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日蓮大聖人・池田大作

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宣告  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  一九四八年(昭和二十三年)十一月十二日、総本山大石寺において、新客殿の落慶式が挙行されていたその時刻に、東京・市ヶ谷では、極東国際軍事裁判(東京裁判)の最終判決が始まろうとしていた。市ヶ谷の軍事法配は、かつての陸軍士官学校の講堂を改装したものであり、戦時中は陸軍省や参謀本部が置かれていた建物であった。
 極東国際軍事裁判については、さまざまに論評されてきたが、あの裁判は、いったいどのような意味をもっていたのであろうか――。
 朝日新聞法廷記者団の手になる『東京裁判』記録をもとに、裁判の模様を再現しながら、あらためて考えてみたい。
 A級戦犯容疑の二十八人に対する裁判は、終戦の翌年、四六年(同二十一年)五月三日に開廷された。以後、検察側の立証、弁護側の立証が延々と続き、検察側が最終論告に入ったのは、四八年(同二十三年)二月十一日、弁護側が最終弁論に入ったのが、翌月の三月二日で、一切の審理が終わったのは、四月十六日だった。そして、七ヶ月後の十一月四日に判決公判を迎えた。実に、二年半にわたった裁判であった。
 この間、二十八人の被告のうち、大川周明は、精神に異常をきたしていると診断されて裁判から除外され、松岡洋右と永野修身の二人が病死して、この日、被告は二十五人となっていた。
 判決文は、英文で千二百ページを超え、ウィリアム・ウェッブ裁判長による朗読は、二日間の休日を除いて、七日間続いた。最終日の十一月十二日午後、判決文は最後の判定の部分に入った。
 午後一時四十五分、二十五人の被告それぞれに対する判定の朗読が開始された。裁判長は、非常な速さで読み上げていった。
 被告全員が有罪と判定された。朗読が終わった時、法廷の時計の針は、午後三時二十七分を指していた。後は、刑の宣告だけである。
 十五分の休憩時間は、瞬く間に過ぎた。
 検事、弁護人が着席した。正面の判事席の背後には、訴追国である十一カ国の国旗が立っている。
 判事たちが、黒い法服姿で入廷し、ウェツブ裁判長が、最後に姿を現して着席した。
 「刑の宣告をする」
 被告が、一人ずつ、アルファベット順に呼び出された。
 被告席に最初に立ったのは、荒木貞夫だった。元陸軍大臣である。
 同時通訳用のイヤホンが、荒木の耳にかけられた。
 三時五十五分、ウェツブ裁判長は、真正面の被告席に目を注いだ。
 「インプリズンメント・フォー・ライフ(終身禁固刑)」
 法廷がざわついた。法廷執行官は、卓上の槌を持ち、テーブルを叩いて注意を促した。
 「ビー・サイレント(静粛に)」の声が法廷に響いた。
 荒木被告は、一礼して退席した。
 荒木の次は、元陸軍大将の土肥原賢二である。緊張しているのか、イヤホンを耳にかけるのに手間取った。
 「デス・パイ・ハンギング(絞首刑)」
 彼も、一礼すると、さっと退席した。
 そのあとに橋本欣五郎、畑俊六、平沼膜一郎と、終身禁固刑の宣告が続いた。しかし、次の広田弘毅に絞首刑が宣せられた時、法廷内は、一瞬、ざわめいた。外務大臣も務めた元首相の広田は文官であり、軍人としての肩書はなかった。
 広田は、目を閉じ、淡々として宣告を聞いていたが、イヤホンを外すと、家族に別れを告げるかのように、二階の傍聴席に目を向けた。
 緊迫した空気の在かで、一人ひとりが刑の宣告を受けていった。彼らの服装は、軍服、国民服、背広など、さまざまであった。
 最後に、東条英機が被告席に立った。
 かつて、この建物には大本営陸軍部があり、権力の頂点にあった彼は、ここから全国民に号令を発した。今、その場所で、彼は裁きを受けているのであった。その姿には、人間の運命の厳しさと、巡り合わせの不思議を思わせるものがあった。
 軍服姿の彼は、イヤホンを通して絞首刑の宣告を聞くと、傍聴席を一瞥して退廷していった。
 このあと、病気で欠席の賀屋興宣、白鳥敏夫、梅津美治郎の三被告への終身禁固刑の宣告が、一括して行われた。
 A級戦犯被告二十五人への断罪は終わった。
 「これをもって閉廷する」
 ウェツブ裁判長が、まず席を立ち、続いて全判事が退場していった。
 傍聴者のある人は、判決を意外と思い、ある人は、当然と考えた。それぞれの思いが交錯し、傍聴席にはざわめきが広がっていた。
 絞首刑は、東条、広田、土肥原、板垣、木村、松井、武藤の七人である。
 終身禁固刑は、木戸、平沼、賀屋、嶋田などの文官、武官の十六人であり、東郷、重光の元両外相は、それぞれ禁固二十年と禁固七年を宣告された。
2  この判決は、直ちに電波に乗って、全世界に報道された。
 ドイツの戦争犯罪人に対するニュルンベルクの国際軍事裁判は、既に終結していた。今、極東国際軍事裁判の終結を知って、世界の人びとは、事実上、第二次世界大戦の最後の幕が下りたのを見たのである。
 この二つの裁判は、戦勝国が法廷を構成し、敗戦国の戦争責任者を審判するという、世界史上にも例のないものであった。
 これまで、国際法の通念によって、捕虜や非戦闘員への虐待や虐殺などに関して、その直接の実行者か、それを命じた者が、戦争犯罪を問われて裁かれたことはあったが、戦争そのものに対する責任者の追及ということはなかった。戦勝国は、敗戦国に対して、賠償金や領土の割譲を要求して、戦争責任を慣わせるのが常であった。言い換えれば、国家間の戦争において、勝者が敗者の戦争責任を、個人の責任として追及したことはなかったのである。
 ただ、例外的な事例として、第一次世界大戦の際、ドイツ皇帝が戦争責任を問われたことがある。一九一九年(大正八年)六月二十八日、ベルサイユにおいて、ドイツ降伏の講和条約が、連合国とドイツの間に結ばれた。その際、皇帝ウィルヘルム二世の責任を追及するために、連合国側が特別裁判所を設置しようとした。
 しかし、皇帝は戦争終結の直前にオランダに亡命していた。そのオランダが、皇帝の身柄引き渡しを拒否したため、結局、裁判は行われなかった。
 ところが、第二次世界大戦を通して、戦争犯罪の概念は大きく転換された。敗戦国の指導者たちは、戦勝国の裁きによって、個人としての戦争責任を糾弾され、処罰されたのである。その第一歩は、ニュルンベルク裁判におけるナチス指導者たちへの断罪であり、それに続く東京裁判では、日本の戦争指導者たちが弾劾された。
 戦争犯罪の概念の拡大と質的転換は、当然、さまざまな論議を引き起こした。ある人は、国際法による法理論のうえから、裁判の矛盾を突いた。またある人は、人道上から裁判の結果に反対した。しかし、復讐という本能的執念から、この裁判を妥当であるとする人もいたし、あるいは、戦争根絶を念願する平和への対策としての論点から、こうした裁判もやむを得ないと考える人もいた。それぞれの立場から、賛否さまざまの議論が沸き起こった。
 極東国際軍事裁判が、二十世紀最大の関心事の一つであったことは疑いない。欧米各国の論調は、この断罪を至当な宣告とみた。だが、十一人の判事全員の意見が、一致していたわけではない。
 そのなかで、この裁判に異議を唱え、全員無罪を主張したインド代表の判事と、この判決を支持し、アメリカの原子爆弾使用までも、目的のためには正当であったと主張したフィリピン代表の判事は、裁判をめぐるさまざまな意見の両極端に立つものであった。
 だが、最も深刻なショックを受けたのは、民衆であったろう。衣・食・住の乏しい不安定な日々を送りながら、自分一人生き抜くことに懸命であった人びとは、他人の運命にかかわっている余裕などなかった。その人たちにも、この判決は、八月十五日の敗戦の詔勅に次ぐ、第二の衝撃であったにちがいない。
 占領下にあって、人びとは、それぞれ複雑な思いと感慨をもって、裁判を見つめていた。肉親を戦争で失った人びとは、この裁判には不満であっても、断罪そのものには賛成していたかもしれない。復員兵たちは、彼らの生涯を、かくまで狂わせてしまった、かつての戦争指導者たちに対する宣告を聞いて、憤懣を叩きつける相手を急に失い、拍子抜けしたかもしれない。
 多くの国民は、この裁判の終結にあたって、敗戦という冷厳な現実を、心の奥で確認させられた思いであった。だが彼らは、それぞれの感慨を、公然と口にすることは避けていた。それは、占領下にあるという意識からであった。
 日本の民衆は、初めて「無条件降伏」ということが、いかなる実態であるかを、はっきりと自分の目で見たのである。彼らのなかには、この時、あらためて戦争に対する憎悪と、平和への悲願をいだいた人もあるだろう。それらの人びとは、真の恒久平和の達成を、民族の未来の課題としなければならないと、強く感じたにちがいない。
3  戸田城聖は、これらの戦犯者から最大の被害に遭った者の一人として、深い思いに沈んでいた。
 一国が誤った宗教を尊崇し、正法を弾圧する時、梵天・帝釈が治罰を加えさせる――という仏法の法理が、かくも正確に、最後の裁判まで貫かれた実証を見たのである。
 ″正法と邪法の区別、正法を弾圧した時の梵天・帝釈による治罰ということを知っている者は、今の日本には皆無といってよい。それを語ったところで、誰も心から信じはしないであろう。現在は、そういう時だ。だからこそ、広宣流布の戦いを起こさねばならない″
 一切を現実に見た彼は、その一切を胸に畳んだ。
 戸田の弟子たちが、この判決について、彼を苦しめた戦犯たちに対する、激しい憎悪を言葉にした時、彼の心は重かった。
 ただ、こう言っただけである。
 「あの裁判には、二つの間違いがある。第一に、死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう。もう一つは、原子爆弾を落とした者も、同罪であるべきだ。なぜならば、人が人を殺す死刑は、仏法から見て、断じて許されぬことだからだ。また、原爆の使用は、いかなる理由があろうとも、あれは悪魔の仕業ではないか。戦争に勝とうが、負けようが、悪魔の爪は、人類の名に、おいてもぎ取らなくてはならん。原爆の使用者は、戦犯として同罪にすべきだ」
 裁判の進行中に、原爆投下の問題に触れたのは、梅津担当の弁護人ただ一人であった。それは、アメリカのベンブルース・ブレイクニーという弁護人である。しかし彼は、原爆の非人道性を訴えたのではなかった。戦争における殺人は、いわゆる殺人罪ではないことを主張し、戦争における個人責任を問おうとする検察側の不当性を訴えるための引例にすぎなかった。
 「キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名を挙げる事ができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も、我々は承知している。彼等は殺人罪を意識していたか。してはいまい。我々もそう思う。それは、彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである」
 これは、勝者の殺人は合法となり、敗者の殺人は犯罪となるような法は、どこにあるのか、という意味の詰問であり、抗議である。つまり、国家の行為である戦争における殺人は、殺人罪に問われないのであるから、国家の機関として戦争を指揮した個人の行為を、犯罪とすることはできない。ゆえに、戦争裁判で個人の責任を追及することは、国際法のうえから不当である、というのである。
 これは、東京裁判が、戦争犯罪のなかに、「平和に対する罪」を追加したことによって生じてきた問題であった。戦争は、国家の行為であるから、戦争それ自体を裁くには、国家の上位に、国家の行為を裁く機関がなければならないが、そのような機関は存在していなかった。したがって、従来、戦争は犯罪とはされなかったのである。ところが、東京裁判は、戦争を裁こうとして、戦争を計画し、準備し、実行した罪の責任を、個人に求めたのである。
 戦争が悪であることは、誰しも認めるところである。したがって、戦争を指導した者も悪といえよう。しかし、それを罪として罰するには法が必要である。そのような国際法は、この当時、確立していなかった。
 弁護側は、この点に着目し、東京裁判の法廷には、戦争を個人の責任として裁く権利があるか、ないか、いわゆる管轄権の問題を激しく追及した。そして、この問題の底流となった、勝者が敗者を裁く場合、いったい公平な裁判というものが、あり得るのかという疑問は、人びとの胸に、最後までつきまとって離れなかった。
 連合国は、厳正にして正義の裁判を、わざわざ試みようとした。

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