Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

結実  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  秋雨の降る夜道を、戸田城聖は、傘を差して歩いていた。闇のなかに、潮の香りが漂っている。ここは、千葉県・浦安の海岸に近い裏町であった。
 彼は、この日、夕刻早く、官庁に勤める山平忠平を伴って、浦安に向かったのだが、江戸川の対岸の渡船場に着いた時には、あいにく満潮時にぶつかってしまった。この辺は、地盤沈下で橋桁が低くなり、満潮時には、渡し船が、橋の下をくぐることができなくなっていた。
 彼は、川面に降り注ぐ雨を眺めながら、長い時間、待たねばならなかった。そんなことで、河口近くの浦安の町に着いたのは、既に九時を回っていた。
 暗いぬかるみの道である。道の水溜まりを避けながら歩いていたが、靴の中はビシヨピショであった。戸田は、歩きながら、ふと思いついたように山平に言った。
 「山本君はどうした? まだ、来ないじゃないか」
 山平忠平は、戸田の言葉に、初めは、なんのことか気づかなかった。濡れた足の裏が、気になっていたからである。
 「山本君は、いつ来るのかね?」
 戸田に重ねて言われた時、彼は、″しまった″と思った。
 ――二十日ほど前、日本正学館の編集部に、誰か適当な人はいないか、と戸田に聞かれた時、とっさに文学好きな山本伸一を、軽い気持ちで推薦していたのである。彼は、山本に、推薦したことは話したが、積極的に手続きを進めることを怠っていた。
 今の、戸田の待ちかねているような言葉を聞いて、彼は意外に思い、自分の怠慢を恥じた。
 「話してあります。さっそく連絡を取って連れてまいります」
 「そうか。体は、よくなったかね?」
 山平は、ますます意外に感じられてならない。ここ一年、新入会員の青年は、次々と数が多くなっている。そのなかで、戸田は、平常、山本伸一の名前を一度も口にしていないのに、まるで旧知のように、彼の健康状態まで案じている。
 「元気です。大丈夫だと思います」
 「そうか。雑誌の編集は、まず体力だからな。時間は不規則だし、神経はイライラするし、締め切りには追っかけられるし、結局は体力で押し切る仕事になってしまう。山平君も、編集より、今の仕事の方が楽じゃないか」
 「そりゃ、楽といえば楽です。その代わり、一つのものをつくったという楽しみや、感激は全然ありません」
 「そうか。だが、そう、ぜいたくを言うもんじゃないよ」
 暗い道に、二人の笑い声が弾み、水をはねる足音が、響いていった。
2  山平忠平は、一年前まで、日本正学館の編集部にいて、大学に通っていた。戦時中の時習学館時代から戸田のもとで働きながら、学生生活を送っていたのである。山国の寒村の小学校を出た彼は、都会に出て刻苦勉励し、専検(旧制の専門学校入学者検定試験)に合格したあと、時習学館に職を得て、大学にも通った。
 学徒出陣で、学業半ばにして航空兵となった。内地の基地にいた彼は、一九四五年(昭和二十年)八月、終戦と同時に帰郷した。
 そして、九月には上京して、目黒駅近くの時習学館を訪れた。時習学館の跡は、一面の焼け野原であった。しばらくして、山平は、やっと日本正学館の仮事務所に赴くことができた。こうして、彼もまた、戦後、いち早く、戸田のもとに駆けっけ、弟子の一人となった。そして社員となり、大学に復学し、苦しい生活と戦い、ながら、戸田の膝下で訓育を受け、創価学会の青年部の先駆者の一人として、活躍してきたのである。
 入会して六年がたつた四七年(同二十二年)九月、彼は大学を卒業した。そして、官庁に入った。同時に、良縁を得て結婚した。
 敗戦と同時に、無残にも貴重な青春の夢を裏切られた多くの青年群のなかにあって、山平忠平は幸福であった。彼は、冥益の偉大さをしみじみと実感し、なんの不安もなく、着実な人生を歩んでいった。彼は、常に御書を離さず、昼休みや休憩時間など、暇さえあればそれを読んだ。彼の研績は、御書の隅から隅までに及び、目覚ましい教学力の向上を示していた。
 夜は、学会活動に率先して参加した。たゆみない彼の信心活動は、生涯の得がたい福運を積んでいった。
3  この雨の夜、彼は、戸田の無頓着に歩く姿にひやひやしながら、先に立って案内していた。視力の弱い戸田を助け、暗い水溜まりに気を配る山平は、真剣な表情であった。
 座談会場に着いた時、数人の会員が残っているだけであった。戸田が遅いので、散会したという。会場の責任者は、恐縮して悔しがった。
 「誰が悪いのでもない。散会して結構です。遅れて来た、ぼくも悪くない。悪いのは、あの満潮というやつだよ」
 戸田は、悠然と笑い飛ばし、責任者を慰めるのであった。気の弱そうな責任者は、明るい表情に変わった。ほかの残った人びとも、急に明るい顔になって、口々にしゃべりだすようになった。
 戸田は、故郷・北海道の厚田村を思い出していた。
 ニシン漁で賑わった厚田村は、いつかニシンが来なくなり、衰微したが、東京湾に臨むこの町には、まだ漁師町の活気があった。
 社会は、やや落ち着いてきたとはいうものの、敗戦から三年しかたっていない。経済が安定するには、まだ時間が必要であった。戦後の混乱は、この漁師町にも暗い影を落としていた。彼らは、皆、深刻な生活問題をかかえて、戸田に、その指導を求めきたのである。
 問題は千差万別で、なかには絶望的に思えるものもあった。しかし戸田は、たとえ最悪の場合であっても、実態を深く理解したうえで、信心を根底に、力強い指導をしていった。彼は、生活に根を下ろさない信心は弱く、気休めにすぎないこと、そのような信心では、問題解決への力とはならないことを強調した。
 戸田の指導には、気休めは一言もなかった。彼は数々の体験をあげて、不可能を可能にする御本尊の無量の功力を説いた。会員たちには、それは遠い回り道のように思えてならなかった。しかし結局は、これが唯一の具体的で、確実な道であることを、皆、納得していった。そして、納得してからは、自ら進んで行う信心へと、変わっていくのであった。
 一時間足らずの短い時間であったが、素朴な彼らが頷いて、顔を輝かせて自分を見つめているのを知ると、戸田は立ち上がった。帰りの時間が切迫している。再会を約し、彼は、山平を促して、また雨のなかに出ていった。
 風は強くなり、雨は一段と激しさを加えてきた。

1
1