。
 遥かなる千里の道は、それがいかに困難であろうと辛労をいとわず、一歩一歩進める以外に、克服する道はない。すなわち、指導者の億劫の労苦によってのみ、時を促し、条件を調えることができるのである。
 戸田は、いかなる辛労をも、断じて、厭うまいと、一人、心に誓って念じていた。
 二月下旬の、ある寒い日、戸田は昼休みに、三島由造に夜の座談会のことを尋ねた。
 「鶴見は、今夜か。よし、ぼくが行こう」
 進んで引き受ける戸田に、三島は、予定表を見ながら言った。
 「先生、今夜は、杉並にいらっしゃる予定になっていますよ。鶴見は、原山君、関君たちが行くことになっています」
 「君は、どこへ行く?」
 「鵜ノ木の小西君のところです」
 「そうか。鵜ノ木は、小西君で大丈夫だろう。君は、ぼくの代わりに、杉並へ行ってくれ。ぼくは鶴見に行く」
 戸田は、鶴見のことが、このところ気にかかっていた。それは、鶴見の最古参の森川幸二の家族を案じたからである。
 前年の秋、森川は、突然、職を失ってしまった。戸田の指導により、信心の動揺はないように見えたが、今年に入ってからは、ほとんど顔を見せていない。つい先日、彼は、森川が食堂を始めたということを耳にした。一家の生活と、信心とが、どんな状態になっているか、戸田は、気にかかって仕方がなかったのである。
 そればかりではない。鶴見の入会間もない会員たちは、実直で、あれほど熱心に信心していた森川が、なぜ、突然、職場を解雇されたのかと、動揺しているにちがいない。戸田には、彼らのそうした姿が手に取るように映っていた。
 不幸な人に手を差し伸べることを避け、人気の波に乗ろうとして、狡猾に泳いでいるだけの指導者がいる。世間では、その実態を見抜けずに、それを偉い人だと思い込んでいることが多い。戸田は、そのような、はかない虚像を求めはしなかった。彼は、最も悩み、苦しんでいる人のところに飛び込んでいって、戦う指導者であった。
 鶴見行きが決まって、戸田が一服していると、蒲田の一青年が、ひょっこり、ある用件の連絡にやって来た。
 外は、寒風が吹いている。青年は、マスクをかけて、帰りかけていた。その時、戸田は呼び止めた。
 「君、今日は、まだ仕事があるのか?」
 青年は、腕時計を見ながら答えた。
 「いいえ、もう半端な時間になってしまったから、家に帰るだけです」
 「そうか、これから鶴見に行こうと思っているんだ。一緒に森川君のところの座談会に行かないか」
 「座談会ですか。お伴します。先生、森川さんはともかく、鶴見は大変ですよ」
 蒲田の青年も、鶴見の青年たちの動静を、敏感に察知していた。やはり、同志として気にかかっていたのであろう。
 「よし、今から行こう」
 戸田は、青年の話を聞き終わると、すぐさま立ち上がった。社員たちは、戸田の珍しい早退に、怪訝な面持ちで顔を見合わせた。
 彼は、コートを着て、鳥打ち帽を被り、青年と共に会社を出た。
 二人の姿は、親子のようにも、師弟のようにも見えた。また、友人のように気軽な雰囲気も、漂っていた。
 国電で水道橋から品川まで行き、京浜急行に乗り換え、鶴見市場駅で下車した。
 駅前の商店街を、すたすたと足早に通り抜け、森川の家に着いた時、まだ街は明るかった。
 この地は、当時は、まだ海岸に近く、田園の名残があった。ところどころに空き地があり、畑になっていた。家の裏側には、一面に田んぼが広がっている。近くを流れる鶴見川は、しばしば氾濫することがあった。
 戸田の思いがけない訪問に、森川幸二は慌ててしまった。嬉しさと驚きが、半々に入り交じったような表情をしている。
 「先生だよ。戸田先生だよ」
 森川は、食堂にいる妻に呼びかけながら、「どうぞ、どうぞ」と、狭い階段を先に立って上っていった。
 いつも座談会を開く二階である。長身の戸田は、身をかがめて、窮屈そうに上りながら、後ろの青年に言った。
 「面白い二階だ。狭き門だよ。頭に気をつけろ」
 細長い二階の座敷は、ピサの斜塔のように、いくらか傾いている。座ると、自分の重力に、いささか抵抗していなければならなかった。時間が早いため、誰も来ていない。
 森川は、あいさつをすますと、懐かしそうに戸田を見た。
 「先生、今日はまた、ずいぶん早いじゃないですか」
 戸田は、それに答えず、頷きながら言った。
 「どうだい、みんな元気か」
 森川には、戸田の声が、耳に入らなかったらしい。彼は、そわそわしているのか、のんきなのか、それでいて真面目くさった顔で、小窓から外をのぞきながらつぶやいた。
 「先生、今年は麦が当たりですよ」
 なるほど、窓の外には麦畑があった。冬を越す麦の芽が、若々しく伸び始めていた。青年は、このやりとりに面食らい、プッと噴き出してしまった。
 戸田は、相好を崩して笑った。
 「そうか、そうか。麦が当たりか」
 麦の、たくましい成育を喜んでいる森川は、職を失っていたとはいえ、いつもの森川である。″春風駘蕩たるものではないか。よかろう、まず心配はない″と、戸田は心で思った。
3  森川幸二は、一九四一年(昭和十六年)の入会であった。翌年十月、男の子の一人が亡くなった時、初代会長・牧口常三郎が、わざわざ葬儀に来てくれた。そこで初めて牧口を知った。彼の弟も入会し、早くから、その成長が期待されていた。四三年(十八年)七月、創価教育学会弾圧の折、弟は神奈川で検挙された。彼は、家庭の信心の破綻から、たちまち退転して出所した。以来、神奈川方面は、終戦になっても、学会との絆は、しばらく途絶していた。
 幸二の長男である一正は、激変する社会の荒波に、目標を失ってしまった戦後の青年である。彼は、少年の日、一、二度会った牧口常三郎を思い出していた。
 牧口が、父たちに向かって、「教育勅語、あれは道徳の最低基準です」と言うのを聞いた時の驚きを、少年の頭脳は覚えていたのである。なんの話題につながる話か、それはきれいに忘れたが、牧口の、この一言は消えなかった。
 戦後、敗戦の辛酸のなかで、教育勅語が道徳の最低基準という意味を現実に知った時、一正は、最高の教えの根本である御本尊が家にはある、と気がつき始めたのである。不思議なことに、折も折、そのころ、戸田理事長が、神田で学会再建に奔走し始めたとの噂が、一正の耳に入ってきた。彼は、単身、戸田に会うために、日本正学館を探し当てた。
 来意を告げ、二階に行くと、戸田は、藤イスに腰をかけ、パンツ一枚で、扇子を使っていた。四六年(同二十一年)の初秋、まだ残暑の厳しい真昼時のことである。
 「鶴見の森川の息子さんか。今日は、やけに蒸すじゃないか。君も暑かろう。裸になりたまえ」
 一正も、確かに暑かった。汗にまみれたシャツを脱いだ。まだ少年らしい体形を残した上半身が現れた。初対面は、裸と裸であったわけである。
 一正は、昼間は占領軍のタイヤ修理工場で働きながら、夜間の大学に通っていた。この初々しい若い大学生に、戸田は、温かな眼差しを注いだ。そして、いきなり生命論を、諄々と説き始めたのである。
 ワラ半紙の上に、十界を書き、懇切丁寧に説明を加えながら、御本尊の偉大さを納得させようとした。
 一正には、耳慣れない仏法用語は、理解しがたかったが、戸田の熱情は、冷静な彼の身を、まるごとつつんでしまった。
 森川青年は感動した。彼が求めていた新しい視野が、見る見る開け始めてきたように思えた。
 「これからは、いつでも来なさい。君の友だちも大勢いるよ。おーい、山平君!」
 山平忠平を呼び、一正に紹介した。人間を育てるには、まず、よい友だち、よい先輩につかせることが大事だと、戸田は思っていたからである。
 「山平君、手がすいているようだったら、森川君に、君から価値論の話を、わかりやすく話してあげなさい」
 「はい」
 学究肌の山平は、ちょっと笑顔になって、机に戻っていった。一正は、その後ろについていき、山平と対座した。
 「人間は、何を求めて生きているのか、君、考えたことがありますか」と始まった。一正は、しばらく思いあぐねていた。山平は、黙ったまま一正を見ている。二人の青年は、どちらも、はなはだ無愛想で、ぎごちない対面であった。
 そのうちに、一正は首をかしげながら言った。
 「そりゃ、幸福ですよ、幸福な生活じゃないですか」
 「そう、その通りだけれど、では、幸福であるためには、人間、何を求めているかです。具体的に、何を求めていると思いますか」
 「………………」
 「それは価値です。価値を求めている……人生の目的は、価値の創造と言っていいんです」
 味気のない話が進んでいった。そして二人の話は、ただ抽象的になった。それでも一正は、価値・反価値、「真・善・美」「美・利・善」などという言葉のあらましを知ることができた。また、この「美・利・善」という価値論を説いたのが、あの牧口会長だったことを初めて知り、なんとなく懐かしく思ったのであった。
 小一時間、語ったあと、一正は、戸田にあいさつをして帰ろうとした。それを見て、戸田は言った。
 「おお、帰るか。友だちに、信心の話をしたことはあるかね」
 「いいえ、まだありません」
 「気の毒な友だちに、話してあげることだ。話すことがわからなかったら、山平君でも、誰でも、引っ張って行きなさい」
 「はい、先生には来ていただけませんか」
 彼は、こう言って、ぶしつけすぎたかと後悔した。が、率直な青年の要望である戸田は、それが大好きであった。
 「わしか! よし、行ってあげよう。友だちや近所の人が、大勢来るようだったら、至急、知らせなさい。お父さんにもよく話して、ひとつ大々的に座談会をやろうじゃないか」
 戸田は、青年の率直な願いを拒んだことがなかった。時には、無茶と思える願いも、簡単に引き受け、あとで苦心惨憺しなければならぬこともあった。「えらい目にあった」と笑いながら、また同じことを繰り返すのである。
 青年たちは、最後まで、戸田に甘え通したが、甘えさせた戸田の偉大さは、いつの間にか、多くの人材を育成していたのである。
 「よろしく、お願いします。ありがとうございました」
 森川一正は、明るい顔で日本正学館を出ていつた。ポケットには、十界論を書いたワラ半紙が、大事に入っている。家に着くなり、その紙を広げて、戸田との会見を父に報告した。父の幸二は、「そりや大変だ」と言った。
 「座談会となると、人を、たくさん集めなけりゃならんからなあ」
 「いいよ、お父さん。ぼく、友だちを大勢連れてくるから」
 「昔も座談会を聞いたが、信心の会合には、そう簡単に人は来るものじゃないよ。芝居見物とは違うからな。お前も、とんだ約束をしてきたものだ」
 「いいよ、いいよ。お父さん」
 「わしは知らんぞ」
 ――後年、たちまち数万世帯の大支部となった、その発端は、こうして始まったのである。

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